11話 ぼくたちのしたこと

「おい! いたぞ! あいつだ」

 向こう側では、黄色の頭が口々に何か言っている。

「……アストロの仕事仲間?」

 アストロは答えなかった。その代わり、わたしの手を強く引いて――駆けだした。

「おい、待て!」後ろから何やらこちらに向けて声がする。「捕まえろ!」怒号が聞こえる。アストロは透明になった。商店街に入る。

「ちょ、ちょっと待ってアストロ、どういうこと?」

 息も絶え絶えにわたしが言う。繋いだままの腕がゆさゆさ揺れる。その間も、周りの風景がびゅんびゅん飛んでいく。まだ明かりの一つもついていない居酒屋。シャッターの降りた古本屋。頭ががんがんする。わたしは生唾を飲み込んだ。状況をうまく飲み込めない。

「あの人たちの声、怒ってない? 随分感情的で、人間みたい……」

「何言ってんのさ。人間でしょ。スーツ着てんの」

「あれ、そうなの……」

 アストロは返事をしなかった。というより答える余裕がないのかもしれない。ここまで来たら運命共同体だ。わたしのわがままもいっぱい聞いてもらったんだから、わたしも腹をくくるしかない。地を蹴る足にぐっと力を込めると、ぐわりと視界が揺れた。ポップな音楽の流れているプリクラ機。さびれた呉服店の横を通る。まばらな人の間をすり抜けていく。なんだか、夢の中を走っているような心地だった。脈打つような頭痛がどんどん激しくなるにつれて、まずいな、と思った。手足のしびれるようなあのだるさがまた出てきていた。

 手を繋いだまま、わたしたちは一瞬の永遠をさまよったように思う。小さな星の手は、わたしの手を掴んだまま、決して離さなかった。アスファルトがギラギラ光る。焼けるような日ざしの中、蝉の声が降り続ける。わたしたちは無言だった。朦朧とする意識の中、彼の手だけを頼りに、ただひたすらに走り続けた。

「……アストロ、ごめん」

 商店街を抜けて、大学の正門付近にある小さな林にたどり着く頃には、もう一歩も進めなくなっていた。青葉が揺れ、その間から光が零れている。汗が頬をつたった。

「わたしたぶん、これ以上走れない」

 未来人たちの声は聞こえなかったが、すぐに追いついてくるだろう。わたしは、彼の手をゆっくりと離した。それは、彼に対するせめてもの誠実だった。わたし、もう、無敵だなんて、言わないから。

 木にもたれかかろうとして、そのままずるずると座り込んだ。だめだ、待って、まだ寝ちゃだめ。そう思いながらも、瞼は閉じていく。わたしは今、どうしても彼に言わなくちゃいけない。

「お願い。さきに逃げてよ」

「……何言ってるんだよ」

「もう、いいから。わたしが残ることできみを守れるのかはわかんないけど。少しくらいなら、きっと足止めになることはできると思う」

 視界がなくなった分、風の音がよく聴こえた。まとわりつくような夏の温度に、すべての意識が沈んでいく。交互に来る心地良さと気持ち悪さのさざなみにうつらうつらしていると、それまで黙っていた彼が口を開いた。

「きみは、本当に、わからずやだ」

 怒っているような声だった。

「もういいんだよ。大丈夫だよ。きみがきみをぞんざいにあつかわなくても、あきらめなくても、人はちゃんとしあわせになれる」

 まぶたの上をやわらかい光と影が流れていく。かさり、草の揺れ動く音がする。

 殴られるのかと思った。動く体力もなかったので、身構えることも逃げることもしなかった。返事もしなかった。

「もういいんだよ。きみは十分にがんばったよ。あとのことはぼくにまかせて……」

 あたたかい手のひらがそっと頬に触れた。だから、もう、怖い夢は見なかった。


「やあ。気がついた?」

 気がつくと倒した助手席に寝ていた。勢いよく起き上がると、まだ少し手がしびれていた。うす暗い。わたしたちは、タイムマシンに戻ってきたのだ。銀色の内装が、ボタンの明かりにぼんやりと彩られている。むかし、親の車の助手席に座ってうとうとと眠っていたとき、あれはどこへ行こうとしていたのだろう。あの昼下がりのおだやかな気持ちと似た心情で、わたしは彼を見た。

「どうやって、わたしを運んだの」

「さあね」

 もう完全にだめかと思っていた。けれど、ひとまずは逃げきることができたらしい。「そこに水があるよ」アストロが指をさした。わたしはお礼を言ってペットボトルを掴みとる。キャップをひねったところでふと動きを止めた。

「ほんとに、きみが着てるその小さなスーツのなかには人間が入ってるの」

「時空を操れる時代のスーツだよ。空間だけでも扱えるに決まってる。僕の鞄を見たでしょ?」

 ごうんごうんと音が鳴っている。

「どうして逃げて来たの、わたしたち」

「さっきの状況、理解できなかった? ぼくたちは追われてるの」

「一人の人間に、二回タイムマシンを使ったから?」

「それもある」

「それも?」

「ぼくが言った、タイムマシンジャックの話覚えてる?」

「覚えてるよ。それがどうかしたの」

 そう言ってから、わたしは息をのんだ。まじまじとアストロの横顔を見る。

「相変わらずおばかさんだな、今も、あっちでも。どうしてマシン内が壊れているのか、どうしてぼくが運転に慣れてないのか。わかったでしょ」

「アストロだったの」

 返事はなかった。無表情は画面を見つめ続ける。ふたたび、わたしたちは静かになる。が、聞き流すことのできない言葉に、わたしはつめよった。

「待って、今、あっちでもって言った?」

 アストロは、一瞬黙った。意図せず出た言葉だったのだろう。彼は、顔をこちらに向けずに頷いた。

「……まあね」

「きみは誰なの?」

「ぼくは、未来人からマシンを乗っ取って来た近未来人だよ」

 この話はこれで終わりだというように、彼はそれ以上何も語らなかった。アストロは未来のわたしを知っている。だとしたら、現時点ですでに知り合っている可能性と、まだ知り合っていない可能性の両方がある。わたしは、知り合いの名前を一つずつ頭に浮かべていった。すると、アストロがぽつりと言った。

「松波は、マフラーもってきてたんだね。紀野交差点にも行かなかったんだね」

「……うん」

 あの細い身体が脳裏をよぎる。アストロも気づいていたんだ。

「もしかしたら彼も月乃と同じように何か思うところがあったのかもしれないね」

「うん。でも、偶然かもしれない。わたしの言葉なんて忘れちゃってたのかも」

「憶測も推測も自由だよ。今くらい自分の都合のいいように、優しい結末を想像してもいいんじゃない」

「うん。そうだよね」

 彼は何も喋らなかった。青い球体につつまれて、静かに呼吸をしていた。

 松波のこれまでをゆっくりと想像してみる。

 一本の電話で関係を切ったわたしと松波は、お互いに呪いをもったまま過ごす。わたしは呪いを怒りと憎しみに変え、松波はそれを後悔に変えた。彼は、別に毎日わたしのことを考えるわけじゃないけれど、ふとした時に思い出してはどうしてあんなことをしたんだろうと思う。もっといい別れ方があったはずだと。そして、ある日疑問に思う。そういえば黒いマフラーが二つあった時期がなかったか。松波はある夏に起こった不思議な出来事を思い出す。そうだ。俺たちはまだ終わってなかった。呪いという糸がずっと俺たちを繋いでいる。俺たちはそれを切るために、ちゃんと向き合って別れなければならない。

「あの日、たぶん月乃は俺を助けてくれようとしたんだ」

 どんな理由かは分からないけれど、あのときの月乃は未来からきた人だった。救急車に運ばれて遠のく道、聞き覚えのある声が自分の名前を呼んだ。ああ、俺の思いはきっとどこかであいつに伝わろうとしている。あいつの思いも、俺に。松波はそう思った。

 わたしは首を振った。だめだ。どんな勝手な解釈をしたって、結局松波は死んでしまった。もう元には戻らない。

「未来を変えようとしても、変えられなかった」

 かみしめるようにもう一度言った。

「タイムマシンを使っても、命を助けることはできなかった」


 その瞬間、わたしはふとある不安に駆られた。


「ねえ、アストロ?」

 声が、震えた。ゆっくりと問う。

「アストロは、……どうして、タイムマシンに乗ったの」

 ――タイムマシンは、それを必要としている人の元に訪れる。

 そう、アストロは教えてくれた。

 本当は、やっぱりわたしは本当に必要としてる人じゃなかった。アストロこそが、本当に必要としてた人なんだ。それなら、アストロはどうしてタイムマシンを求めていたのか。問いは頭をめぐり、ある一つの恐ろしい仮定にたどり着く。

 無機質な星の声は、静かに言った。

「ある人の過去を、変えたかったから」

「その人は?」

 アストロは、また返事をしなかった。灰色の壁は鮮やかな色を映し出す。それはぐるぐる渦巻く。ごうんごうんと鳴っているはずの音。それが遠のき、声だけが静かに響く。

「でも、うまくいかなかったんだ。未来は変わらなかった。どうしても納得できなかったぼくは、未来人を身ぐるみはがして未来へ送り、星のスーツを着て未来人の恰好をした。ほんと、自分勝手だよね。ぼくはもう一度、未来を変えるために出掛けたんだ。運転がとても難しくて、何度も失敗したし、何度も躊躇した。その人に何度だって会いに行った」

「その人は」

 わたしなんでしょう? 言葉を飲み込む。言わなくてももうわかっていた。かちゃり、ボタンを押す。レバーを引く。その動作がひどくゆっくりに見えた。アストロはふと笑った。

「……安心しなよ、その人は大丈夫。ぼくはきみと違って人の生死を変えようとしたわけじゃない。心の傷の思い出を、勝手に消そうとしたんだよ。それでぼくはね、その人と生きて一緒に悩んで、気づいたんだ」

 時空マップの画面のちかちかしたカラフルな光が、アストロの顔を照らしている。レバーを引く手にはもう迷いがなかった。

「まず、ぼくはその人のもつ激しい感情も傷も離し難いその人の一部なんだと気づいたんだ。それから」

 それは自分に語っているようでも、わたしに語っているようでもあった。

「ぼくたちがしていることは、やっぱりどうあがいたって、まぎれもないズルなんだってこと。変えるなんてできないことに。変えることに何の意味もないって、やっと気づいたんだ」

 そこでやっと、わたしは首をふった。

「……ズルでもなんでも、変えたいって思う時だってあるよ」

「うん。もちろん、その気持ち自体を否定してるんじゃない」

 ごうんごうんとタイムマシンは巡る。

「ぼくが思ったのはね。自分がその時間に生きる人じゃないのに、元いた時代に帰るのに、当事者じゃなくなるのに、その人の人生を変えようとする。そんなの、傲慢だったんだよ。ぼくは結局、当事者として自分の時代で彼女と本気で関わるのを、怖がっていたんだ。自分が傷つくのも、自分の言葉で彼女を傷つけるのも怖くて、傷の根源を、過去を、変えようとしたんだ。そんなの、身勝手で、ひどい話だった。……ぼくは、きみとぼく自身がいつも生きている元の時代で、腹を割って、向かい合うべきだったんだ。いや、ぼくは本当はそうしたかったんだ。それをきみが教えてくれたんだ。だからね、月乃」

 ごうごうん地鳴りのような音が止まる。外で鴉の鳴き声がした。

「だからぼくはこの過去を変えない」

 静かな室内で、わたしとアストロは、静かに呼吸をした。

「アストロは」

 わたしは、そっと尋ねた。

「アストロは、これからどうするの? ……どうなるの?」

「分からない。一応、追跡されるようなものは全部壊したり、取り外したりしてきたんだけど、さっきも見つかってしまったから。しかるべき処置を受けるのかもしれないね。それでも、気がついたら、こうなってたんだよ。そうだね……向こう見ずで、我慢できなくて、飛び出してしまう――ぼくらは、きっと、似た者同士なんだよ」

 アストロは、わたしの目を見た。

「ぼくは自分のいたところへ帰るよ」

 そして彼は息をついて手元の赤いボタンを押した。気がつけばあの地響きに似た音は止んでいた。出口のドアがゆっくりと開いて、やわらかい月の光がさしこんでくる。

「着いたよ」

 画面のなかの時計は二〇X八年九月十六日の十九時五十七分を示していた。出発したその日に戻ってきたのだ。もう、長いこと旅をしていたようだ。

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