蓮の花の季節、君を思ふ
jorotama
蓮の花の季節、君を思ふ
縁側に腰を下ろし、秀治は庭を眺めていた。
日差しの強い夏の昼間。麦茶のグラスを老いの掌の中に納め、この老人が現実に重ねて幻視するのは過去の想い出。
……駒江がこの家に嫁に来てくれたのは、ちょうどこんな暑い日だったなァ。
微風にガラスの風鈴がカリンと音を立てた。
広い田舎家の庭を囲む
山茶花の生垣の外に広がるのは実りの色づきを待つ稲穂の海と、薄紅に牡丹、白と色とりどりのハスの花々。
家の周囲はハス田と水田。あとは重たく緑の色に盛り上がる里山か竹林で、その合間にポツリポツリと家々が建つ。
近隣には学園都市として知られる街があり、同じ町内には工業団地や大規模住宅地もあるにはある。だが、町の中心から外れた綿貫家の近辺は昔も今も殆ど変わらぬ田舎の景色。
秀治が駒江を迎えた頃は、今よりももっともっと鄙びた田舎だった。
……いや、違う。
秀治は当時の記憶を辿って胸の中で首を振る。
この霞ヶ浦周辺の地域がレンコンの生産地となったのは、戦争の後。昭和の三十年代の事だが、駒江が来たのはもっとずっと前だった。ならばあの頃周囲にハス田は無い。
老いのせいか、このところ秀治は自分の歳やこまかな年数などを忘れがちだ。その当時の記憶は鮮明でも、それが今からどれほど前の事だったのかがあやふやなのだ。
「駒江は……本当に綺麗だったなァ……」
嗄れた呟きが秀治の口からこぼされた。深く皺を刻んだ口元には笑み。
広い庭には人影無し。冠婚葬祭すべてを片付けられる田舎の古い屋敷はだだっ広く、通いの家政婦は台所で今日の昼食と夕餉の下ごしらえをしている頃。
秀治が草履履きの足を置く沓脱石をにじる蟻だけがこの呟きを聞いただろうが、青々と芝が覆う庭には人間の姿は見えない。
彼の目には過ぎ去りし日の光景が見えていた。それは秀治の最愛の相手である駒江がこの家に来た忘れられない一場面。
花期を終え薄緑の穂を葉の間から覗かせる稲は青い波。田んぼの畦あぜをゆっくりとその行列は歩いた。
カポリ、カポリと、田舎道に響く蹄の音。
先頭の馬の紅白の引手を引くのは、世話役と秀治の二人だ。
夏のこと、紋付袴の正装はひどく暑い。額となく首となくをとめどなく流れ出る汗が手拭いで拭うまもなく日差しの中に蒸散した。
傍らを歩く明るい栗毛の馬体が、汗にキラキラとまぶしく輝いたのを老人は覚えている。
当時日本は既に戦争の最中にあった。だが戦況の逼迫は一般には伝えらられておらず、新聞紙面を賑わせるのは威勢の良い事柄ばかり。
そんな中のことだ。近辺で旧家と知られる
後の時代の流れを思えば随分と呑気なことを……と、秀治はこの光景を振り返る。だが、お陰で駒江の晴れ姿を目にすることが出来たのだ。両親や親戚の見栄えもたまには悪いこともない。
秀治には、このすぐ後に出征の時が迫っていた。そうでなければ恐らく秀治と駒江のことは認められなかった。
旧家の跡取り息子と貧しい農家で生まれた駒江では、住む世界が違う。どこの馬の骨とも知れぬ相手と……と、秀治の父は眉を顰めた。
家督は弟の周三に、自分は家を出ても良い。だから駒江との仲を認めてくれと秀治が無理をおして進めた話だった。
……一目惚れだったのだ。
貧しい家に育ち、売られる先も決められていた駒江を無理の無理やり、それこそ札びらで頬を叩くような強引な話し合いの末に手に入れた。
今に思えば若さゆえの無鉄砲。彼女を自分の物とした行動自体に後悔はないが、思えばそのせいで駒江には両親との関係で苦労をさせることになった。
『たいしたことじゃないわ』
駒江がそう言ってくれたことが幸いだろう。
好む好まざる関係無し、自分を心底好いてくれもしない相手を自分の身体に乗せずいられたのは貴方のお陰と彼女は笑う。
秀治が戦地に発った後、綿貫家で馬車馬のごとくこき使われ笑いごとではなかった筈だと秀治は思う。
『でも、秀治さんは早く戻ってきてくれたでしょう?』
悲しげな笑みを浮かべ、俯いた駒江が見るのは秀治の足元。
沓脱石の上に乗せた草履は左だけが生身で、右の足は義足であった。彼の右足、膝から下は戦地での怪我がもとで永遠に失われてしまっていた。今はこうして進んだ技術の義足もあるが、あの当時の義足などこれと比べるべくもないお粗末な品だ。
片方の足を無くし不自由な生活となりはしたが、生きて戻ることが出来ただけ幸せだと秀治は思う。
怪我を負った秀治と入れ替わり。近くにあった土浦海軍航空隊の飛行予科練習生であった弟の周三は、遠い空へと飛び立ちそのまま帰らず。同じ尋常小学校で学んだ幼友達や旧制高校までの学生時代の同窓生らも一人旅立ち二人旅立ち、あの戦争の時代が終わって後、青春を語り合い笑いあった友の中、無事に戻らなかった者の数は両手に足りない。
命があっただけでも幸い。しかも彼の傍らには片足の秀治を支える駒江がいつでもあった。
それこそ彼女は彼の足となりどこへ行くにも付き従い、身を粉にして働くその姿に、いつしか両親も駒江を見る目から険しさを消した。
戦後の復興期の激動に揉まれながらも今の今まで生きて来て、振り返る人生は豊かなものだったと秀治は思う。
ただ胸の底に、消せない切なさが疼くのはいまここに彼女……駒江の姿がないせいだ。
山茶花の生垣に囲まれた庭を芝で覆ったのは、駒江の提案。
『砂もいいですけど、芝の方がいいかしらねぇ』
青々とした芝生のところどころに空く穴は、盆休みに訪れた孫やひ孫らが元気にこの庭を駆け回ったその痕跡だった。
夏の賑やかな数日間をこの庭に過ごした後、子供らは去って行った。今はこうして蝉時雨の中、ぼんやりとその耳の奥へ残る足音を思い出す老爺がただ一人残るのみ。
激動の時を生き抜いて、秀治は一人静かに庭を眺める。
孫らの声やこの庭を駆け回る姿の幻、つい最近の出来事へ流れた思考も一巡り。老人の追憶はまた最愛の者がここに来たあの日の思い出に戻ってゆく。
ふと、あの日に聞いた馬の蹄の音が聞こえたような気がして、秀治は芝に覆われた庭から山茶花の生垣の始点にして終着点。並び立つ御影石の門柱へと顔を向けた。
老いた目に映るのは、門の間を抜けて来るつややかな栗色の体毛に金色の尻尾の尾花栗毛の馬一頭。
その光景はあの日のままにまるで同じ。
額から鼻梁の中心までを真っ直ぐに白い毛が彩る流星鼻梁鼻白の丹精なライン。四本の脚部はまるで白足袋を履いたかのように、蹄から脛の半ばまでの四長白と言う麗しの姿。
カポリ、カポリと舗装された道路に響いていた蹄の音は、芝の庭に入りドッ、ドッ、ドッ……と言う鈍い響きに変わっていた。
よく手入れされた蹄の上にわずかに膨らんだ中手指節関節の美しさ。
ほっそりとしておりながら力強い脛と中手指節関節よりもゴツゴツと盛り上がる手根関節は、中間手根骨、
四肢の全て手根関節内側にあるゴソゴソとした質感の夜目すらも、秀治の目には魅力的に映る。
「綺麗だなぁ駒江ぇ……」
縁側に歩み寄った栗色の馬が秀治の前に立ち止まり、ぶるるるる~んとひとつ嘶いた。
「ヒヒヒーン、ブルルル(嫌ですよ秀治さん。なにいきなりそんな事をおっしゃっているんです)」
頭上から降り注ぐ鼻しぶきを嬉しそうに浴びながら、秀治は笑う。
「お前がこの家に初めて来た時の事を思い出してたんだァ。あの頃の駒江も綺麗だったけど、お前はますます綺麗だなァ」
「ブヒヒヒ……(もう、秀治さんったら……)」
照れたように栗色の馬は頭部から首さしにかけてをうち震わせ、金色のたてがみがその動きに併せてさらさらと揺れた。
「ブブブ……ブヒヒヒヒン(そんなことより秀治さん、そろそろあの子達のレースが始まりますよ)」
「おお、そりゃ大変だ。今日はダートから芝に変わってのレースだったかの」
「ヒヒヒヒ~ン(そうですよ。絶対にあの子は芝適正の方が高いんですから。要注目ですわ)」
腰を下ろす秀治の横、駒江が廊下の床に蹄を乗せてぐぐっと上半身を持ち上げた。後肢右、後肢左とそれに続く。
「ブルルルル(嫌だわ。歳のせいか段差を昇るのが大変)」
「トレセンに顔出しに隣りの美浦村まで走ってきたんだろ。尻の筋肉の張りもいいし……駒江の後双門右の旋毛は今日も魅力的だァ」
「ブヒヒヒヒヒーン!!(もうっ嫌だわ秀治さんったら!)」
駒江の臀部を覗き込むようにしていた秀治の頭部に、後脚の鋭い蹴りが入った。
微風に揺れた風鈴のカリンと言う響きと同時、秀治の耳には何かが折れる音が聞こえた気がした。
勢いよく舞い飛ぶ老人の身体。舞い飛ぶ秀治の視界、山茶花の垣根の向こうに広がるハス田に咲く色とりどりの花が鮮やかに見えた。
その景色はまるで極楽浄土のように美しいものだった……。
蓮の花の季節、君を思ふ jorotama @jorotama
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