天女と共に、山を越えて

御手紙 葉

山の奥から現れた女

 涼太郎はそっとその戸口から外へと出ると、「行ってきます!」と中にいる両親に聞こえるような声で叫び、そしてずんずんと木々が立ち並ぶ小道を進んでいった。

 視界にはぐるりと大きな山々が囲っていて、肌を突き刺すような冷気が服の隙間から差し込んでくる。吐息が靄となって口の前で溶ける。涼太郎はどこか弾んだ足取りで、手に持った桶をぶんぶんと振り回しながらその道を進んでいった。

 まだ朝のひっそりとした静謐な空気が山をすっぽりと包み込んでいるようだった。目の前に見える二つの山の間から橙色の朝陽が顔を覗かせて、羽を広げるように四方へと光を伸ばしていた。

 木々はもう葉が落ちてすっかりと枯れ、灰色の幹はかさかさに乾いて、少しだけ剥けた跡や濡れた部分などが見つかり、枝には霜が少しだけ積もっていた。すっかり厳しい冬の光景が辺りに広がっていた。

 涼太郎は足首を覆っている履物を踏み鳴らしてサクサクと乾いた落ち葉を蹴散らしていったが、彼のそんな無邪気に遊ぶ音がどこまでもどこまでも谷の奥まで木霊するようだった。

 それだけこの山の中にある一本の小道には、生き物の気配が消え失せていた。だが、涼太郎はそんな寂しさも全く気に留めず、村で伝わっていた唄を口ずさんでぴょんぴょんと飛び跳ねて歩いた。

 その岩肌が剥き出しになった小道には一面に雑草の生い茂る丘が続いており、そこだけが木々が取り払われて開けた土地になっていた。雑木林が続いており、涼太郎の遊び場になっていた。

 涼太郎は今日は学校に行く日だったので、余計に気分が浮き立つように元気だった。涼太郎がこうして朝、家を出て桶を手から提げて小道を歩くのも、この先にある川の水を掬う為だった。

 別に水なら家の側でも掬ってくることはできるのだが、その川の水は澄んでいて美味しく、そしてとても貴重とされているものだった。

 両親はその川の水をもらってくるのは、一番涼太郎が適任だろうと何度も言っていた。お前が一番あの川と縁が深いから、と。

 何故両親がそこまで涼太郎に諭すように言うのかわからなかったが、それでも涼太郎はこの朝の散歩がとても楽しく、気に入っていた。

 涼太郎はそのまま小道をずっと進んでいき、山の奥深くまで突き進んでいった。やがて木々が密集しているところから開けた土地に出た。

 その瞬間、ぱっと光の雨が涼太郎の体に降り注いだ。そこには一帯に太陽の日差しが差し込み、川の水に反射して煌いていた。

 先程までの寂れた空気はどこかへ消えてしまい、そこには生き物の活き活きとした躍動感に溢れていた。木々は点々と連なり、まだ葉がついているものもあった。

 川の側の砂利には雑草が生い茂り、そんな小さな草木さえも艶々と生命に溢れており、とても気持ちの良い場所だった。

 その川はなかなか大きく、向こう岸には一際大きい木がそびえ立っていた。涼太郎はあの先に一体何があるのだろうといつも思っていたが、この川を越えることは絶対にやってはいけないことだと両親に幼い頃から何度も言われてきた。

 何故行ってはいけないのかとそればかり気になってしまうが、それでもその神秘的な場所の空気を吸ってみると、何故だか納得してしまうのだった。

 ここは、汚してはいけない場所なんだ。容易く足を踏み入れてはいけないところなのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせて、涼太郎はそっと川へと近づき、屈みこんだ。川の水面には涼太郎の細面の顔が映っていて、その色の白い肌がつやつやと艶やかに光っていた。

 涼太郎は桶で水を掬い、半分ほどまで溜めようとしたが、そこでどこからか砂利を踏む軽やかな音が聞こえてきた。

 そっと顔を上げると、まず白い影のようなものが川の向こう岸に揺れているのが見えた。涼太郎は思わず目を瞬いてよく見たが、それは確かに女性だった。

 とても物静かな雰囲気で、彼女は白い装束を身に纏っていた。髪は腰の下まで届くほどに長く、黒というよりは青、しかし光の加減で別の色にも見えるどこか不思議な色合いをしていた。

 それは日の光を浴びると七色の光沢を放ち、ゆっくりと背中で揺れて風に乗っていた。そしてその手足は雪の色に染まってしまったかのように白く、とても細かった。

 彼女は素足でゆっくりと一歩を踏み出すようにして歩いていた。一歩足を前に出すと、そこで体の動きを止め、足元をじっと見つめる。

 そしてまた一歩を出すと静かに佇み、何かを考えているような顔つきをしていた。その瞳は枯葉の色で、その面立ちはどこか怖気が立つくらいに整っていた。

 まっすぐに伸びた鼻筋やきめ細かな肌、そしてその細い眉。小さな唇にはさくらんぼの実を口に含んだ後のように鮮やかな朱色で、幼いようにも歳を取っているようにも見えた。

 彼女は本当にゆっくりとした足取りで川の向こう岸までやって来ると、じっと涼太郎の方を見つめた。涼太郎はその不思議な女性に、どんな言葉を上げることも、行動を起こすこともできずにそこに佇んでいた。

 しばらく無言で視線を交わし合うことだけが続き、やがて女性がにっこりと唇を微笑ませて、慈しむような優しい眼差しで言った。

「この川の水を飲みたい。その桶を貸してくれないか?」

 涼太郎はその鈴のような、小鳥にも似た優しい囁き声に、胸の奥からどこか喜びが湧き起こってくるのを感じた。女性の声音がとても優しいものだったので、一気に警戒心を解いて、話ができることに楽しさが溢れ出てくるようだった。

 涼太郎は大きな声で「いいよ!」と言って、桶を差し出した。女性は大きくうなずき、川へと足を入れて、ゆっくりと掻き分け始めた。

 白装束が水に濡れ、それはとても冷たいはずなのに、女性は全く顔色を変えずに微笑みを浮かべたまま涼太郎の元にまっすぐやって来た。

「それでは、借りるぞ」

 女性はそう言って桶を受け取ると、それに口を付けた。その細く小さな首筋に水を飲み干す小さな音が響き、そして彼女は桶を口から離して、小さな吐息をついた。

 気のせいか、彼女が息吹を零した瞬間に、ふわりと小さな微風が吹き付けてきたような気がした。涼太郎は彼女の美しい顔をじっと見つめながら、不思議な気持ちで、彼女が桶を差し出してくるのを見守った。

「ありがとうな。よし、お前にも何かをあげよう。ちょっと待っておれ」

 彼女はそう言って川を引き返し始めた。そして、向こう岸に辿り着くと再び振り向き、にっこりと笑って言った。

「少しかかるが、待っていてくれるか?」

 涼太郎はその聞き惚れてしまいそうな声に、すぐには答えられなかったが、やがて「うん」とか細い声で答えた。すると、女性は身を翻して、再びゆっくりと森の奥へと姿を消してしまった。

 涼太郎は彼女が一歩を踏みしめるごとに、足元の草木が何か黄金の光を纏って揺れるような、そんな生気そのものが空気に満ちていくのを確かに見た気がした。

 何故かそこに息をしている生き物のすべてが彼女の纏う空気に、活力を取り戻していくような、そんな信じられないような瞬間を目の当たりにした。

 涼太郎は彼女が去った後、ただ突っ立っていたが、不思議と不安のようなものは心から全く消えていた。ただ彼女と話したい、彼女は何をしてくるのだろう、とそればかりに好奇心が湧いて、心をうきうきとさせていた。

 しばらく木々の枝が揺れる微かな音だけがその場所に響き渡っていた。涼太郎は桶を砂利の上に置いて、手を休めながら鼻歌を唄って体を揺らせて、待った。

 一体あの女性は誰なのだろう、と涼太郎はとても心が浮き立つのを感じていたが、それよりも彼女と少しでも話していたい、その声を聞いていたい、とそんな不思議な気持ちがふつふつと湧き起ってくるのだった。

 そうして太陽が山間から上がって空へと近づき始めた時、ようやくかさかさと森の奥から音がして、その女性が現れた。彼女がそっと枯葉を踏んで歩いてくるのが見えて、その姿を見つめた途端、やはり周りに漂う空気がきらきらと輝いているような、そんな錯覚に囚われた。

 なんなんだろう、どうして彼女の周りを金色の光が舞っているのだろう。

 そんなことを思いながら彼女が川の向こう岸に立つのを見守っていると、彼女は腕で抱えたたくさんの大きな木の実を「ほら」と見せてきた。

「どうだ。美しいだろう」

 彼女はどこか誇らしげな口調で言って、腕を上げてそれを涼太郎に見せてきた。その果実は大きな鞠のような形をしていて、皮に覆われていた。その皮は蜜柑のものに似ていて、そして最も驚いたのは、その色が金だったことだった。

 それは朝陽の光を弾き返すほどに照り輝いていて、どこからか甘酸っぱい匂いがこちらへと漂ってくるのを感じた。女性は涼太郎の顔を見つめると、満足そうにうなずき、そして再び川を掻き分け始めた。

 その果実の光沢が川に光の流れを作って、宙で瞬いていた。涼太郎はとても心が弾むように元気になるのがわかったが、同時にこの光景が夢なのではないかと思った。

 だが、目の前に立った女性の姿は見紛うことのない、生きている人のそれで、その深い色をした瞳や、彼女の唇から漏れる小さな吐息に、髪から漂うどこか甘い香りなど、すべてが輪郭を持って確かなものだった。

 涼太郎は彼女が一体誰なのか、それを聞くことよりも、その腕の中の果実に目が釘付けになってしまい、彼女に駆け寄った。

「それ、僕にくれるの?」

 涼太郎がそう言って首を傾げると、女性は大きくうなずいた。そしてそっとそれを差し出し、涼太郎の小さな腕に載せた。

「これを水の中に浸けておけば、自然と良い香りがついて美味しい水になるぞ。そっと桶に浸しておけ」

 女性がそう言ったので、涼太郎は言われた通り、それを桶の中に入れた。何しろたくさんあったので、桶からはみ出てしまうほどだった。

「食べてみろ」

 女性はそう言うと桶の中の一つを手に取り、それにそっと手を当てた。すると、驚くことにふわりと皮が浮き上がって、剥がれ落ちた。

 そして、中からは熟れた黄色い果肉が現れた。涼太郎は思わず唾液を飲み干し、手を差し出した。女性は涼太郎の掌にそれを乗せると、自分も一つ手に取って皮を剥いた。

「さあ、美味しいから口に含んでみなさい」

 涼太郎はぱくりとそれにかぶりついた。その瞬間、口の中に甘いとろけるような果汁が流れ込み、ふわりと体が何か大きな霧に包まれてしまったような、そんな不思議な感覚が彼を襲った。

 涼太郎は目を丸くしてその果実に歯を立てて咀嚼していたが、その美味しさといったら、どんな果実よりもすっきりとした甘さを持って、それでいて実はずっしりと重く、数口食べただけでもすぐに満足感が涼太郎の心を満たした。

 なんだろう、これ。こんなに美味しいものが本当にあったなんて。

 彼は夢中になってそれを口の中に入れて頬張っていたが、そんな様子を見て女性は鈴を転がすような声で笑いながら、自分も果実を口に含み、頬を緩めて味わっているようだった。

 しばらく無言で実を食べ続けていたが、女性がふと涼太郎の顔をじっと見つめて、どこか深い感情の篭った眼差しをした。涼太郎はその視線を受け止め、何か彼女が言い出そうとしているような、そんな雰囲気を感じ取ったが、彼が何か言葉を絞り出そうとした時には、彼女は川へとそっと足の先を入れていた。

 涼太郎が果実を食べ切ってしまう頃には向こう岸に彼女は辿り着いており、食べかけの実を片手に持ったまま、こちらに振り向いた。

「それでは、私はそろそろ行くが、ありがとうな。この実をお前にやったことは誰にも言ってはいけないぞ。約束してくれるな?」

 彼女の声にはどこか何者でも抗えないような強い意志が感じられて、涼太郎はすぐにうなずき、「わかった」と言った。

 すると、女性はにっこりと再び目を細めて、軽く手を上げて振った。涼太郎も手を振り返し、ありがとう、と小さくつぶやいた。

 女性は背を向けて森に向かって歩き出したが、そこでふと顔を振り向かせ、涼太郎を我が子を見るようないとしそうな瞳で見つめた。

「本当に大きくなったな」

 涼太郎は返す言葉もなく、それが何を意味しているのか考えるよりも早く彼女はその姿を消してしまった。その場所にはまだ彼女の温もりにも似た暖かな空気が漂っていた。

 木々がさやさやと揺れ、生き物達が一斉に歌声を空へと舞い上がらせ、幸せを風に乗せていくような、そんな幻のような光景がそこに広がっていた。

 何故か、涼太郎には生き物が生命に満ち溢れているように見えてならなかった。彼女は一体誰なのだろう、どうしてあの川の向こうに住んでいるのだろう、と考えたが、そんな疑問も何故かすぐに萎んで別の感情がふつふつと底から湧き上がってきた。

 それは遠い昔に会った誰かと、再び声を交わした懐かしさにも似ていて、涼太郎はぼんやりと桶の中の実をじっと見つめるのだった。


 涼太郎は桶に入ったその果実が零れ落ちないように気をつけながら、元来た道を駆け抜け続けた。先程の女性の言葉がまだ頭に残っていて、その優しい響きにとても嬉しい気持ちになるのだった。

 金色の果実を見つめると、そのきらきらした光沢が美しく、早くこれを両親にも食べさせてあげたいと思い、どうしても逸る気持ちを抑えることはできなかった。

 その桶からはとても芳しい香りが立ち上り、周囲の茂みへとふわりと流れていくと、そこに漂う草いきれのような匂いもたちまち消え失せて息を吸い、落ち着いていられるような、そんな場所へと変化していった。

 とても不思議な実だな。あの人、どこから持ってきたんだろう、と涼太郎は心の中でつぶやきながら、枯れ枝の散らばった道を走り続けたが、ようやく遊び場の開けた場所の先にその民家が見えた。

 涼太郎はその木板が何枚も張り巡らされた頑丈な戸が少しだけ開いて中から美味しそうな香りが漂ってくることに嬉しくなりながら、両親の名前を呼んで駆け寄った。

 藁葺き屋根のなかなか大きな古民家だったが、家の周囲は日差しを遮る木々もなく、広々とした土地が広がっていた。よくならされた土は円形を描くように家と隣接した庭を隅々まで覆っていて、涼太郎がよく遊ぶ場所ともなっており、視界を覆う山々の景色と相まって落ち着いた空気が場一体に満ちていた。

 今年は雪があまり降っていない為、戸口を雪が膝の高さまで覆ってしまうということもなく、なかなか暖かい日々を過ごしていた。

 涼太郎は桶を両手に抱えて、その家の側へと近づき、それを戸口の側に置き、中に入った。戸口を抜けると土間へと足を踏み入れ、涼太郎は炉の側に父親がドンと構えて胡坐して座り、こちらへとどこかおかしそうな顔をして首を傾けていることに気付き、にっこりと笑い返した。

「そんなに大声で呼んで、何か嬉しいことでもあったのか?」

 父親は短く刈り上げた頭を掌で擦りながら、炉へともう片手をかざして暖めていた。目が大きく、涼太郎と同じ色白で、なかなか整った顔つきをしていた。厚着していてもはっきりとわかるその盛り上がるような筋肉や、額の艶々した輝きはどこか野性味を感じさせると共に、生気に溢れているのがその姿から感じ取ることができた。

 涼太郎はこの父親とよく山の奥まで薪に使う枝を取りに行ったり、動物の肉を確保する為に一緒に猟を行ったり、と普段からよく一緒に行動していた。何よりも山のことを理解していて、涼太郎は彼のことがとても好きだった。

 そこで台所で作業していた母親がそっと膳を持って現れて、おかえり、と満面の笑みで言った。まだ艶やかなその髪は背中まで届き、光がなくともその輝きは消え失せることはないほどよく梳かれていた。小柄で細く、もう四十になるのにそんな歳を感じさせないような活力に満ちていた。

 にこにこ笑っているその顔しか涼太郎の記憶にはなかったので、とても優しく、そして慈愛に満ちた眼差しをしていた。

 彼女は炉の側で膝を折って座ると、膳を並べて、こちらへと体を向けて座るようにと促した。涼太郎はすぐに履物を脱いで、炉の側へと座った。

「あのね、川の側で……」

 そう言いかけて、すぐに涼太郎は口をつぐんだ。あの女性が誰にも言わないで欲しいと語っていたのを思い出したからだ。涼太郎は小さく首を振って、別の話題を選んだ。

「今日も水が冷たかったけど、とても気持ちよかったんだ。あそこに行くと、いつも僕、元気になるような気がする」

 涼太郎がそう言って片手をかざして、炉に身を乗り出していると、父親が大声で笑って、涼太郎の背中を叩いてきた。

「私達が川へと行くと、どうしても緊張してしまうのだが、お前にとってはあそこはとても好きな場所なんだな。それにしても、川で何かあったのか?」

「ううん。なんでもないんだ」

 そう言って涼太郎はそっと背後に隠してあったその金色の果実を二つ目の前に置き、両親を見つめて、得意げな顔をした。

「なんだい、それは? ええっ?」

 母親が目を丸くしてそのきらきらと光を弾き返す不思議な果実を見つめている。父親も立ち上がり、その果実へと手を触れて信じられないといった顔をした。

「一体、どこにあったんだい、こんなもの?」

「生まれてからずっとこの山で暮らしてきたが、こんな実は見たことがないぞ」

 父親が一つを手に取って、それを空中で振ってみた。そのずっしりとした重みに、さらに驚いているようだった。

「どこに生っていたかは、僕しか知らないんだ。それより、食べてみて。すごく美味しいからさ」

「いや、そんなこと言ったって……幻でも見ているのかねえ」

 母親はそう言ってその果実を手に取って皮を剥こうとするが、硬くてどうもうまくいかないようだった。涼太郎はおかしいな、と思って、あの女性がやったようにそっと手を触れて剥こうとしたが、びくともしなかった。

 母親が首を傾げながら、台所から包丁を持ってきて、果実に押し当てた。体重を乗せて思い切り刃を立てると、それは真っ二つに切れた。そこからあの黄色に熟れた果肉が現れ、両親は息を呑んでそのみずみずしい果実を見て、声も出ない様子だった。

「なんだいこれは。食べてはならないものなんじゃないだろうね」

「本当に、食べれるのか、涼太郎。お前、どこでこんなもの拾ってきたんだ?」

 二人は口々に上擦った声でそんなことを言っていたが、その果実を前にして食欲を堪えることはできなかったらしい。それをそっとつかんで一心に頬張った。

 その瞬間、両親の顔に驚愕の表情と共に、恍惚とした笑みが浮かんだ。彼らは顎に果汁が滴り落ちるのも構わず、歯を突き立てて夢中で食べているようだった。

 涼太郎はそんな両親の幸せそうな顔を見て、本当に嬉しい気持ちになった。あの女性が語った言葉の一つ一つが再び胸を震わせてきて、心の中で女性に何度も「ありがとう」と呼びかけた。

 涼太郎も一つを手に取って包丁で割り、それをもぐもぐと口を休めずに一気に食べ切った。両親は腹を押さえながら、満足した様子で深い吐息をついた。

「なんだろうねえ、この満足感は。本当に美味しい果実だね」

「活力が漲るような、そんな果実だな、これは。涼太郎、どこに生っていたのかは知らないが、これは相当貴重な食べ物だぞ」

 涼太郎は気分が良く、あのことを話そうか迷ったが、やはりそれは我慢して、この実がまだいくつか残っていることを話した。

「これは大変ありがたい食べ物だ。全て平らげるのではなく、しばらく残しておこうか」

「そうだな。母さん、台所の近くに取っておいてくれ」

 涼太郎は桶を再び取ってきて母親に果実を渡し、父親にその果実の香りがついた水をすすめた。彼はそれを少しだけ掬って飲み干し、大きくうなずいた。

「とても香りがいいな。これも、飲み水として取っておこう」

 母親は顔一杯に笑みを浮かべて戻ってくると、まだ嬉しそうな表情で涼太郎に「すごいね、お前は」と言った。涼太郎は自分が見つけたのではなかったのだが、素直に嬉しかった。

「それでは、山の恵みにありつけたことだし、そろそろ朝食とするか。味噌汁が冷めてしまう」

 父親が膳の前で手を合わせ、いただきます、と祈り始めた。涼太郎は既に箸を手に取って山菜御飯を口へ運ぼうとしていたが、母親が笑顔でそれを止めた。

「ちゃんと山の恵みに感謝しなさい」

 母親が小さくつぶやき、自分も掌を合わせて祈った。涼太郎も慌てて箸を置き、それにならった。少しだけ開いた戸口からは山々の景色が見えていたが、涼太郎は山からの恵みで自分が生きているのだと思うと、先程の女性との出会いも含めて、本当に不思議な気持ちになった。

 あの人は、あの川の向こうで何をしているんだろう。

 もう一度、会えるのだろうか?

 そう考えると、期待が膨らんでいって、目を閉じ祈っても心は別のことに囚われてしまうのだった。その日の朝も、そうして心地よい時間を味わうことができ、涼太郎はにこにこと彼の母親のように満面の笑顔を浮かべるのだった。

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