「山と共に生きよ」

 涼太郎は朝食を終えると、すぐに家を出ていつもの遊び場へと向かった。それは家のすぐ側にある視界の開けた原っぱで、冬にはごつごつとした地面が見渡す限りに続き、走り回るにはあまり適していなかったが、そこで遊ぶことが涼太郎は気に入っていた。

 空き地に着くと、今日は何して遊ぼうかと考えたが、早朝には暖かかった空気が何故かひんやりとし始めた。涼太郎は少しだけ頬にちりちりとした痛みを感じたが、体を動かしたくて堪らなかったので、とりあえず雑木林に向かって走り始めた。

 地面を蹴ると、不思議なことに体がふわりと宙に浮いたような、そんな軽やかな風を感じた。走るのが全く億劫ではなく、普段の涼太郎からは想像もできないような速さで空き地を駆け抜けていった。

 どこまで加速しても全く息が切れず、それどころか体を思う存分動かせてその心地よい感覚をずっと味わっていたかった。涼太郎は声を上げながらその遊び場を縦横に駆け回り、一度も足を止めずに四十分ぐらい走り続けていた。

 ようやく足を止め、身体を休めようとしたが、昨日親友達と鬼ごっこをした時と同じように、少しも疲れを感じなかった。これはどういうことなんだろう、と涼太郎は信じられない気持ちになり、拳を開いたり握ったりを繰り返したが、どこからか活力が湧いてくるのだった。

 その時、ふと頬にひんやりとした感触が広がった。そこを撫でてみると、小さな雪の粒が溶けていくのがわかった。見上げると、ほんのわずか、雪が降っていることに気付いた。

 外気も先程よりも少し冷たくなったような気がして、涼太郎は雪が本格的に降り出しそうだな、と予感がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。だが、このまま大して遊ぶこともできずに家に帰ってしまったら、とてもつまらない気持ちがした。

 果実を食べて満足していた気持ちが、再び不平へと変わり、両親達の分まで食べてしまったことなど既に涼太郎の頭からは消えていた。ただこの体の元気な部分を試したくて仕方がなく、もう少しこの空き地を駆け回っていたいと考えた。

 涼太郎はしばらく曇り空を見上げて考えていたが、やはり自分の欲求が勝り、まだしばらく外にいることにした。その時ふと、雑木林に視線が向いた。

 その大きな木々が網の目のように密集した森を見つめていると、あそこを自由自在に走り回ったら、とても刺激的で楽しいんじゃないだろうかと、そんな考えが過って自然と足を踏み出していた。

 林の奥はただただ闇に包まれ、枯れ葉さえも見えず、ただごつごつとした地面が続いていたが、そんな未知のものに対する好奇心が膨らんでいった。普段から涼太郎はこの雑木林が怖くてあまり近づかないようにしていたが、今はとびきり調子がいいこともあって、強気な心が涼太郎の手足を動かせた。

 気づけば涼太郎はその浮き沈みする斜面を駆け上り始めていた。無数の枝が交差して空から降り注ぐ光を遮っており、頭上へと顔を振り向けても、得体の知れない真っ黒な風呂敷がどこまでもどこまでも広がっていて、涼太郎はごくんと唾を飲み干した。

 そこで野太郎と弥助が言っていたことがふと頭に浮かび、一瞬、足を止めそうになった。

 ――油断していると、突然雪が降った時に大変なことになる。

 ――山は何が起こるかわからないよ。あんまり遠くに行かない方がいいと思う、僕も。

 友人達の心配そうな顔が目の前を過り、少しだけ逡巡したが、散歩して帰るぐらいなら、大丈夫だろう、と楽観的に考えた。父親と普段から猟に行ったりして慣れているし、あまり奥に行かなければ大した問題にはならないだろう、と自分に言い聞かせた。

 そんな心配をしたのもほんのわずかな間のことだった。すぐに涼太郎は木々をかわして突き進んでいくことが楽しくなって、歓声を上げながらジグザグに森の中を走り回った。

 森に対する畏怖の念や、命を授かり、日々もらっているというその大切な気持ち、身近な人の言葉、すべてを忘れ去って、涼太郎はただその闇の深く、深くへと沈んでいく。

 異変に気付いたのは、木々が点在していた周囲の景色が少しだけ変わったのを確認した時だった。何故か木々の間からわずかに漏れていた光が薄くなり、それほど奥まで来ていないのに、自分の手足が霞んで見えなくなっていた。

 それどころか、空気がかまいたちのように四方から体を突き刺してきて、その凍えるような冷たさに喉が引き攣るのを感じた。涼太郎はようやく自分が森の奥に来すぎてしまったことに気付いたが、その時にはもう、頭上から塊のような大雪が降り出し、辺りを覆い始めていた。

 涼太郎は血の気が引いていくのを感じ、すぐに背後へと駆け始めたが、数歩も進まずに木の幹に激突した。頭が痺れて地面に倒れ落ち、涼太郎は悲鳴を上げながら立ち上がろうとしたが、その瞬間、もう太陽の光は消え失せていた。

 辺りはもう悪魔達の囁き声で満ちていた。ただただ轟々という冷風が吹き荒ぶ音と、銀色の雪が舞う森の姿が五感を絡め取り、もうどんな状況に置かれているのか全くわからなくなっていた。

 父さん、母さん、と涼太郎は心の中で叫び、降り積もり続ける雪の中へと手を突き入れ、這いながら進み始めた。息を吸おうとしても、口の中に刃の恐ろしい切っ先が入り込んできて、満足に呼吸することもできなかった。

 縦に横に揺さぶられながら、涼太郎はただただ目の前の障壁を掻き分けて元来た方向へと、ただ一心に進み続けた。何も見えない、恐ろしい悪魔の高笑いだけが木霊し、風の刃で肌が切り裂かれていく。

 僕はどうなるのだろう、とそんな絶望感が脳髄を刺激するが、もうあまりの凍えるような冷たさに言葉は出なかった。たぶん死ぬのだろう、大地に還るのだろう、僕はなんて人の言葉を疎かにする馬鹿者だったのだ、父さんと母さんを残して先に旅立つなんて、ああ本当に馬鹿だ、どうしようもない阿呆だ、何も見えない、何も聞こえない……。

 その気の遠くなるような寒さに、体の感覚が消えていき、何もかも混濁とした闇の中へと呑み込まれて命が無数の黒い触手に蝕まれていき、そこで人生の終止符が打たれると思ったが、そこで――。

 何故か胸の奥で暖かな感情が広がっていくのがわかった。体の中にゆらめくその熱は、凍えるような吹雪の中でも消え失せることなく、力がどこからともなく湧き上がってくるようだった。

 まだ歩けると思った時には、涼太郎は雪から必死に身を起こし、無我夢中で手足を振って前へ前へと進み始めた。四方から体温を奪う風が吹きつけてくるのに、何故か涼太郎は不思議な熱によって体を包み込まれていた。

 どんな自然の力に打ちのめされようとも、体は活力を取り戻し、どこまで痛めつけられても立ち上がる意志が涼太郎の中には残っていた。それが空き地で遊んでいた時に感じた不思議な感覚と同じであると気づく頃には、涼太郎の足は完全に元の歩みを取り戻して、その途端、一気に走り始めた。

 雪の上を跳ねるようにして進み、途中、木の枝にぶつかって肌を裂かれようとも、痛み一つ感じなかった。僕はまだ生きる、こんなところで死んでたまるか、と自分を奮い立たせて、地面を蹴った。

 最初は木々にぶつかって障壁に阻まれていたその道筋も、意識が明瞭になって視界がわずかながら見渡せるようになると、森を何とか抜けていき、開けた場所へと辿り着くことができた。

 自分の運命を信じて、ただ涼太郎は前へと向かって、歩き続けた。きっとそこに家がある、この不思議な活力が自分を導いてくれると信じて、歯を食いしばって寒さに耐えた。

 そして、ようやく視線の先にわずかな明かりが見えることに気付いた。小さく見えたその屋根の端に、一目で家だと直感が働いた。そう断定してしまわなければ、どこかで意志が掻き消えてしまいそうで、涼太郎は一心不乱にその明かりへと突き進んだ。

 何度足を踏み出しても明かりは離れていくようで、逆に遠のいたかと思うと次第に近づいてくるような気がした。涼太郎は夢の中で海に浮かんでいるような感覚を味わいながら、家族のいる場所へと歩み続けた。

 気付いた時には、頑丈な木板が張り巡らされた扉がそこにあった。既に四分の一ほど雪に覆われて、風に大きく揺れていた。涼太郎は最後の力を振り絞って、その扉へと這いながら進み、思い切り力を込めて拳でそれを数回殴った。

 反応がなく、彼は家人に気付いてもらおうと何度も何度も渾身の力を込めて殴り続けた。やがてふわりと何か大きな光の筋が差し込み、自分を照らすのがわかった。

 涼太郎は顎を上げてその光の先を見ようとするが、そこで掻き消えそうな小さな声で、「涼太郎!」と誰かが呼びかけるのが聞こえた気がした。涼太郎は腕を伸ばし、その声の主がつかんでくれることを祈ったが、すぐに両脇に手が差し込まれ、中に引っ張り上げられた。

 暖かな温もりがそこにあり、涼太郎は土の上に転げ落ちながら、頭上を見つめた。霞んだ視界の中で、一番見たかったその顔が二つ並んでいた。額の艶やかな父の顔は生気が抜け落ちてしまったように青褪めていて、母は頬に大粒の涙を流し、しゃくりあげている。

「おお、涼太郎! やっぱりお前は、山に見放されてなかったんだ」

「涼太郎、本当に生きていて良かった。本当に信じられない、早く炉へ!」

 涼太郎は精根尽き果て、両親の腕の中に抱え込まれて引きずられ、炉の側に横たえられたのを感じた。程なくして扉が閉まる鈍い音が響き、少しだけ寒さが引いていくのがわかった。

 火はわずかしか点っていないようだったが、それでも次第に感覚を失っていた手足が血を通わせ、凍りついていた筋肉が溶けていくのがわかった。涼太郎は確かに自分が生きているのだと気づき、涙がこみ上げてくるのを感じた。

 あの時、野太郎と弥助の言うことを信じていれば、両親に生きる苦しみを味わわせることもなかっただろう。すべて自分が山の恵みに甘えて、その厳しさから目を背けたことがいけなかったのだ、と涼太郎は悔しくて唸り声を上げた。

 だが、すぐに生きている喜びが胸を突き上げてきて、すぐに安堵感に心身が暖まっていくのを感じた。両親は良かった、良かった、と泣き声を上げながら涼太郎に布団をかけ、腕の中で包み込み、暖めているようだった。

 本来ならば、冷気に侵されて尽き果てていた命が今もこうして息吹を失わずにいるということが信じられなかった。これはきっと、何かが涼太郎を守ってくれたのに違いない、とそう思わざるを得なかった。

 涼太郎は長いこと両親の腕の中で、夢うつつで意識を彷徨わせていたが、少しずつ吐息に熱が篭り出したのを感じた。動かなかった指がゆっくりと折れ、少しだけ身を起こすことができるようになった。

 ようやくその荒れ狂う風の音が家に木霊していることに気付き、鼓動がドクン、と高鳴るのがわかったが、もう何かを恐れたり、大切なものを見失ったりしたくなかった。

 涼太郎は両親の腕から身を起こし、やっとのことで床に座ることができた。両親のぐちゃぐちゃになった泣き顔を見つめながら、涙を堪えた。

「みんな、無事で本当に良かったよ」

 涼太郎がそう言うと、父親は首を振り、その逞しい体を折ってすすり泣いていたが、何度もうなずき、「良かった」とそれだけをつぶやいた。母親が父の言葉に無言でうなずき、背中を叩いてくる。彼女はふと扉の方へと視線を向けると、神経が張り詰めたあげくに切れてしまったような、そんな疲れ果てた顔をした。

「この雪、まさかこんなに降るとは考えられなかった。こんな大雪は今までに見たことがないよ」

「全くだな。これは数日降り続けるかもしれないぞ。二日前に村に行って食料を分けてもらって来て良かった」

 父と母は視線を交わし合い、涼太郎に布団をかぶせて暖かいようにと気遣った後、奥の座敷の方へと姿を消してしまった。涼太郎が炉に手をかざして休んでいる中、両親が低い声で何かを囁き合っているのが聞こえてきた。

 村の方には行けないし、このまま雪が続いたらどうしよう、と深刻そうな口調で言葉を交わしているのがわかった。涼太郎を不安がらせないようにと別の部屋で話し込んでいるらしかった。

 涼太郎は鈍くなって朦朧としていた頭が少しずつ働いていくと同時に、この雪がもしずっと続いてしまったら、僕たちはどうなるのだろう、と自分の状況を考えたが、あまり現実感がなかった。あれほどの絶望を味わった後なので、もうどんな苦難でも乗り越えてみせる、と肝が据わったのかもしれなかった。

 相変わらず家のあちこちで冷気が入り込み、轟音が頭上で響き続けていた。怪物が辺りを歩き回り、すぐにでも涼太郎達を見つけて餌にしてしまうのではないか、とそんなことさえ思った。

 それだけこの吹雪は化け物じみていた。助かる方法を考えないと、と焦る気持ちが出てくるが、それよりも体は疲れ切っていて、やがて涼太郎は深い深い谷底へと滑り落ちていった。

 すぐにでもこの雪が晴れて、元のような綺麗な山の稜線が見れればいいのに、と心からそう思った。


 それからずっと大雪は降り続け、いつしか家の中には肌を凍りつかせるような冷気が漂って、両親は青ざめた顔でずっと火に手をかざして打ち震えていた。涼太郎も、布団をかぶってひたすら体を暖め、それでも悪寒はずっと消えなかった。

 一体、この山はどうしてしまったのだろう。何故、こんなにも雪が降り続けるのだろうか、と涼太郎はそのどうしようもない現実に唇を噛みしめるしかなかった。

 せっかく助かった命も、これではいつか掻き消えてしまうかもしれない。このまま食料が枯渇してずっと降り続けるとなれば、今度は別の問題が涼太郎達の命を吸い取ってしまうだろう。

 そんなこと、絶対に許せるもんか。僕たちは生きるんだ、と涼太郎は何度も心の中で強く思った。

 それから一日、また一日と過ぎていき、食料も少しずつ減っていった。涼太郎の家は山奥にある為、こうなることも十分承知していた。その時の為に、いつも食料は蓄えてきたつもりだ。

 だが、その大雪はいつまで経ってもやむことがなかった。本当にこれは異常なことで、山の神が何かに怒り狂っているのかもしれないと思った。

 両親は涼太郎に必死に言葉で元気づけようとし、その青白い顔のまま絶えず笑い続けて、一緒に生きよう、と何度も誓いを立てた。だが、時間はゆっくりと過ぎていき、涼太郎達の命を蝕んでいった。

 もう駄目かもしれない、とそんな弱気が涼太郎の心にすっと入り込み、それは不安となって膨らんでいき、震えがこみ上げてくるのだった。

 両親も空腹の為に布団に寝込んだようになり、ひたすら掌を擦り合わせて祈り、しかしそんな元気さえも日が経つと共に掻き消えていくのだった。

 だが、涼太郎は何故かまだ動くことができた。まだあの不思議な感覚が体に残っている。お腹が空いて泣きそうになることもあったが、体の内からこみ上げてくるその熱は止むことがなかった。

 その感覚だけを頼りに、涼太郎は一人家の中で動いて、両親が元気になるように世話をし続けた。だが、それでも雪は止まなかった。やがて両親は布団の中に体を横たえて動かなくなり、涼太郎は必死に彼らに呼びかけながら、どうしよう、と拳を握り締めていた。

 もう、食料はなくなってしまった。あの金色の果実のことは、何故か両親は何も言わなかった。もう涼太郎があの時こっそり食べてしまったことを彼らはとうに気付いていたらしかった。

 涼太郎が泣きながらあの金色の果実のことを話し、最後の一個があるから食べよう、と言うと、両親はただ首を振って笑った。その笑みはもはやかすかに筋肉が動くだけのもので、笑顔とは言えなかったが、涼太郎は彼らが心の中で笑っていることに気付いていた。

「りょう、たろう。あなただけは、生き残りなさい」

 母がにっこりと微笑んだまま、涼太郎の手を握ってそう言った。涼太郎はしゃくり上げながら必死にその手を暖めようとして、嫌だよ、と泣き声を上げた。

「わたしと父さんは、お前だけは、この山に見放されて、いないと、信じている」

 母はそう言って涼太郎の手を撫でて、小さくうなずいてみせた。すると、父がそっと頬に雫を滴らせながら、視線を向けてきて言った。

「りょう、た、ろう。あの実は、お前が見つけて、きたものだ。お前の、もの、だ。お前の命、だけは……」

 涼太郎は父へと覆い被さり、ただひたすら泣きじゃくった。なんで、どうしてなの、こんなの嫌だよ、生きていたいよ、と意味の通らない言葉を部屋に響かせた。

 すると、父は涼太郎の頭へとそっと手を伸ばして、撫でた。

「いいか、りょう、たろう。山の恵み、を疎かに、してはいけない。常に感謝して、生きていきなさい」

 こんなことになって、感謝もへったくれもあるか、と言おうとしたが、その父の強い瞳に、言葉を返すことができなかった。

「涼太郎、お前は山と共に歩め」

 その瞬間、ふっと父の手から力が抜け、布団の上にはたりと落ちた。涼太郎は絶叫して立ち上がり、台所へと駆け込んだ。絶対に生きてやる! と大声で叫び、竹籠の中の果実を手に取ると、それを思い切り爪を立てて剥いた。

 あれほど硬かった皮がひらりと剥け、涼太郎はその果実を包丁で切ると、炉の側へと戻った。母の顔へとその欠片を近づけ、さらにそれをちぎると、そっと口の中に押し込んだ。

 母がわずかに目を見開いて、反応を見せた。だが、すぐにそれを咀嚼し始め、ゆっくりと飲み干した。すると、何故か母の顔から憑き物が落ちたような、そんな活力が漲っていくのを見た気がした。

 母が顔をこちらに向け、涙を浮かべながら言った。

「涼太郎。本当にいいのかい」

 涼太郎はうなずき、父の元へと歩み寄り、同じように果実を口の中に押し込んだ。その瞬間、ぴたりと体の動きを止めていた父が目を開き、涼太郎を見返した。

「りょう、た、ろう……」

 涼太郎は涙でぐちゃくちゃになった顔のまま、食べて、とそれだけをつぶやいた。僕一人が生きても、嫌だよ。みんな、生き残って、それで山と共に生きるんだよ。

 その涼太郎の心が伝わったのか、父は何も言わず、果実を口に入れて頬張った。二人の顔からみるみる幽鬼のような表情が消えていき、果実をひとかけら残して食べ終わる頃には、彼らは布団から身を起していた。

 自分の体を眺め、信じられないといった顔つきで涙を流している。涼太郎もその果実を口の中に含んで飲み干したが、甘酸っぱい香りが口の中いっぱいに広がり、その果汁が喉を伝っていくにつれ、体の奥底から力が湧いて出てくるのを感じた。

 涼太郎達は顔を見合わせてうなずき、そして「生きよう」と誓い合った。

 まだ、僕らは生きていけるんだ。あの女性がくれた僕らの命をここで失ってたまるものか。

 涼太郎は轟々と吹き荒ぶ風の音を聞きながら、二人を布団に寝かしつけて、自分も最後の薪を使って火を点け、休むことにした。

 不思議と安らかな気持ちがふつふつと出てきて、冷え切った体から肌を包み込むように熱が噴き出てきて、心地よいまどろみへと沈んでいくのがわかった。

 生きるんだ、僕は生きるんだ、と涼太郎は念じながら、そうして霧の中に包まれた果てしない光の先へと体を吸い込まれていった。


 遠い遠い昔に、その道を歩いていた気がした。

 ふわりと暖かな風に乗って、その花の匂いが漂い、いつもは泥臭い道が今日は春の陽気に溢れていた。燦々と降り注ぐ日差しは琥珀のようで、体中を柔らかな布で覆われているような、そんな不思議な感覚で満たされていた。

 涼太郎はその狭い道をどこまでも山の奥へと向かって歩き続けていた。父と母は家から離れては駄目だよ、と囁いていたが、右も左もわからない幼い頃の自分は、ただその木漏れ日が気持ち良くて、小さな歩幅で走り続けていた。

 きっとあの先には、何か面白いものがあるに違いない。一体何があるのだろう、と家を飛び出して、気付けば原っぱの横のでこぼこ道を歩き続けていた。

 時折小鳥が囁き、軽やかな旋律が頭上を飛び交う。それに合わせて涼太郎は両手を伸ばして笑い声を上げながら進み続けた。

 何度も転びそうになり、ひたすら地面を蹴って、木々が生い茂り、植物の澄んだ匂いが漂ってくるその場所に心躍らせ、歩き続けていた。ようやく木々が少しずつ辺りから消えて、開けたところに来た。

 涼太郎は大きく飛んで、その眩いほどの光が溢れている場所へと着地したが、そのあまりの不思議な色合いの川に目を見開いた。

 水が流れる音がひっそりとその砂利が敷き詰められた一帯に響き、上流の方を見るとその先に夕暮れの光が瞬いていた。きらきらと光の砂が舞うような、そんな幻を見ているような錯覚に陥ってしまった。

 涼太郎はすぐに両腕を振って川に近づき、その水面を覗いてみた。そこに映る自分の顔はゆらゆらと揺れて原形を留めておらず、涼太郎は大きな声を上げて、笑った。

 何もかもが新鮮で、楽しくて仕方がなかった。涼太郎は砂利を思い切り蹴っ飛ばして川へと投げ込んだり、流れと競って下流の方へと走ったりと遊び続けた。

 恐る恐る水の中に手を入れてみると、ひんやりと冷たくて気持ち良かった。涼太郎はせーのとつぶやき、思いっ切り川へと飛び込んだ。その水の感触を味わった後、すぐに上がるつもりだったが、その瞬間――。

 体がそのすさまじい流れにすぐに呑まれて、バランスを崩しかけた。地面に手をついて這い上がろうとするが、抵抗する暇もなく涼太郎の体は押し流されてしまう。

 必死になって川岸に近づこうとするが、その川のどんな力も全て強引に打ち消してしまう、有無を言わせない圧力に涼太郎は息も吸えずにやがて川底へと沈んで、どこまでもどこまでも流されていきそうになった。

 涼太郎は必死に暴れて何とかもがこうとするが、すべてが無駄で、やがて息が苦しくなって体がずしりと重くなっていくのがわかった。誰か、と思って手を伸ばそうとしたその時、ふとふわりと体を包み込む優しい手の感触があった。

 流れに乗っていた涼太郎の体がそこで動きを止め、その途端ゆっくりと川面から引き上げられるのがわかった。眩いほどの夕焼けの光が目の前で弾け、涼太郎は少しずつ目を開きながら、すぐ側にあるその顔をじっと見つめた。

 とても綺麗な顔立ちをした女性だった。その薄い茶色をした大きな瞳は日差しを弾き返すほどにきらきらと輝いていて、直線的で形の良い鼻に、鮮やかなざくろの色をした唇。何よりもその肌は透き通るような白で美しかった。

 涼太郎は彼女の顔をじっと見つめて、誰だろうと思ったが、すぐに咳き込んで水を吐き出した。涼太郎は女性の細い腕によって抱きかかえられて、その暖かな感触に涙がこみ上げてくるのを感じた。

「危ないところだった。流されたら、取り返しのつかないことになっていただろう」

 女性は涼太郎を抱えたまま川の中に立っていたが、全くその流れなど気にしていない様子で、ゆっくりと歩き始めた。やがて岸に着き、砂利の上に足を伸ばした。

「今度からは、川では絶対に遊んではいけないよ。この川は本当に流れが速い。気をつけなさい」

 涼太郎は喉を震わせながら必死に呼吸を繰り返し、その女性の諭すような声に、次第に気分が落ち着いていくのを感じた。その腕に抱えられてすぐ間近で囁かれると、その言葉がまっすぐに自分の心に溶けていくのがわかった。

 女性の髪が風に乗ってふわりと舞い上がり、涼太郎の顔を撫でてきた。すぐ側にあるその暖かな肌の温もりに、涼太郎は先程の恐怖が遠のいていくのを感じ、ほっとするあまりにわあっと泣き出した。

 声を上げてわんわんと泣いていると、女性はにっこりと微笑み、ゆっくりと腕を上下しながら、ほら泣くな、と囁いた。

「お前は強い子だろう。こんなところで泣いていたら、父と母が心配するぞ。もうこんなところへ一人で来たらいけない。さあ、帰りなさい」

 女性はそっと涼太郎を地面に下ろし、背中を押して歩き出すように促した。涼太郎は言われるまま駆けて行こうとしたが、どうしてもその女性のことが気になって、振り返った。

「いいか、涼太郎」

 そこで女性がふと、厳しい顔つきで言った。涼太郎はその強い眼差しに、体が急に引き締まったような、そんな感覚を覚えた。

「とにかく、父と母を大事にしなさい。あの二人は、お前が生まれないことを嘆き、必死に祈って祈って、それでようやくお前を授かったんだ。お前が生まれるまでに、彼らは本当に苦労して、あげく神頼みするしかなかったのだ。それだけ大切に想われている。絶対に両親を大事にしなさい」

 その大きな重みを持った言葉が涼太郎の心をずしりと覆っていくと、彼は不思議な気持ちになって、気付けば何度もうなずき、「わかったよ」と声に出していた。

 すると、女性がにっこりと一輪だけ咲いた花のようにとても綺麗な笑顔を見せた。目を細めて口元を緩め、顔一杯で笑ったのだ。

 涼太郎も笑い返し、そして一目散に駆け始めた。女性は涼太郎へといつまでも手を振り、何かを囁いていた。その小さな声が少しだけ風に乗って涼太郎の耳に届いた。

「山を大事にしなさい。山と共に生きよ」

 涼太郎は川が小さく見えるところまで来てもう一度振り返り、女性がまだそこに立っていることに気付くと、両手を振って大きな声で叫んだ。

「ありがとう!」

 女性はうなずき、やがて川を渡ってどこかへ姿を消していった。

 そこで周囲に響いていた木の葉の擦れ合う音や、遠くに見える光の降り注ぐ川辺の光景がどんどん遠のいていくのがわかった。目の前の情景がふわりと揺れ始め、水面に広がる波紋のようにすべてが輪郭を失って白い靄の中に溶けていくのがわかった。

 涼太郎は、どうして忘れていたんだろう、とその記憶を思い出して涙を流していた。

 彼女は遠い昔に、僕のことを助けてくれたんじゃないか。そして、また僕らが危険な目に遭った時に、守ってくれた。彼女はきっと――。

 そこで遠くにあの女性の顔が浮かび上がるのが見えた。その表情を汲み取ろうとするが、もはやどんな顔をしていたかは霞みがかって見えなかった。

 それでも、涼太郎は必死に手を伸ばして彼女へと叫んだ。

 ――ねえ、ねえってば!

 彼女は笑ったまま答えず、そこに佇んでいるままだった。涼太郎は手を伸ばして必死に彼女へと触れようとする。叫んで、涙を流して、ずっと呼び続けた。

 やがて、涼太郎のその手が何かをそっとつかんだ。


 目覚めると、涼太郎の手を誰かが握っている感触があった。瞼を開き、そっとその見慣れた顔を見つめた。そこには、すべての重荷から解放されたような、心からの母の笑顔があった。

「涼太郎。起きてみなさい、ほら早く」

 涼太郎は瞼を擦り、いまだぼんやりとした頭で母の様子に首を傾げて、どうしたの、と囁いた。これほどぐっすりと眠ったのは随分前のことのように感じた。

 そっと身を起こすと、母がただ静かに家の入口を指差した。涼太郎は半分寝ぼけたまま、その方向へと首を向けた。その瞬間、

「え?」

 信じられない光景を見たような気がした。父が戸口に立ち、頭上まで積み重なったその雪にぽっかりと空いた先を指差した。涼太郎はそれを見て、全身の緊張が解けて、崩れ落ちそうになるのを堪えた。

 そこには、天から舞い降りた階段のように、すっと空から光が差し込んで、真っ白な大地を照らし出していた。空は澄み渡り、雲ひとつなく、暖かな日の光に何もかもがきらきらと輝いているように見えた。

 まさか、本当に? 涼太郎は布団から跳ね起きて、駆け出した。父の元に走り寄り、その背中から外を覗いた。やはり、見間違いようもなかった。あれほど降り続いていた雪は掻き消え、目の前には銀世界が広がっていた。

 どこからか鳥の囁き合う声が聞こえてきて、涼太郎は気付けば父を押しのけて、家の外へと駆け出ていた。

 そこに広がる光景は、別の世界に紛れ込んでしまったような、そんな途方もない驚きを涼太郎の心に刻んだ。山々は雪を被って化粧をしたように白に統一されている。家の側に生え茂る木々の枝には雪が積もり、冬の化身となったように全てが真っ白になっていた。

 そうした木々の真っ白な影がどこまでも網の目のように続いている。その木々が地面に落とす影は、空を映したような青に染まっていた。その濁りのない色がどこまでもどこまでも混ざり合って連なっている。

 涼太郎は一瞬心を奪われそうになったが、すぐにこの雪のとてつもない恐ろしさを思い出し、自然と体が震えてくるのがわかった。するとそこで父が背後から近づいてきて、肩に手を置いた。

「私達が生きのびられたのも、涼太郎のおかげだよ」

 涼太郎は一瞬声を失い、視線を伏せて俯いたが、その時「おーい!」と聞き覚えのある大きな声が聞こえてきた。すぐに誰かが雪を踏みしめて歩いてくる足音が山に木霊し、涼太郎ははっと我に返った。

 山道を何人もの男達が登ってきて、こちらに近づいてくるのが見えた。その先頭には、野太郎の父親が立ち、こちらに大きく手を振っている。

 涼太郎は目を見開いて、そしてその溢れ出しそうな想いを堪え切れず、一気に走り出した。雪に足を突っ込み、引きずり込まれそうになりながらも必死に蹴って、野太吉の元に駆け寄ると、その腹へと飛び込んで抱きついた。

 大きな声を振り絞って泣き喚き始めると、野太吉は涼太郎の背中を撫でて、つらかったろう、と自分もすすり泣き始めた。涼太郎はその逞しい腕にしがみつき、この暖かな温もりが現実のものなのだとようやくはっきりと感じることができた。

「よく、生きのびたな、涼太郎。本当に、無事で良かった」

 野太吉は彼の息子と同じように落ち着いた眼差しで涼太郎を見つめ、本当に元気であることを確認しているらしかった。その長身を屈めて、細い目をさらに糸のようにさせ、何度もうなずいている。

 涼太郎がしゃくり上げていると、家から涼太郎の父と母が出てきて、野太吉の背後に続いていた男達も一斉に駆け寄っていった。

 本当に良かった、まるで嘘みたいだ、と声を交わし合っている彼らの背中を見つめながら、涼太郎は野太吉の手を握り、涙を拭くのも忘れて佇んでいた。

 すると、野太吉が涼太郎へと振り向き、とても疲れているような、しかし本当にほっとしているような笑みで顔を突き合わせ、小さく言った。

「涼太郎が暮らしている家は村から離れたところにあるから、食料も運べないし、どうしたかと思っていたんだ。一体、どうやって生きのびたんだ?」

 野太吉が涼太郎の手を引き、歩き出しながら言った。涼太郎は鼻水を服の袖で拭きながら、「果実だよ」とつぶやいた。「金色の、果実を食べたんだ」

「金色の果実?」

 野太吉の目が大きく見開かれるのがわかる。顎に手を当てて考える素振りを見せながら、金色の果実、と何度もつぶやき、神妙な顔をしている。

「そんなもの、本当にあるのか? それを食べて、生きのびたっていうのか?」

 涼太郎はそうだよ、とまっすぐな瞳で野太吉を見返し、うなずいてみせた。

「それが本当なら、これは信じられないことだ。とにかく、どんな方法でも、涼太郎達が生きていて、ほっとしているんだ」

 男達は持っていた食料をさっそく涼太郎の両親に渡し、家の中に入っていく。さっそく雪を掻き分け始めた男達に、何かを言いたげにしている両親の姿があり、涼太郎はその代わりに口を開いた。

「実は、僕達が生きのびたのは、これを食べたからなんだ」

 炉の側に置いてあったその金色の果実の皮を見せると、野太吉とその同行した男達は一斉に目を見開いた。

「な、なんだい、これは。とても綺麗だ」

「何の実だい?」

 涼太郎は首を振って答えず、ただその皮を野太吉の手に差し出した。野太吉はそれを受け取ると、途端に学者の目に変わって、それを色々な角度から隈なく観察しているようだった。

 そっと指を皮へと伸ばすと、それをぎゅっと押しつけた。その指をぺろりと舐め、その途端、彼は驚いた顔をした。

「なんだ、これは。とにかく甘い。こんな味は全く知らないぞ」

 涼太郎の両親が、じっとこちらを見つめて、触れてはいけない部分について言及しようか迷っているようだった。涼太郎がこの金色の果実について、話したがらないということを知って、躊躇っているようだった。

 涼太郎は二人のその気持ちがよくわかったので、意を決してその話を始めた。

「僕がこの金色の果実を手に入れたのは、あの川から水を掬いに行った時なんだ」

 そこで、川の向こう岸から女性が現れ、彼女が桶を貸して欲しいと言った。その代わりに、彼女は森の奥からこの果実を持ってきて、涼太郎にくれたのだ。

 最後に彼女は、大きくなったな、と確かにつぶやいた。涼太郎のことを知っているようだった。

 そこまで話すと、両親は目を大きく開いて互いに顔を見合わせ、何かを悟ったらしい顔をした。二人の瞳に涙が溢れ出し、涼太郎を本当に誇らしげにじっと見つめた。

「これは、本当にありがたいことだ」

 野太吉が突然そうつぶやいたので、そこに集まる皆の視線が一斉に彼へと注がれた。

 彼はその皮を両手で持ち、何か貴重なものを授かった後のように、それを宙へと持ち上げ、目を閉じながら言った。

「遠い昔に祖父が記した伝記にこんな記述があったのを覚えている。あの川の奥にある林のずっとずっと先に崖があり、その近くに大きな神木が立っていると。その木から生る実は、金色の光沢を放っていたと言う。これは、涼太郎を祝福する何者かが与えてくれたものに違いない」

 野太吉がそう言って、その大きな感情に瞳を揺らせ、涼太郎を感慨深げにじっと見つめている。涼太郎は体の芯から、震えがこみ上げてくるのがわかった。それは、本当に頭が下がるほどの感謝の念だった。

「やはり、涼太郎は山から見放されていなかったんだ」

 涼太郎の母が顔を手で覆って、溢れるほどの涙を零しながら言った。父が母の肩をそっと抱きかかえ、何度も鼻を啜りながらうなずいている。

「私達は、長年子供に恵まれなかった。それで、本当に何物にも縋りたい必死の思いで、あの川に行き、山の主様にお祈りしたんだ。どうか私達に、子供を授からせて下さい。私達は山と共に生きます。ですから、どうか山の恵みを私達に授けて下さい、と地面に頭を擦り付けて、頼み込んだのだ。その翌年、お前が生まれたんだ」

 母がこちらへとじっと視線を投げかけ、本当に、何物にも勝る喜びを顔に浮かべて、涼太郎に笑いかけた。涼太郎は胸が詰まり、拳を握りながら俯いた。

 あの女性の優しい言葉が忘却の扉から一斉に湧き上がり、自分の頭を暖かな想いで一杯にするのがわかった。涼太郎は彼女に向かって、ありがとう、とただひたすらにつぶやき、ようやく彼女の想いを受け取った気がした。

 ――本当に大きくなったな。

 ――あの二人は、お前が生まれないことを嘆き、必死に祈って祈って、それでようやくお前を授かったんだ。お前が生まれるまでに、彼らは本当に苦労して、あげく神頼みするしかなかったのだ。それだけ、大切に想われている。

 彼女が涼太郎を心配して、あの山の奥深くから現れたこと、語ったその一つ一つの言葉はすべて真実で、涼太郎を想った上で語られたものだったのかもしれない。

 涼太郎は顔が涙でぐちゃくちゃになるのも構わず、両親へと駆け寄るとその手を握り、その温もりを感じ合った。野太吉が涼太郎達をじっと見つめ、何度もうなずきながら、そっと戸から見える山々へと向かって手を合わせた。

 他の男達も一斉にそれにならい、涼太郎と両親も手を合わせて祈った。

 僕たちは、生きる。どんなに死を運命づけられて、生から遠ざかっても、それでもまた元通り生を手繰り寄せてみせる。

 そうやって、生きていきたいんだ。

 涼太郎はあの女性に向かって、何度も何度もそう語りかけるのだった。


 *


 それから数日が経ち、まだ雪は残っていたけれど、また冬にしては暖かな陽気が続くようになった。山の尾根に沿って立ち並んでいる木々の影が白い雪の上に映えるようだった。涼太郎が川へと向かって歩く道も、ところどころ雪が溶けて黒い岩肌がのぞいており、もう何年もこれだけの冬山の景色は見たことがなかったな、と思った。

 涼太郎は山と暮らした年数も村のお年寄りに比べれば、まだまだ短く経験もないのだが、それでもこうした山の顔を見ると、感慨深げになってしまう。

 自分が山の中で、一つの生命として息づいていること、山の脅威にはその恐ろしさを知ることで、常に気を付けていなければならないこと、様々なことが心に刻まれている。

 山の恐ろしさは今までにも大人達から諭されてきたが、それでもあの期間ほど恐ろしいものはなかった。こんなにも生と死が山の中では繰り返されているのだと思うと、そのあまりの大きさに怖くなってくる。

 それでも、何があったとしても、涼太郎はあの川に行くのが好きだった。きらきらとした琥珀のように輝く川面、草いきれも泥臭さもない澄んだ空気、何より太陽が真正面に見えた。

 朝、あの川に行く度に、何度彼女の存在を向こう岸に確かめただろうか。ねえ、と呼びかけても、あの存在自体が幻だったかのように、しんと静まり返っていた。

 だが、その日、涼太郎は一つの予感のようなものを感じていた。毎日同じ道を通っていればわかる、何となく山の奥地から漂う空気への違和感が涼太郎の心を揺らせた。

 もう一度会いたい。今度は必ず――。

 涼太郎は拳を握り締め、さらに雪で歩きづらい急傾斜の道をわずかも休まずに歩き続けた。そして、ようやくその川岸に辿り着いた。

 そっと視線を前方へと伸ばし、涼太郎は微笑んだ。


 ――そこに彼女が立っていた。

 彼女はあの時のように川のすぐ側に佇み、白い装束を纏って素足のまま、微塵も震えている様子もなく、こちらをじっと見つめていた。

 涼太郎はその想いが涙と共に一斉に溢れて、胸を突き破るのではないか、と思った。それほどまでに、涼太郎が彼女に伝えたいと思う想いは無数にあった。

 涼太郎が何かを言う前に、女性が全てを悟っているその顔で、小さくつぶやいた。

「涼太郎。お前はいつも勇気を出して前へと進みなさい。どんな苦難も、大切な人や想いを守る為に乗り越えなさい。だから、そう――」

 山と共に生きなさい。

 そう言って、あの時のように、真珠が弾けたような輝きを放つ心からの笑みを浮かべた。

 涼太郎が口を開き、何かを言おうとしても、もうそこには彼女の姿はなかった。

 伝えたい想いがたくさんあった。だが、もう彼女には既に伝え終わった後だったのだ。

 涼太郎がそこでやるべきことは一つだけだった。

 心からのありがとうを、川の向こう岸の彼女へ伝えることだった――。


 了

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天女と共に、山を越えて 御手紙 葉 @otegamiyo

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