強い者が弱い者に暴力を振るい、弱い者はさらに弱い者へと暴力を振るう。

 この種の連鎖は歴史や社会学の書物、あるいは映画や芝居でもしばしば見聞できる。古今東西、人間社会のどこでも繰り返されているのだろう。

 子供の頃の私自身がそうだった。さほど腕っ節が強くもない連中に学校でいじめられて、泣いて帰宅すると今度は父や兄に叱られた。

 それでどうするかというと、庭を這い回っている蟻をいじめて憂さを晴らしていた。我ながら格好悪い小学生だが、古今東西普遍の真理には勝てないのだった。まあ、それ以外の何にも勝てなかったのだが。


 ある晩、チイチイした可愛らしい声で耳の辺りがくすぐったくなったので私は目を覚ました。

 枕元の明かりをつけて、眼鏡をかけてよく見てみると、蟻が隊列をなして抗議にやって来ていた。


「僕たチを水攻めヤ」

「火炙りデいジめるノは」

「モう」

「やメて下さイ」


 決然とした訴えだった。

 しかし蟻たちは体よりもさらに声が小さいので、驚きはしたものの罪悪感はなかった。

 自分よりずっと弱い者をいじめて、弱い者たちにそれを抗議されたところで何も感じないものなのだ。私をいじめている者たちと同じように、私自身がいじめている弱い者に対してはまったく鈍感なのだった。


「あナたが僕たちヲいじメるノは」

「同じクラスのシーシーのせイでシょウ」

「僕たチが」

「成敗シてオきマす」


 シーシーというのは蟻の世界の言葉らしかったが、言われてすぐに誰を指しているかわかった。いつも私の背中を小突いてくる、痩せて、歯の隙間からシーシーと音を立てる癖のあるクラスメイトのことだ。

 遅い時間だったので夢かと思って、ろくに返事もせずに寝てしまった。


 しかし、翌日から蟻は猛攻撃を開始したのである。

 一時間目の授業中に、後ろの席のシーシーが落ち着かない動きをしているのが分かった。私がわざわざ振り向いて確認すれば怒り出すに決まっているので、気付いていないふりをしていた。

 雌鶏のような女教師が勘付いて、不機嫌な声で注意した。


「何してるの!大人しくしなさい!」

「……」


 椅子の脚がギイ、と床を引っかく音が聞こえた。シーシーが立ち上がったらしい。


「なぜ立ってるの?授業中ですよ?」

「先生、座ってられません」


 半泣きになっている声にクラスメイトの何名かが笑った。しかし、シーシーの半ズボンが蟻まみれで真っ黒になっているのを目にすると、悲鳴があがって皆が立ち上がった。

 教室内は騒然となり、教師叫ぶ「静かにしなさい!」が聞えなくほどだった。

 ズボンどころか、下着の中にまで蟻が大量に入り込んでいるのが誰の目にも明らかだったので、シーシーは保健室まで連れていかれた。

 教師とシーシーがいなくなって、授業が中断されたことで嬉しくなったクラスメイトたちは大騒ぎになった。蟻を踏んだり、箒で掃いたり、シーシーの机の中のものを勝手に出したりした。

 隣のクラスの教師が血相を変えて怒鳴りに来たので、仕方なくひそひそ声で推理を披露しあった。

 当初は、シーシーが蜂蜜や飴のような甘いものをいたずら半分で持ち込んだのではないかという見方が大半だった。しかし、どこを探してもその種の証拠は見つからない。

 シーシーの他には誰も蟻に襲われなかった。そのせいで安心した皆の口が軽くなって、議論に弾みがついたようだった。私は黙って聞き耳を立てていただけだが、あいつが飲んでいた薬のせいだとか、きっと服に何かが付いていたせいだろうとか、あれこれと意見が出た。

 やがて教師が戻ってきて昼を過ぎ、午後の授業が終わって下校する時間になってもシーシーは戻ってこなかった。


 翌日も、その次の日もシーシーは学校へ来なかった。

 一週間ほど過ぎた深夜に、また聞き覚えのある小さな声がして私は目を覚ました。


「僕タちの力で」

「シーシーを成敗しテやリまシた」

「モう、二度と」

「学校に現れナいデしョウ」


 その時まで、蟻とシーシーの件が結びついているとは考えないように努めていた。蟻をいじめることは止めていたし、蟻の力でこうなったとは信じたくなかった。

 私はこの時点でもまだ、夢だと信じ込みたい一心で固く目を閉じて、布団をかぶって無理に眠ろうとした。


 シーシーがいない教室は、風通しがよくなったように感じられた。

 授業中にしつこく背中を突かれたり、鉛筆を持っていかれたりする心配がなくなったので私はすっかり気が楽になった。私だけではなく、他のクラスメイトもどことなくシーシーの不在を歓迎しているようだった。

 ある日、担任の女教師が皆に向かって質問した「ナイル川が流れている国はどこ?」という問いに、たまたま私が正解できたことがあった。

 エチオピアやタンザニアなど、正解となる国は十か国ほどある。その方面の国をよく知らないので適当に答えただけだが、教師も生徒も驚いて私を見た。ここで得意げな顔でも見せたらまたいじめられると思ったので、別に、大したことないよというつもりの顔でやり過ごした。


 それが裏目に出てしまった。

「最近、調子に乗っている」という態度に見えたらしく、今度は別の太っちょが絡んできた。

 帰り道で「もっと外国の国の名前を教えてくれよ」と馴れ馴れしく話しかけてこられて油断したのだが、途中からは太っちょの兄も一緒になって両側から挟まれた。

 いくつか知っている国の名を挙げてみると、いつの間にか「もっと教えて」「もっと言ってみろ」「言うまで許さない」と脅すような口調に変わった。

 私は脅されるまま、知らない道を歩かされて国名を言う羽目になった。

 二人はふざけ半分のように見せかけて、歩きながら腹を何度も殴ってきた。

 さすがに「あれを盗んでこい」「金を持ってこい」とまでは言われなかったので、暗くなった頃には解放された。


 やっとの思いで帰宅したその夜、また蟻が現れた。


「僕たチの力で」

「成敗しテみせマす」

「ビービーとソの兄ヲ」

「黙ラせマす」


 ビービーとは太っちょのことらしい。

 今度は、蟻たちの姿が学校に現れることはなかった。

 朝になる前にビービー家で大変な事件が起きたらしいということで、救急車やパトカーの音が聞こえた。大人たちは声をひそめて何かを話していた。


 一方、シーシーの方はというと、学校にもそれ以外の場所にもずっと姿を見せなかった。入院したとか、引っ越したといった何らかの動向や、憶測、噂話くらいは広まっていたのかもしれない。

 もともと私は標準的な子供づきあいの輪には入れてもらえなかったので、噂話どころか、ちょっとした遊びの誘いを受けることすらなく、近所のニュースを教えてもらう機会もなかった。誰かの誕生日会に招かれることすら一度もなかったのだ。

 ビービーと兄がまる三日も学校に来ないとなると、情報を与えられない私は本当に怖くなってきた。前の日に一緒に歩いていた姿は、誰かに目撃されている筈である。それでも、自分とは無関係なのだと祈るように願っていた。


 ある日ついに、担任の教師に名指しで呼び出され、放課後の木工作業室で問い詰められた。


「最近、あの子たちのことで警察がいろいろ調べてるみたいなのよ」

「……」

「誰にも絶対に言わないから、先生にだけは教えてちょうだい」

「……」

「……何か、知ってることはなあい~?」

「……」


 まだ懐柔という言葉は知らなかったが、唐突に「なあい~?」と言いくるめるようになった口調には身の危険を感じた。調子のよさげな言葉に乗せられて知っていることをペラペラ喋ってはいけない、という警戒心が強く働いた。

 シーシーのことなのか、ビービーのことなのかは判らない(両方かもしれない)が、とにかく怪しまれているのだ。

 私は床に視線を落とし、目に涙を浮かべて、


「前からあの子たちに殴られたり、いじめられたりしていました」


 と小声で言って、被害者を装って震えてみせた。

 涙をぽろぽろ落として、ひざの辺りを強く握って俯いているうちに教師からは気味の悪い威圧感が消えてなくなり、拍子抜けしたように追及の手を緩めた。私は知っていることを何ひとつ説明することのないまま、学校を出た。

 いま思えば、知っていることを洗いざらい喋ったところでおそらく相手にされなかったに違いない。

 だが学校の教師はともかく、蟻たちからは逃れられない。

 深夜になると、また隊列が私を起こした。


「女ノ担任ヲ」

「葬リまス」


「一体、どうやって人を殺すんだ?」


「カンたン、カんタン」

「鼻ノ穴カら入ッテ」

「神経ヲ噛み切レバいイ」

「眼ヤ耳かラ」

「入ルコとモあル」

「脳ヲ齧レばイイ」

「視神経ヲ……」


 恐ろしいのはその発言でも、人を襲うことでもなかった。

 その声が、弟の声そのものになっていたのである。

 私は四年前に弟を殺した。

 その日は父も兄も不在だった。誰からも見えていない筈の場所、建物に囲まれた中庭でふざけて弟に石を投げたら、思いがけない速度で頭に命中したのである。

 倒れた弟にはまだ息があった。

 その時点で人を呼んでいれば、助かった可能性も充分にある。

 しかし、幼い頭の乏しい判断力で「苦しみを長引かせるよりも、死んでしまった方が楽になる」という、どこかで聞いただけの理屈が勝ってしまった。

 急な事態に頭が混乱していたせいもあるだろう。大人でも滅多にそのような現場に居合わせることはない。取り乱してもおかしくはない。

 だからといって言い逃れは許されまい。

 はっきりと自分の意思によって、真昼の庭で、私は弟の頭を地面に打ちつけて殺した。

 この一連の行いは短時間のうちに始まり、そして終わった。

 私の他にはその一部始終を、誰も、何も、どこからも目撃できない筈だった。父からも兄からも、その日以来、一度も怪しまれたことはなかった。

 投げた石は花壇のどこかへ消えたまま四年が過ぎている。それとなく石を探してみても、見つからなかった。


 翌日、担任の女教師は学校に来なかった。私にはわかっている。おそらく次の日も、その次の日も絶対に来ないに違いなかった。

 夜になると、また蟻たちが来た。蟻たちを怒らせでもしたら、自分が襲われてしまう。

 懇願する他なかった。


「もう、やめて下さい」


 最初に蟻たちが願ったのと同じ言葉で私はお願いした。

 蟻たちは弟の声で言い返した。


「モう、ヤめテ下サイ」


 口真似をしているようだった。


「本当にもう、やめて下さい。お願いします」


「本当ニもウ、ヤめテ下さイ」

「オ願イしマス」

「本当ニもウ、ヤメて下サい」

「オ願イシまス」


 弟の声は何度も繰り返して言う。


「本当にモウ、やメて下サい」

「オ願イしマす」

「本当ニもウ、ヤめテ下さイ」

「お願イシまス」

「本当にモウ、やメテ下サい」

「オ願いシまス」


 いつまで続くのだろう。終る気配がなかった。焦燥と怖れで全身が満たされて一杯になり、たまらなくなって叫んだ。


「モウ、ヤメテクレ!」


 自分自身の口から、弟の声が響いた。

 私は恐怖のあまり気絶した。



 こうなってしまったのは自業自得である。

 映画や芝居で「助けて」と叫ぶ人物は、誰かに助けてもらう権利が自分にはと確信しているのだ。だからこそ、大声で叫ぶ。

 私にはその権利がない。

 叫びたくもない。

 あの日からずっと、つまり11歳の時点から私は、絶対に人前では喋らないことにしている。

 幸い、精神科医が「心因性の失声症」という診断を下してくれたし、父と兄とも会話なしで済ませた。誰とも交際せず、外出もほとんどせず、必要なことは紙に書いて示して済ませた。無言を貫き通して、社会の片隅で半世紀もの人生を送ってきた。

 それは、常識的な人間が想像するほど難しくはなかった。都合の悪い邪魔者が入れば、いつでも迅速に取り除いてもらえたからである。


 それでも、この記録だけは残しておく。

 この手記を書き終えたら、いつの日か遠方に住んでいる兄が発見できるように、かつ蟻が入れないように厳重に包んで金庫に入れておく。

 その後で、どこか人目につかない死に場所を探しに行くつもりだ。

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