2-3. 死んでしまった彼の話、サーカス、業火卿

 Edward



 バネ足ジャックに意識を飛ばされたエドは、真夜中の海に潜ったかのように、ゆったりと沈んでいく感触を味わった。暗闇の底に足がついた瞬間、景色が晴れ、黒くすすけたロンドンの街並みが眼前に広がった。

 夢の世界のロンドンは、現実のそれとは様相が少し異なる。赤紫色を帯びた空を灰色の雲が流れ、目に映る何もかもが、セピア色のベールを被せたようにくすんでいた。

 2年前、メルと最後に会った日の記憶。脳に焼きついて、これまでも幾度となく夢に見てきた。


       *



 エドは、ロンドン橋から下流に1マイル下った川沿いを走っていた。

 石段を駆け降りて船着き場に降り立つと、真っ黒に汚れた子どもたちに出くわした。石炭船の荷下ろしで生じるおこぼれ目当ての屑拾いだ。慈悲を乞う子どもたちを押しのけ、エドは手近な一人漕ぎ船スカルに飛び乗った。船頭に銀貨を投げ、川を下るよう命じる。

 製革所やタール工場の廃液が流れ込むせいで、河水はカラメルのように黒く光り、粘っこい。おびただしい煙突の吐き出す煤が空に薄い膜をかけ、日暮れにはまだ時間があるのに、黄昏たそがれめいている。

 煤煙の欠片が舞う薄汚い霧の中、錆びて赤茶けた鎖に繋留された老朽船が浮かび上がった。


「……監獄船」


 ――実物を見るのは初めてだ。オーストラリアの流刑地までもつのか、このボロ船?

 船べりに腕をかけ、こちらに背を向けている人影が目に留まる。エドが声を張り上げた。



「メル!」



 桟橋に飛び乗ってタラップを駆け上がる。メルは涼しい笑顔でエドを迎えた。


「びっくりした。君がここまできてくれるとは思わなかったよ」


 メルは中性的な顔立ちによく映える、慈悲深そうな笑みを浮かべた。初めて会ったとき――エドを解剖教室に誘った日からまるで変わらない。エドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「ハンター先生から伝言だ。『監獄船の専属医なんかよして、解剖教室に戻ってこい』ってよ」

「なるほど、エド、君の意見は?」

「お達者で、そして死ね」

「君は本当に、ボクのことが大っ嫌いだね」


 メルはくすくすと笑ってみせた。何処か女々しい笑い方も、恵まれた容姿のおかげでさまになる。


「実際、死んでもおかしくない環境だよ。船の衛生は最悪で、病人で溢れかえってるし。でも、だからこそ経験を積める。ほら、医聖ヒッポクラテスも『医者を目指すなら戦場に行け』って言ってたでしょ?」


 メルは古代ギリシアの原典を正確な発音で引用した。裕福な商家の生まれだけあって教養が深く、ラテン語やギリシア語に堪能なのだ。


「実験台に苦労しないのは魅力だよ。人並みの価値を持たず、好き勝手弄くれる人体が溢れてるから」


 柔和な笑みを浮かべてメルは言った。声や表情、身にまとう空気だけが、本質に反して優しげだ。


「お前さ、罪の意識とかねえのかよ?」

「だって慣れてるもの」

「絶対ろくな死に方しねえな」

「知りたいことにたどり着ければ、それでいい。業火の中でもぐっすり眠れる」

「地獄なんて信じてんのか?」

「当たり前だろ。ボクは敬虔けいけんなる国教徒だよ? 君と同じでね」


 メルがまっすぐにエドを見据えた。エドは首裏に手をあて、ため息をついた。


「……生憎あいにく、奇跡の類は信じてねえよ」

「奇跡を否定しただけでしょ。トーランドの理神論。死後の復活を信じてないだけで、君は神を信仰してる」

「……何で他人の宗派知ってんだよ」

「見てればわかるよ。君がよく読んでるボロボロの本、あれ聖書でしょ? 多分、あのの遺産かな、ノラだっけ?」


 エドがわずかに眉根を寄せた。メルは船端に背を持たせ、嬉々とした顔で指を組んだ。


「大事な人を喪って、死者の面影を追う形で医学の道を志す人間は大勢いる。君の場合、死者から聖書を受け継いだんだね。君はノラのせいで、神への信仰を捨てられないんだ」

「珍しい話でもねえだろ。ハンター先生だって英国国教徒だ」

「ハンター先生は独自の理屈で神は解剖を認めてると解釈し、気兼ねなくメスを振るう。君は違うよね、エド? 君は死体盗掘の罪深さを誰よりも理解してる。復活師を生業なりわいとする人間としては良くないね。職務と信仰の板挟み。いつか気が狂うよ」

「構うか。知りたいことにたどり着けりゃ、それで……」


 言ってから、エドは苦虫を潰したような顔をした。誘導に引っかかり、さきほどメルが発した台詞をなぞってしまった。

 メルの顔に、ひときわ輝くような笑みが浮かんだ。


「ボクらは罪を犯し、後戻りのきかない賭けに出たんだ。真理を胸に地獄へ堕ちるか、何もわからないまま報いだけ受けるか。他人の命を使い、試すと決めたことを試し、最後には神様の采配を受け入れる」


 メルが指を解き、芝居がかった仕草で両腕を広げ、古詩を諳んじた。ヴェルギリウスの『アエネイス』の一節。



「『運命が運び、連れ戻すところに、われわれは従おう』」



    *


 半年後、メルが乗り込んだ監獄船で、囚人たちが叛乱はんらんを起こした。オーストラリア大陸に逃亡した囚人たちは、誰一人として捕まっていない。血の痕跡を船上に撒き散らし、看守と船員は姿を消した。

 メルもまた、海上で行方不明となった。


「あの男は、囚人を奴隷も同然に扱っていたらしい。慈悲を与えられたはずもない。さぞむごたらしい死に様だったろうな」


 エドに知らせを寄越した役人は、そう言い添えた。エドは憐れむ様子もなく、肩をすくめた。


「ツケを払っただけ、文句はないだろうよ」 


 ハンター医師からメルの遺品の処理を任されたエドは、標本や研究資料だけ抜きだすと、他は全て灰にした。

 火の番をしながら、エドは聖書に目を落とした。


 終末の日、空が割れ、イエスが天使の軍勢を引き連れてやってくる。死者は新しい肉体を与えられ、復活する。イエスは死者を墓から連れ出し、神の王国へと向かう。


 それが、聖書に記された世界の終わりだ。だから人々は、イエスに先んじて死者を墓から連れ出してしまう者――エドたち死体泥棒を、復活師と呼ぶ。復活師は、新しい天への旅路たびじを邪魔する者とされ、都市の闇へと追いやられる。

 エドは聖書を閉じると、軽く広げた手のひらをじっと見つめた。


 ――神の子の役目を奪ったむくいが、いつの日かきっと、目の前に現れる。

 ――俺にはそれを、黙って受け入れる義務がある。




       *





 冷たい風が首筋を切って、エドは目を覚ました。薄い暗闇の中、乾いた空気を頬に感じる。

 ――墓地じゃないな、ここ。

 ――バネ足は、俺を何処に連れ来た?

 エドは、後手に縛られていた。体が濡れている――揮発性の高い油のにおい。ついさっき、嗅いだばかりだ。振り返ると、作り物らしい十字架がそびええたっていた。


「……これ確か、フォークスの」


 エドの脳裏に、火あぶりにされたガイ・フォークスの姿が蘇る――大篝火の夜ボンファイアナイトに合わせた処刑台――バネ足の趣味じゃないな――これを用意したのは、雇い主の――。


「おはよう、復活師。がサーカスへようこそ」


 闇から滲み出るように、壮年の男が姿を見せた。シルクの山高帽に黒のフロックコート、そして銀のバックルで飾った靴――上流階級の身なりだ。男は持ち手にアイボリーの獅子が彫られたステッキを床に立て、こちらを見下ろしてくる。

 男が指を鳴らすと、エドたちを囲む松明に次々と火が灯り、炎の輪が広がった。

 エドたちは砂上の舞台の中心にいた。見上げると、紺色の天幕が広がっている。一段高い位置で簡素な作りの見物席がぐるりと舞台を囲んでいるが、観客の姿はない。冷たい空気が澄みわたり、しんと静まり返っている。


「……移動劇場を貸し切りかよ、豪華だな」

「どの道今宵は休演だ。一座の見世物師はみな、パレードの手伝いで街に出ている」

「……懐かしい夢見たよ、メルが出てきた」

「そうか、奴がいたなら悪夢だな。そうと分かっていたなら、もっと寝かせてやったんだが」


 男はパイプを咥え、また指を鳴らした。パイプの中で火花が散り、雁首から紫煙が上る。エドは呆れたように首をすくめた。


「相変わらず手品が好きだな、あんたは」


 目の前の男は、眉唾ものの噂も含め、7つの顔を持つことで知られている。

 ラテン語やギリシア語はもちろん、中国語やアラビア語、サンスクリット語にまで精通する語学研究家。齢100歳を迎えた不死の錬金術師。作曲家兼バイオリニストとして活躍するフランス貴族。古代都市バビロンを闊歩する時間旅行者。ロンドンで暗躍する悪党一味の統領。賭場とサーカスを経営する商人。秘密結社業火クラブを再興させた悪魔崇拝者――それぞれの顔に尊称や蔑称が与えられている。エドは、悪魔崇拝者の称号を選んで呼んだ。


「お久しぶり、業火卿、サン=ジェルマン殿」


 業火卿は6年前、突然ロンドンに現れた。以来彼は解剖教室にとって――正確に言えば、オーガスタス・メルヴィル個人にとって――貴重な献体提供者となった。

 メルはエドと違って、死体泥棒に手を染めた経験がない。メルは投機で稼いだ資金を使い、業火卿の抱える屍体を買い取っていたのだ。業火卿がどうして幾千もの屍体の在庫を持て余していたのかについては、エドも知らない。知れば命はないのだろう。


「会うのは久しいが、貴様の噂はよく耳にするぞ、若き復活師。冷徹で気の狂った死体泥棒。かつてロンドンを騒がせた悪魔医師の弟子。渡り鴉のあだ名は、女の屍肉を好んで喰らう性癖に由来すると聞いたが?」

「さあ、勇敢なる騎士の魂が宿るんじゃないか?」


 冗談めかしてエドが言うと、業火卿は顎を撫で、「肝は据わっているようだ」とつぶやいた。

 渡り鴉は、ロンドン大火で生じた屍体をむさぼり爆発的に数を増やしたと伝えられている。その一方、不気味な屍肉食らいのイメージに反し、誇り高きアーサー王の化身として神聖視されるケースもある。


「貴様はいつも、生意気な顔で笑う」


 業火卿はステッキでエドの顎を上げさせると、目を細め、エドの瞳を覗き込んだ。威圧感に、エドの肌がひりつく。舞台を囲む炎が、一斉に押し寄せてくるように感じた。


「己が罪を自覚せず、死者を弄ぶ愚か者が」


 業火卿は、パイプの雁首をエドの頬に押しつけた。皮膚が焼け爛れていく。エドは眉ひとつ動かさず、不遜な目つきで業火卿を睥睨した。


「なあ、業火卿」


 松明の炎に照らされ、エドの目元に影がさした。わざとらしく首を傾げ、15の少年にふさわしい、純真無垢な笑みを浮かべる。




「娘さんの身体解体バラしたの、やっぱりまだキレてんの?」



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