12話 そして、ぼくは星に願いを
「下まで見送るよ」
アストロは運転席から降りた。わたしは細く伸びたはしごに手をかけて下に降りていく。元いた時代の空き地は、出発したときと変わらない紺色の空に包まれていた。まだ背の低いススキがざわりと波打つ。あんなに動き回ったというのに、世界は何一つ変わっていないように見える。妙な気分になって、楽しいわけでもないのに笑ってしまった。「どうしたの」後ろから冷めた声がする。アストロがわたしを見上げている。
「なんでもない」
わたしは、長い旅をともにしてきたこの小さな星の人に、いつの間にか親しみと寂しさを覚えていた。風が音もなくわたしたちを撫でる。
「アストロ。本当にありがとう、たくさんわがままを言ったけど」
「まったくだよ」
アストロはいつもと変わらない口調で言った。未来はこの瞬間も変わっていく。アストロとわたしが知り合いだったとしても、知り合いじゃなかったとしても、今ここにいるアストロとまったく同じ人と会うことはもうないだろう。少しずつ、未来もわたしたちも変わっていくはずだ。
「本当にふりまわされたよ。こんなの二度とごめんだね。
――でもきみ、いつまでも元気でね」
「……そっちこそ」
風が二人の間を通り過ぎる。わたしは何かを言おうとして、やめる。アストロはわたしを見た。
「きみはもう、きっと、大丈夫だよ」
それは、小さな祈りのように。わたしはずっと誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。二人は見つめ合った。
「それじゃあ、さようなら」
わたしが言って、アストロがひらりと手を振った。わたしはもう何も言わずただうなずいて、それから背中を向けた。これでさよならなんだ。終わりなんだ。ざりざりと土を踏みしめる音だけが響く。
そのとき、透き通る声が、背中に投げかけられた。
「『白い花。あの花で、いつか大切な人と一緒に冠を作りたい』」
わたしは目を見開いた。唱えらえた言葉に振り返る。アストロはわたしを見つめていた。
「……どうして、それを知っているの?」
泣きそうになりながら、問う。
どうして。それはわたしの大事な秘密だ。誰にも言ったことがないのに。松波にも、行きたいその理由をとうとう言えなかったのに。ばかばかしくて、幼くて、今この瞬間だって、言えるはずがないのに。わたしは、一生自分のことを、誰にも言うことがないのだと。弱さを共有したり、人に求めたりすることなどないのだと。そう思っていた。眉根いっぱいに涙を受け止める。ススキの中でアストロが笑った。
「その花の名前を、きみは知っているだろう」
「知ってるよ」
だって、商店街を通るときいつも見てたから。子どもみたいな願いを心に閉じ込めて、憧れていたから。わたしはその白い、星のような花の名前を口に出した。
「アストランティア」
ススキがざわりと揺れて一瞬アストロが見えなくなり、わたしの視界に再び現れる。でも目の前が滲んでよく見えなかった。ぽろりと涙がこぼれる。
「きみはやっぱり、泣き虫なんだね」
ずっと、アストロはヒントをくれてたんだ。その存在に。
「ぼくはきみがつらそうなところをみると、『もうそんなのやめちゃえよ、ぼくがついてるよ』って言いたくなるんだ。なんにもできないくせに何度もそう思ったよ。松波なんて、ぼくが殺してやりたいくらいだった。でもね、きみが大切にする人だから、ぼくも大切にするんだよ」
言葉が心に渡っていく。沁みていく。
「ずっと願ってたんだ。きみが自分自身を嫌いになったりしませんように。優しくあるために、自分自身を犠牲にしたりしませんように。きみにはきみの素敵なところがいくらだってあるんだよ。ぼくはその思いを伝えるすべを、ずっと、必要としてたんだ」
――タイムマシンは、それを必要としている人の元に訪れる。
そうか。だから、アストロはタイムマシンを引き寄せたんだ。
「でもわかったんだ。ぼくは帰るよ。伝えるすべなんか、ずっと前からもってたんだから。本当に向き合いたかった相手が誰だかわかったんだ」
言葉は続く。風吹く大地の中で、その声はしっかりと、力強くわたしの耳に響いた。
「月乃、きっといるんだよ。たとえもし、きみが弱くたって、自分に自信をもてなくったって、役立たずで消えてしまいたいと思っていたって。味方はきっとどこかにいる。きみの知らないところや気づかないところで、きみだけを見つめている人がきっといるんだよ。それはきみだけじゃなくて、ぼくだってそうだし、他の人だってきっとそうなんだよ。だからね月乃。ぼくも、自分のたった一つの秘密をきみに言うよ。――月乃、ぼくはね、きみのことが」
野分だつ野原。鴉が空を回る。それなのに何も他の音が聞こえなかった。
アストロの声だけが、まっすぐわたしの耳に届いた。
わたしとアストロはお互いの顔を見た。それは、一瞬のようで長い時間にも思えた。二人は長いこと見つめ合った。また、風が吹いた。
「じゃあね」
アストロはそっと言った。青い球体につなぐはしごの上、最後に、彼は言った。
「花冠はいつかそのときに」
涙はまた一つこぼれ落ちた。露は土にしみて、黒くなる。
眼前に青の球体はない。広がるのは秋の始まり。さらさらとススキが揺れて、蝉の声が小さく聴こえる。空き地の季節はもう移り変わりはじめていた。わたしが見ようとしなかっただけで、時間は刻々と進んでいたのだ。
――お前さ、空き地、危ないから一人であんまり行くなよ。
――月乃が空き地にいると思ったら、俺、迎えに行くしかない感じになるじゃん。
わたしは息をすいこんで、また歩き出す。
「ねえ、松波」
心は焦がれたままだ。わたしはあなたを一生ゆるすことはないだろう。
東北に行ってみよう。山奥にしずかに並んでいるそのお墓の前に、一度だけ行ってみよう。助けられなくて本当にごめん。そう謝る。それから、あんなのだったけど、これでもわたしは、本当に本当にあなたのことが好きだった。そんな言い訳をしに行こう。
「ねえ、アストロ」
無敵モードのボタンは壊れたままだ。だからもうたぶん誰にもとらわれたりしない。脈打つ心はそのとき動き出した。わたしの憎んだわたしすらも、あなたは大切だと言った。ずっとそれで生きていくんだと言った。これからも松波とともに生きていくのだと言った。それは、あなたが言った通りとても残酷なことだ。
「ずるいなあ」
わたしは思わず笑ってしまった。だって、あなたたちは、いまやどこにもいないくせに、わたしのこころに棲みついている。わたしは、たしかにあなたたちがいたことを感じずにはいられないのだ。そうやって、わたしの人生の中にひっそりと二人がいつまでも存在している。
流れる雲間、木々が黒々と落とす影。濃紺の空にぽつりぽつりと点になった薄い光が灯る。光が滲んでいく。濡れていく。暗闇の中で光が揺れる。わたしは空を見上げた。そうか。きっとアストロは、きらりと灯るその点を見つめていつも願っていたんだ。
「大切な人が自分自身を嫌いになったりしませんように。優しくあるために、自分自身を犠牲にしたりしませんように」
わたしはとぎ澄まされた空気を胸いっぱいに吸い込み、しっかりと、瞳を開けた。眼前には小さな、まだ遠い星が瞬いていた。
そうして、わたしはその白い星の花言葉をいまさら思い出し、あたりいっぱいに広がる薄い夜の空へ、小さく言った。
どうか、どうか。星に願いを。
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