エピローグ あなたへ
「おはようございます」
鞄を机の下に置いて座る。デスクの上はきれいに整頓されていた。あのとき散らばっていたはずの書類は重ねられている。斜め前、書類の向こう側に見える人の顔に、どきりとする。
「近衛さん、今日からまたよろしくお願いいたします」
今日から会社に復帰していた。と言ってもわたしがアストロと過ごしたあのタイムトラベルの時間はカレンダーの日数としては換算されないので、実際には復帰も何もない。早退した次の日の出社ではあるのだけれど、もうずいぶんと会社に来ていなかったような気分になる。
「……ああ、うん」
近衛さんは戸惑った表情をして返事をした。わたしは、そっとうつむいた。何かがあったからといって、劇的に日々が変わることはきっとない。
昨日は、家に帰った後が大変だった。携帯電話の画面が白々と光っていて、たくさん友人から連絡が来ていたからだ。以前、わたしは、この画面が怖かった。それは、彼が死んだということをどこかで信じたくなかったからなのだろう。着信履歴にある友人に一人一人電話をかけていった。心配かけてごめんね、そう謝るたびに、やっぱり彼はもういないのだということを実感した。
「えーと、次の会議で……」
わたしの後を先輩社員が歩いて行った。入口付近から、印刷機の音が聴こえる。会社の印刷機は古い。ごうんごうんと、かなり大きな音を立て、震えながら用紙を吐き出している。
わたしは手元の仕事を確認した。窓の外では、白い雲がゆったりと流れている。
「昨日は迷惑かけてごめんね」
すれ違いざまに、同期の一人に声をかけた。いつか、近衛さんとわたしをはやしたてた彼女だ。「はいはーい」と返事をして、彼女はわたしをじっと見た。
「それより体調は大丈夫だったの?」
「うん。だいぶましになったよ」
「それならよかった」
お昼休みに入ると、事務室を出る同期や後輩を呼びとめて少しだけ話をした。昨日のことを謝るためだ。志貴くんは、興味なさそうに、「はいはい」とだけ返事をしてくれた。仕事内容以外で人と話すのはなんて難しいことなんだろう。人の時間を少しでも奪うということは、なんて罪悪感におそわれる行為なんだろう。話せば話すだけ、自分の役立たずを余計に思い知らされた。
でもわたしはもう知っている。うまくいかなくなったきっかけをただ一人のせいにできたとしても、それにすがって生きていくのなら、それはいつか必ず停滞となるだろう。
「まったくもって、大丈夫じゃないなあ」
わたしは笑った。一人でとる昼食は、いつもに増して寂しかった。平気だと思っていたことが、平気じゃなくなること。平気じゃなかったことに気づくこと。お皿の中がからっぽになっても事務室に戻るのは気まずかった。ひゅう、と冷たい風が吹く。今日の朝から急に冷え込んで、「いよいよ秋の到来!」とアナウンサーが声を高くしていた。たしかに、一枚カーディガンをもってきてもよかったかもしれない。食堂のにぎわいを避けて出たテラスのテーブルがきらきらと光っている。
トイレで化粧直しをすませてから事務室に戻ると、
「雪村さん、ちょっと」
近衛さんが手招きしていた。
「ここ、ミスしてたから三時半までに直してもってきて」
「あ……本当ですね。すぐ直します」
自分が今朝提出したばかりの書類を受け取った。
「近衛さん、申し訳ありませんでした」
「謝らなくてもいいから、これからどうしたらいいかを考えて」
「はい」
過去にあったことは変わらない。どんなに取り消したいと願っても、それが叶うことはない。頭のすみでそんなことを考えながら書類と資料を見直していると、横から太い腕が伸びてきて息が止まりそうになった。
「ごめん、あとこれも」
「……ありがとうございます」
近衛さんはわたしにクリアファイルを手渡して席に戻った。今のは、気づかれただろうか。身体がしっかりと覚えている恐怖は、そう簡単にはぬぐえないようだ。ふと不安がよぎる。
わたしは変わっていけるのだろうか。がんばろう、もっとしっかりしよう。そう思っても、そううまくはいかない。変わっていけると思い込んでいるだけで、わたしはいつまでも同じところをぐるぐるまわっていくのではないか。昨日も、今日も、明日も、わたしはきっとこれからずうっと。
わたしは手元のクリアファイルを見た。
今日中に直せるだろうか。こんなに簡単なことすらミスするわたしは、やっぱり成長していないのではないか。三時半、と腕時計を見ようとして思い出す。そう言えば、どこかへ落として来たのだった。アストロと出会った時に、「時計はない」と自分で言ったではないか。汗が流れる。薬指の付け根が目に入る。わたしが一生変われないことを祝福するような傷跡。それはやっぱり呪いなのではないか。わたしは目を閉じた。だめだ。机のすみに置いてあったハンカチで口を押さえて、立ち上がる。
すると、ひらり。小さな何かが足元に落ちた。
「……?」
ゴミだろうか。
拾い上げると、それはしろい小さな紙切れだった。そこには小さくて細い字と大きな走り書きの文字が並んでいた。
「昨日のこと、気にするなよ」
「また体調良くなったら、ご飯いこうよ!」
顔をあげると、それに気づいたらしき同期の一人が小さくピースサインをしていた。二列向こう、右から三番目の席。恋愛話のすきなあの彼女だった。ウェーブの髪の毛が跳ねている。大きな走り書きの文字みたいに、元気に笑っている。
どうして。
――こんな、紙切れに。どうして、わたしは心を動かされるのだろう。
わたしはあわててうつむき、くちびるを噛んだ。アストロ、と心の中で叫んだ。彼の言葉がよみがえる。
『月乃、きっといるんだよ』
たとえもし、きみが。彼はそう言った。わたしはもう一度顔をあげて、今度はちゃんと笑ってみせる。まだ彼女は、しっかりとわたしを見つめていた。
あ、り、が、と、う。わたしが声を出さずに言うと、ど、う、い、た、し、ま、し、て。にこにこ笑っている。となると、もう一人は誰だろうか。たぶん、小さくて細い字のほう。彼女がちょいちょい、と小さく指をさしているのは、その隣の、志貴くんだった。彼はすました顔をしてパソコンをたたいている。かたくなにこちらを見ようとしない。やっぱりデスクにはお茶の紙パックが置かれている。
その様子が可笑しくて、わたしは一人で吹き出しそうになった。周りに変に思われそうだったので、そそくさと席に座る。思い出してまた笑いそうになり、口をハンカチで覆い隠した。
そして、次の瞬間には視界がぼやけていた。
『月乃、きっといるんだよ』
わたしは息を吸い込んだ。あのとき、アストロは言ったのだ。
『たとえもし、きみが弱くたって、自分に自信をもてなくったって……きみの知らないところや気づかないところで、きみだけを見つめている人がきっといるんだよ』
ねえ、アストロ。
松波のことをなんとも思わなくなる日がきたとしても、これを乗り越えたから大丈夫だと慢心する日がきたとしても、きっとこれからだっていくらでも苦しいときはあるのでしょう。何度だって、何度だって苦しい夜はやって来るんでしょう。
だけど、あなたが照らした小さな光がこんなにもわたしに期待させる。だから、何度だって泣いてしまうわたしを、何度だって生きたいと思うわたしを、いつか見つけ出してよ。
わたしがすこしずつ変わっていっても、あなたがすこしずつ変わっていっても、どうかいつかわたしを見つけ出してよ。
『きみって、やっぱり泣き虫なんだね』
やっぱりわたしは泣き虫だ。
それでも、こんな弱い自分さえもゆるして生きていけるようになれたなら。いつか、いつかその日はきっと来る。花冠を作れるようになる日が。アストロ、アストロ、アストロ。わたしは呼びたいあなたの本当の名前さえ知らずに、今はただ小さな光に向かって進んでみようと思う。
『花冠はいつかそのときに』
わたしは流れる涙を手の甲でぬぐいながら、深呼吸をした。
月の弱き 七野青葉 @nananoaoba
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