山奥の、生きとし生けるもの

 涼太郎が通っている学校は彼の家からさらに山を越えた麓に近いところにあり、そのすぐ側には涼太郎の友人が暮らす村があった。そこからいつも食料などを分けてもらったり、必要な物資を交換したり、と週に何回かは通って必ず交流を重ねていた。

 そうしなければ、自然と生活は成り立たなくなり、この山の奥地で苦しい思いを味わうことになる為、両親は本当に村の人々に感謝していた。

 村に行くには山の傾斜の厳しい道を延々と上り下りしなければならず、足腰が特に疲れてしまうのだが、涼太郎は何故か村に行くまでに一時間半ほど歩いていても、息が全く切れずに疲れなかった。

 億劫に思っているその道も、すいすいと体が勝手に動いて上ることができた。不思議な感覚に涼太郎は内心首を傾げながら、学校まで着いた。

 いつもより三十分も早く登校したようだった。涼太郎は雑木林を背に建っているその小さな校舎へと赴き、弾むような足取りで中へと入った。

 学舎は本当に簡単な造りで、普通の小屋なのだが、村の男達が何度も建物を確認して手入れされているので、板張りの廊下もぴかぴかと光を放ち、玄関には廊下に上がる傾斜も低く作られているなど、転ばないようにと細心の注意がなされていた。

 下駄箱は十人分ぐらいしか用意されていなかったが、まだ誰も来ていないようだった。掛け軸に書かれた文字は入り口からすぐに見えるようになっていたが、その達筆の文字は学校長が書いたものだった。

 山の恵みに感謝しましょう、といったものだった。

 涼太郎は廊下に上がると、そっと進んで突き当たりを右に折れ、教室に入った。十五畳ぐらいの部屋の中に机が床に置かれ、そこにいくつもの座布団が並べられていた。涼太郎はその一番後ろの席に腰を下ろし、朝陽が差し込んで明るい教室をぼんやりと眺めて過ごした。

 教室には一つだけ窓があり、そこから山々の稜線が伸びている景色が一望することができた。涼太郎は早く友人が来ないかとずっと帳面を見つめながら待っていたが、そこで足音が近づいてくるのが聞こえた。

 はっと顔を上げると、戸口に涼太郎の親友達が立っていた。二人は涼太郎が既に席について待っているのを見ると目を丸くした。

「おいおい。涼ちゃん、とびきり早いな」

「そんなに急いで、村に用があったのか?」

 弥助と野太郎が目を丸くして言って、涼太郎の机に近づいてきた。野太郎はその大きな体を折って涼太郎へと屈みこみ、さらに「なんか嬉しそうだな」と声を上げた。

「ちょっと面白いことがあったんだ」

「面白いこと? 俺らにも聞かせてくれよ」

 野太郎はその凛とした面立ちをすぐにきらきらと好奇心に輝かせて、涼太郎の肩を叩いてきた。彼の細長い背中に立つようにして、弥助が大きくうなずいてみせた。

「隠してないで、話してよ。涼ちゃん」

 元々背が小さく顔立ちがどこか女子にも似た優しい表情をしている弥助が、ぐっと拳を握って身を乗り出してきた。その端正な顔が間近に迫り、涼太郎は笑いを堪えながら、口の端に手を当てて囁き声で言った。

「あのね。僕の家のすぐ近くにある川の向こうから、人が出たんだよ」

 人ッ!? と二人が素っ頓狂な声を上げて、涼太郎にさらに体を寄せて、驚愕で言葉も出ない様子でじっと視線を送ってくる。野太郎はそのがっしりとした体を熊のように丸めて小さな声を出し、本当か、と囁いた。

 弥助もその大きな瞳を見開いて、リスのように体を丸めて、どういうこと? と掠れた声でつぶやいた。

 涼太郎は二人の顔を交互に見て、本当に掻き消えそうな小さな声で言った。

「女の人だよ。すっごく綺麗な人で、天女みたいな格好してさ。川の水の中に入って歩いてきても、全然顔色変えないんだよ。桶の水を飲ませてくれって、そう言ってきたんだ」

 涼太郎がそう興奮した様子で語ると、二人はどこか困惑した顔をして、しきりに首を傾げてみせた。

「本当にそんなことあるのかなあ」

「その人、村の方から来た人なんじゃないか?」

 弥助が疑っているような顔をしている横で、野太郎が冷静に涼太郎の語ることを吟味しながらそうつぶやいた。涼太郎はぶんぶんと首を左右に振って、少しだけ意地になりながら自分の体験を繰り返し話した。

「だってその人、川の向こう岸に渡って森の方に去っていったんだよ。村から来た人なら、川の向こうに行くなんて絶対にないよ」

 涼太郎が確信に満ちた声でそう言うと、弥助はその強い語調に嘘をついているのではないと感じたらしく、途端に興味を掻き立てられたのか、その女性の特徴を次々と聞いてきた。

「涼太郎の言うことが本当だとすると、確かに村の方から来た人ではないかもしれないな」

 野太郎が冷静に涼太郎の話を考えて、思案げな顔をして言った。顎に手を当てて腕を組み、険しい表情をしている。野太郎はその大きな体からは考えられないほど運動音痴なのだが、その反面、とても頭が切れる友人だった。

 日頃からその体格を活かすというより、書斎に篭って学問に熱中している性質を持っていた。野太郎はうんうんと唸って考えていたが、一つうなずいて言った。

「もしかしたら、その人は山の主なんじゃないか?」

 その言葉に、涼太郎と弥助は同時に野太郎へと振り向き、主? と声を張り上げた。野太郎はどこか凛とした眼差しを二人に向け、大人びた口調で言った。

「山の方へ帰るとなると、やはりそこに住んでいるということになる。そこでずっと隠れて暮らしていた人がいるのかもしれない。仙人のような人だな」

「仙人……」

 弥助がその話についていけないのか、目をきょとんとさせながら言った。涼太郎は心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、野太郎にさらに問いを投げかけた。

「だから、山の主ってこと? そんなことって本当にあるの?」

「わからないが、けれど川の向こうに人が住んでいないとなると、もしかしたら山の霊かもしれないぞ」

 弥助が霊、とぽつりとつぶやき、急に怖くなったらしく、野太郎の太い腕をぐっとつかんだ。涼太郎はそこであの果実のことを二人に話そうと口を開こうとしたが、女性の言葉が胸に残っていて、それが大きな重みとなって涼太郎の言葉を押し留めた。

 約束したじゃないか。

 涼太郎はこうして話をしていることが急に良くないことのような気がして、もうそれ以上言う気がなくなってしまった。

「そんなことってあるんだなあ。今度僕もその川に行ってみたいな」

 弥助が星空を眺めるようなきらきらした眼差しで宙を見上げ、どこかぼうっとした様子で言った。野太郎は顔の前で手を振り、やめておけ、と制した。

「川の方へ近づくのは、涼太郎の家だけだという決まりだろ。まあ、親父の文献とか調べて探ってみるよ」

 野太郎は心に火がついたように燃えるような目をして、何度もうなずいている。野太郎の父親は村の有名な学者で、書斎を持ち、たくさんの学問に精通している。

 その父親の文献を見れば、何かわかるかもしれないということだった。涼太郎は自分が言った手前、話を中断させることもできず視線を彷徨わせていたが、そこで教室に次々と生徒達が入ってきた。

 何とかその話題は終了したようで、涼太郎はほっとした。二人もそれ以上は追求せず、最近見た動物の話などを笑いながら話し始めた。

 生徒達は次々と自分の席につき、お喋りを始めたが、そこで担任の教師が今日は早めに教室に入ってきたので、弥助と野太郎も慌てて自分の席に戻っていった。

「皆さん。今日はいつもより暖かいので、外で遊びましょう。冬は家の中に閉じこもりがちですが、体を動かして丈夫な体を作りましょう」

 まだ若い女性の先生は、きっちりと額で二つに分けた髪の毛をふわりと浮き上がらせながら、溌剌とした声で語った。その途端、教室中で子供達の歓声が上がり、年長の子供が先に立って下の子を誘導し始める。

 涼太郎も親友達と並んで外へと向かい、靴を履き替えて運動場へと向かった。朝陽がいつの間にか空へと昇り、輝きを放っており、木々もなく、どこまでも開けた運動場には燦燦と光が降り注いでいた。

 ぽかぽかと冬の日には珍しく陽気で、涼太郎達は嬉しくなりながら、三人で鬼ごっこをしようということになった。一斉に散り、鬼である涼太郎は二人を捕まえようと奔走したが、親友達はあっけなく涼太郎の手によって鬼となってしまった。

「どうしたんだ、涼太郎。いつも足が遅くて苦手なはずなのに、今日はウサギみたいにすばしっこいじゃないか」

 野太郎が驚いたように涼太郎を見つめ、弥助もうんうんとうなずいて奇妙なものを見るように涼太郎へと視線を向けた。涼太郎は地面から飛び跳ねながら、大きく笑い声を上げて言った。

「なんだか今日は体が軽いんだよ。全然疲れないし、元気でしようがない」

「ええ? どういうことなんだ? 明日、雪でも降るんじゃないのか?」

 野太郎が頬を手で押さえて叫ぶと、弥助が腕を振って「そりゃ、今は冬でしょ」とにやにやしながら言った。三人は腹を抱えて笑いながら、再び鬼ごっこを始め、野原を駆け抜け続けた。

 涼太郎はいくらやっても捕まらず、仕舞いには他の二人は疲れ切って、地面に仰向けになって倒れてしまった。

「はあ、はあ……なんで涼太郎、そんなに元気なんだよ。お前はイノシシか」

「涼ちゃん、すごく足速いんだもん。どうしちゃったの?」

 野太郎と弥助がそう言うと、涼太郎は全く息を切らさず、二人の横に寝っ転がって空を見つめた。真っ白な空がどこまでも透き通るようにして広がり、日差しだけがただただ暖かかった。

 冬の冷気など全く気にならないほど、体がぽかぽかとしていて、涼太郎は本当に嬉しくなって、二人へと顔を向けてうきうきしながら言った。

「今年の冬は全然雪が降っていないし、いっぱい遊ぼうよ。明日とか、また村で一緒に遊ぼう」

 涼太郎が期待を滲ませて大声で言うと、野太郎がすぐにこちらへと顔を振り向かせ、少し険しい顔をしてつぶやいた。

「いや、気を付けておいた方がいい。油断していると、突然雪が降った時に大変なことになる。とくにお前の家は村から離れているし、注意しとかないと駄目だ。あまり家から離れない方がいい」

 野太郎が強い口調でそう言ったので、涼太郎は少し口を尖らせて言い返そうとしたが、弥助が大きくうなずいて、そうだよ、と言った。

「山は何が起こるかわからないよ。あんまり遠くに行かない方がいいと思う、僕も」

 二人に言われるともう言い返せなくなり、涼太郎はそっぽを向いて「わかったよ」と小さくつぶやいた。

 冬のその厳しい寒さが頬を刺していくのを感じながら、それでもこれほど気持ちの良い陽気が続くとなると、どうしても外で思いっ切り遊びたいという気持ちがふつふつと出てきてしまう。二人の忠告は確かにその通りなのだが、それでも涼太郎は自分のその気持ちを抑えることはなかなかできなかった。

 鬼ごっこをした後の心地よい体の火照りが、一時的に冬の冷気を掻き消してそんな気分にさせているのだろうが、冬だからこそ思いっきり遊ぶ時間も必要なのではないかと考えざるを得なかった。


 その翌日、涼太郎は朝目覚めるとすぐに家を出て、桶を腕から提げて川を目指した。昨日の陽気がなくなってしまうのではないかと心配だったが、その日も晴れやかな天気となり、ぽかぽかと体が暖かかった。

 冬にも関わらず、こんな天気が続くなんて本当に珍しいな、と涼太郎は弾むような足取りで道を歩き、さらに山の奥へと目指した。

 小鳥の鳴き声が頭上で響き渡る中、涼太郎もそれに合わせて口笛を吹き、一緒に歌声を山の隅々まで響かせようと競争した。そんな遊びをしてしまうほどにその冬の朝はとても幸せに溢れていて、涼太郎はあの女性がまた川に来るのではないかと期待を胸に歩き続けた。

 ようやく川へとやって来ると、眩しいほどの朝陽がその一帯に降り注ぎ、やはりそこにはどこか浮世離れした光景が広がっていた。何もかもが輝いていて、光の衣を纏っていた。木々や砂利が積み重なった地面からその生命の鼓動が伝わってくるようだった。

 しかし、何故か涼太郎はその自然の放つ空気が、昨日のものとは少し違っているような感覚があった。どこか鬱々とした黒い瘴気が漏れて、どこか危険な匂いが漂っているような、そんな印象を瞬間に感じた。

 なんだろう、何かいつもと違うような気がする。

 涼太郎は胸の内に少しだけ不安が現れてくるのを感じながら、そっと川面に近づき、桶に水を浸した。ゆっくりと溜めていくが、じっと向こう岸に視線を送っていても、あの女性が現れることはなかった。

 水を汲んだ後も涼太郎はしばらくそこに佇んで彼女が今すぐに木立の間から姿を見せるのではないかと思っていたが、いくら待てども来なかった。

 涼太郎は我慢できなくなり、ねえ、と大きな声を上げて森の奥へと向かって呼んだが、その場にはひっそりとした静謐さが揺らぎもせず漂っているだけだった。

 涼太郎は肩を落としてがっかりした気持ちになりながら、川から歩き出して、最後にもう一度振り返ったが、涼太郎の願いに応えてその女性が現れることはなかった。ひどくつまらない気持ちがふつふつと湧いてきて、涼太郎は地面の石ころを蹴りながら足取りも遅く家へと引き返し始めた。

 今日は学校がないので野太郎や弥助と遊ぶことはできないと同時に、二人の言っていた通り、家で大人しくしているとなると、もう癇癪を起して誰かに憤懣をぶつけたい衝動に駆られた。

 元々涼太郎は飽きっぽい性質なので、余計に家でじっとしているのが苦痛に感じてしまうのだった。

 そんなことを考えているうちに藁ぶき屋根が見えてきて、自分の家に早くも辿り着いてしまった。涼太郎は思わずぞんざいに桶を戸口に置きながら、そっと家の中に入った。

 すると、両親はまだ他の部屋で何か話しこんでいるらしかった。お腹が減っていたのにまだ用意されていないようだったので、涼太郎は鼻息を荒くしながら土間から上がり、囲炉裏の側に座っていたが、ふと今のうちに食べてしまおうかと思った。

 それは女性からもらったあの果実のことで、台所の奥で竹籠の中に仕舞われていたのだが、それを今、こっそりともらってしまうのはどうだろうか、と思った。あのみずみずしい果実を頬張れば、このいらだちも消えて、気を紛らわせることができるし、と言い訳めいたことを考える。

 そう思った時には、涼太郎は台所に赴いて、竹籠の中の果実を三つ取り出して並べていた。両親が戻ってくる前に全部食べてしまおう、と包丁を手にして慎重に一つ一つ切っていった。

 その果実からはすぐに甘い香りが立ち上り、涼太郎は唾をごくんと飲み干しながら、一気にそれを齧った。その瞬間、口の中いっぱいに冷たい濃厚な果汁が広がり、彼は思わず声を出して大きく唸った。

 次々と果肉を口に放り込んでいき、顎を休ませることなく、一気に食べ切った。すぐにあの全身を巡る大きな満足感に、涼太郎はそこでようやく笑顔を浮かべて鬱憤が晴れたと思った。

 だが、自分が今何をしているのか、そのことを考えて背筋が冷たくなった。あの女性が涼太郎に優しさをくれたのに対して、鬱憤晴らしの為にこんな貴重なものを食べ切ってしまったのだ。

 両親もあんなにこの果実を食べるのを楽しみにしていたはずだ。それを考えると、一体自分は何を考えていたんだ、と冷や汗が流れていくのがわかった。

 そこで座敷の方から母親が自分を呼ぶ声がして、涼太郎は飛び上がった。すぐに竹籠に布をかぶせて他の道具の隅に隠して置いた。程なくして母親が台所に現れ、彼女はそこに立っている涼太郎を見て、満面の笑みを浮かべた。

「手伝ってくれるのかい? 朝食が遅れてごめんねえ。すぐに用意するから」

 涼太郎ははい、と小さな声で返し、その言葉に従った。膳を用意している中、罪悪感だけが心を突き刺し、いつ言おうか、とその機会を待っていた。だが、言い出せないままに囲炉裏の周りへ三人でついてしまった。

 いつものように穏やかな会話が始まり、涼太郎はとうとう言い出すことができず、俯き加減で米を口に運んだ。あの竹籠の中に一つだけ残った金色の果実のことを打ち明けようとしたが、なかなか喉から言葉が出てこなかった。

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