第3話 逃げ火

これは、私の祖父から聞いた曽祖父の話です。


今から70年以上前の話になりますから、丁度二次大戦が始まった頃のことです。

私の父は当時奉公先の東京から帰って間もなく、両親から示された縁談を断って志願して軍隊へ入ったそうです。

しかし、身体は丈夫な方でなく、運動よりもそろばんを弾いている方が向いていた父はすぐに体を壊し高熱を出して視力に障害を受け、配属先の船橋から一人、実家へ帰されたと言います。

病み上がりの体を引きずって、父は休み休み、家路へ続く山道を歩いていました。

志願してまで兵隊に行ったのに、途中で帰ってくるという事は一族にとって大変な恥でしたから、村中が寝静まった真夜中の、それはそれは寂しい道行です。

今と違い、舗装もされていない、ろくな灯りもない山道では腰に付けたランタンだけが唯一の便りでした。

山の頂上に差し掛かった時です。ランタンの火が、なんの前触れもなく切れてしまったのです。

父がランタンの窓を開け、底を指で撫でると理由はすぐに分かりました。

油がすっかり切れていて、すっかり煤が溜まってしまっていたのです。

父は弱り果てて、山道の傍らにあった岩に腰を降ろしました。

いくら故郷の、慣れた山でも病み上がりで目も良く見えないまま下っていくのは危険が伴うというものです。


せめてもう少し、空が白んでからでも急いで帰った方が得策かもしれない。


そう考えていると、下りの山道に横切るものが視界の端に見えました。

父が驚いてそちらを向くと、山道の少し先の方に明かりが一つ、ありました。

それは赤々と燃える松明で、遠くからでも十分に見ることが出来ます。

ですが、それを持っている人物の顔は影がさしていて、一向に見えません。


こんな時間に、一体誰だろう。家の者が迎えでも寄越したのだろうか。


父は訝しく思いながらも一刻も早く帰りたいという一念から、この松明に近付くことにしたそうです。

しかし、いくら父が灯りの方に近付いて行っても全く距離が変わらないのです。

父が一歩近づくと、松明も一歩父から遠ざかります。

松明のおかげで辺りは明るく、見通しは大変良かったのですが父はとても気味が悪く思ったそうです。

そして、父は病み上がりであることも忘れて駆け出しました。

ここまで下ってくれば、家がある部落まではもうすぐだ。そう確信したからです。

父と灯りの距離は、どんどん迫っていきます。松明が離れて行く速度より、父の足の方がずっと速かったからです。

ついに、父は灯りを持った人物に並び、すれ違いました。

父は必死で走っていた為かその人の顔を全く見ていないそうなのですが、すれ違い、追い抜かした瞬間、山道を抜け民家のある部落へとたどり着いたと言います。

辺りをぐるりと見回してみても、灯りは一つもありませんでした。


狐につままれたような思いで父が実家に帰ると、窓からは明かりが煌々と漏れ出ていて、人が慌ただしく出入りしているようでした。

何事かと父も家内に入ると、玄関を入ってすぐの神棚のある部屋に満州へ出向した兄が寝かされていたそうです。

兄は出向先でチフス熱に掛り、最早遠い海の向こうに骨を埋めるのみ、というところを有志のカンパによりようやく実家へと帰還していたのです。

父よりも一週間ほど早く帰っていた父の兄は、丁度父が山を越えている時に臨終を迎えていたのですが、父が実家に辿り着く少し前に息を吹き返したのだと言います。

後に、兄が回復し、普段のように喋れるようにまでなった時、父にこんなことを言ったのだそうです。


「足が遅いお前に抜かれたのが悔しくてな、思わず駆け出したら目が覚めたんだよ」


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