10話 きみは神さま②――回想、それから
その日は電話がひっきりなしにかかってきた。
「……ごめん」
松波は表情を失った青い顔で、寒くもないのにうすい布団にくるまっていた。がたがたと、震えがとまらない。わたしはそんな彼の様子を黙って、見ているしかできない。それは、まだ、暴力が日常になっていなかった頃のことだった。
電話が鳴り続けている。本当にごめん、と彼は言い続けた。
「もう、どうしたらいいか俺にはわからない」
もう何度も口にしてきたその言葉をつぶやく。その間も電話は止まない。まるで、ここに彼がいることを見透かしているかのように、逃がしはしないと言っているかのように。
うう、と彼がうめいて耳をふさぐ。
誰が彼をこんな風にした。
わたしはどうしようもなく怒っていた。テーブルの上で震えている携帯電話をとるとすばやく電話に出た。「もしもし」そう怒鳴ってやろうと思った。けれど、
「おい」
電話の先の声は、冴え冴えとしていた。わたしが何か言うよりも前に、
「紘平。お前、今まで何してたんだ?」
がしゃん、電話の向こうで派手に何かが割れる音がした。息を呑んだ。声が出せなかった。携帯電話をにぎる指先が、次第に冷たくなっていく。こちらが何を感じて何を言おうとしているのかなんてお構いなしとばかりに、ざらついた声は続ける。
「お前の就職先、やっとつきとめたよ。お前が卒業したら俺は仕事をやめてそっちへ行くからな。何考えてるから知らないけど――」
そこで声が途切れた。
いつの間にか松波が隣にいて、電話を切っていた。無表情で携帯電話を見つめていた。そして、やっとわたしと目があうと、あきらめたように言う。
「あぶないよ」
声出してなかったよな? あの人、月乃のことまだ知らないから。そう言いながら、携帯電話の電源を切る。その手が相変わらず震えている。その姿で、わたしは自分がしたことの恐ろしさをやっと理解した。
「ごめん」
彼は、わたしを庇ったのだ。
「わたしのせいだ……お父さん、きっと松波が出たくせに無視したって思ってるよね。いま、きっと怒って」
「慣れてるから大丈夫だよ」
この人は、何も大丈夫じゃないのに、いつも大丈夫だと言う。わたしからそむけた顔を見れば、その白い頬から涙がすうと流れている。
「松波。やだ」
やだやだやだ、松波が泣くのはいやだ。悲しいのはいやだ。つらいのはいやだ。わたしは彼をぎゅっと抱きしめた。彼は大人しく、それに従っていた。
「俺も、いやだ。もういやだ。どうしていいか、なんにもわからないんだ」
なんにもできないまま、わけもわからず、二人でわんわん泣いた。小さな部屋に赤子が二人。途方に暮れた、大きな身体をして、子どものようにいつまでも泣いていた。
「ごめん」
はじめて彼がわたしを殴ったとき。彼は恐怖に目を見開いていた。混乱をもてあまして、自分自身に怯えていた。わたしは、丸まったまま、彼を見上げた。怖かった。でもそれ以上に、彼が彼自身を憎むことのほうがもっと恐ろしくて、悲しいことだと思った。
「わたしが余計なことを言ったから。……わたしのせいだよ」
「……そうだ」
何もかも、考えることをやめた彼が、
「月乃のせいだ」
わたしを乱雑に抱きしめた。それでよかった。青あざを浮べた身体を見て泣いたのはわたしではなく、いつも彼のほうだった。神さま、神さま、なんでもいいから、どうかどうか松波をしあわせにしてあげてください。
「わたし、いつまでもここにいるよ」
彼がわたしを庇ったあの日から、わたしは決めた。わたしだけは松波の味方だ。最後の最後まで、わたしは彼の味方でいる。松波がどこにも行きたくないなら、わたしもずっとここにいる。
それなのに、彼は「もういらない」と言ってわたしを捨てた。そうして、わたしもいつしか、彼を憎んだ。憎むことで、生きる意味を見出した。何もかもがうまくいかないことを、すべて、松波という存在のせいにした。
「お前のせいだ」
そうやって、自分たちの過ちや、どうしようもないことを相手のせいにできるなら――松波は、わたしの神さまだった。ああ、きみはわたしの神さまだったんだ。
救急車はすでにどこにも見えなかった。ただ、もうだいぶ低くなったサイレンが遠く耳に届くだけだ。
「待って」
アスファルトに長く伸びた血痕があった。まだ乾いていなかった。ガラスは散って、車はない。集まっていたのだろう人々の背中が、遠くに見える。待って。わたしは叫ぶ。
「ねえ、救急車に乗っていた人は、生きていましたか」
苦しい。呼吸がどんどんできなくなる。がくがくと膝が笑う。頭が痛い。
「救急車に乗っていた人は誰ですか。松波紘平ですか。彼は生きてましたか」
誰も、振り向いてはくれない。松波、松波。わたしはその場に座り込んだ。
「……ちょっと、大丈夫?」
おばさんが立っていた。後ろの横断歩道を引き返して来てくれたようだった。「まだ、生きてはいるようだったよ。……ちょっと、どうだかわからないけどね」そう声をひそめて去って行ってしまった。
「いやだ、いやだよ」
吐きそうだ。気持ち悪い。痛い、苦しい。黒いマフラーがはらりと溝に落ちて濡れていた。わたしは、それに気づいてしまった。
「嘘だよ。だって、まだ、時間になってないのに」
十七時過ぎに交通事故に遭ったはずだ。嘘だ、とわたしは繰り返す。背後に、透明の気配を感じた。荒い息づかいだけが聞こえる。
「どこへ行くのかと思った」
そのしずかな声が、月乃、と呼んだ。
「今回は即死じゃなかったってことなんだよ、たぶん。ごめん。可能性に気づけばよかった」
「そんな」
「でも、これではっきりわかっただろ。場所を変えたって結果は同じ。たぶんうまくいかないんだよ、こと人の命に直接関することなら余計に。生死なんていう大きな運命を誰かが改ざんすることなんて、たぶんできないんだよ」
……誰でも想像つくことだろ、これくらい。アストロが、ゆっくりなだめるように言った。
「嫌だ……嫌だよ」
「月乃」
「だって、まだ終わってないんだよ」
別れてから二年。風の噂で、松波もずっと誰とも付き合っていないことを耳にした。わたしは薬指に残った深い傷をまじまじと見た。一生消えることのない、激情の指輪。それは、まるで永遠を語るようだった。
いつか会って本当に殴るつもりだった。殴って縛ってわたしの話を聞かせて、いかに松波が悪行に染まっていたかをつらつらと言う。わたしがどんな思いで過ごしてきたか、どれだけつらかったか。誰かを好きになることももうないだろう。誰かに、自分の大切なものを打ち明けようとすることも、もうないだろう。秘密は、一生わたしだけのものとして、死んでいく。そのすべては、結局松波お前のせいだと罵りたかった。
それで、それから、
「仲直りしたかった……」
松波。わたし、殴られると痛いんだよ。放った言葉は謝ったとしてももう二度と取り消すことはできないんだよ。あなたと、商店街の花屋で買った花で冠を作ってみたかった。もっと、もっと、わかりあおうとしていたかった。
言いたいことも、聞きたいこともたくさんあった。タイムマシンに乗って、あの部屋で松波と対峙したとき。たくさんの疑問を投げ付けたとき。
「ねえ、教えてよ。どうしてわたしは、強くて優しいわたしでいられないの?」
優しかった松波も狂ってしまった松波もどれも本物で、起こってしまったことはもう仕方のなかったことで。明るく穏やかな人だって、おかしくなるときもあって。何も知らない優しい過去の松波に何かをやったからって、何かが変わるわけではなくて。いまさらそんなことに気づいてしまったわたしは、どうすればいいの。
「わたしが、もっと、強く、優しく生きていけていたら。ずっと無敵モードになれてたら」
「月乃。落ち着いてよ」
「死にたい。誰かを悪者にしないと生きていけないわたしを、松波の不幸を願ったわたしを、無敵モードになり切れないわたしを、誰か、終わらせてよ」
びしゃっ。途端に視界がぼやける。冷たい。
アストロはペットボトルを握りしめて立っていた。ミネラルウォーター。あの公園で買ったものだ。清涼飲料水よりちょっとだけ安いやつ。前髪から水が滴った。わたしはアストロを睨みつけた。透化能力を解いた黄色の頭が晩夏の空に鈍い光を放っている。
「やめてよこんなときに!」
「月乃。うるさい」
「冷たい! ばか!」
「無敵モードって何」
「言葉通りだよ! なんにも傷つかなくて、それから、まわりに優しくできる強さをもってて」
「そんなの、月乃じゃなくてもできるじゃん」
すとん。アストロは言った。黒い瞳が、まっすぐわたしを見つめていた。
「……は?」
「感情がないロボットでも、人間じゃなくてもできることをどうしてわざわざ月乃がやるの?」
「なに、言ってるの……」
「ねえ、落ち着いてよ、月乃」
星色の手がわたしの頬に触れた。ため息が聞こえた。
「ねえ月乃、聞いて。人が誰かに優しくできるのは、自分に余裕のあるときだけだよ。みんなそうなんだよ。誰しもそうじゃないと、こころを殺したままだと、生きられないんだよ。何にも負けず、欲はなく、決して怒らずにいる。……それって、そんなにいいことなの?」
いいことだよ。わたしは言おうとしたのに、なぜだか口が動かなかった。ひゅう、風が通り抜ける。澄んだ空を背景に、アストロがわたしを見つめていた。
「無敵になんて、誰しもなれないんだよ。きみは、本当の気持ちをごまかさなくてもいい」
「ごまかしてなんか」
「いいや。ぼくはほんとはわかってたんだ」
アストロはふっと息をついてそれから言った。
「二度目のタイムトラベルで、ぼくは何度も訊ねようとしたことがあった。行く先は、きみが別れたクリスマス前日じゃなくてもいいの? きみがしたいのは、復讐なんでしょ? ……ねえ、月乃。ぼくには、きみの『殴りたい』が『許したい』に聞こえる。『死にたい』が『許されたい』に聞こえる」
「違う」
叫ぶように言った。アストロのわからずや、何も知らないくせに。それ以上言うな。
「やめないよ。ぼくにはわかるんだよ」
「やめて」
わたしは無敵モードのボタンを押す。何度も、押す。でも、何も変わらなかった。体がおかしい。目頭が熱くて、まばたきが出来なかった。どこもかしこも、熱くて、変だった。これ以上何も聞きたくない、耳をふさぎたい、それなのに、彼は、敬意をもって、あわれむようにそっと言った。
「きみは本当は、松波に死んでほしくなかったんだろう」
――たすけてよう、もうだめだよう。
心の奥底で、そんな声が、聞こえた。だって、そうなんだもの。わたしだって本当は。本当は、わかっている。静かに、涙が溢れ出した。
「……ほんとは、死んでほしくなかったよ。生きていてほしかったよ。他の誰でもない、わたしが松波を救いたかったの」
「うん」
「最後だけでも、ちゃんと向き合って、感情をぶつけあって、秘密だってちゃんと言って、それで……終わりにしたかった」
「うん、知ってるよ全部」
「どうして憎むことしかできなかったんだろう。いまだって憎い。あいつのことをゆるせない」
でももう、どこにもあいつはいないんだよ。わたし、どうしたって、ゆるせないのに。
アストロは、じっとわたしを見ていた。
「……どんな形であれ、その感情がきみを生かしてたんだよ。呪いときみは、ともに生きて来たんだよ。きみは、ずっと松波と生きて来たんだよ。たぶんこれからだってそうだ」
だから、いつかその感情が熟れるのを待つといい。そしたら、それはもう離しがたい自分の一部になっているから。アストロはそう言った。わたしは首をぶんぶん横に振る。
「そんなの、無理だよ」
「いいや、無理じゃない」
彼はわたしの手をとった。
「ぼくは今からとても残酷なことを言うよ。月乃。ぼくはね、憎しみに暮れるきみもすき。がんばっても報われないきみもすき。ぺしゃんこにつぶれる前のきみもすき。ぼくはきみの、どうしようもない、弱さの中で揺れる優しさに、憧れてるんだよ」
「こんな、汚い傷に? 汚い感情に? もうわたしは、見たくも聞きたくもないのに?」
アストロは黒いその傷の筋に花をくるりと巻き付けた。薬指に、小さなしろい花が咲いた。溝のふち、アスファルトに咲く頼りない花。
「呪いは隠すことだってできる。いつもそれにとらわれていなくてもいい。ともに生きていくのは、一つの激しい感情だけじゃなくてもいい」
でもその激しい感情も、その出来事も、今やきみの一部なんだ。いつか関係なくなる人やこと、出会って別れてまた出会いまた別れる、その一瞬一瞬のやりとりの積み重ねがきみなんだ。
アストロは、もう一度わたしの手に自分の手を置いた。
「……ぼくも、やっと今そのことに気づけたんだ」
そう言った声がなんだかとても、びっくりするほど柔らかいものだったから、わたしは思わず顔をあげた。
アストロはもう違うところを見ていた。遠くを見て、ふっと笑っていた。
「……そろそろ、見つかる頃だとは思ってた」
すこし遠い視線の先には黄色の頭が二つ、三つ、四つ。星みたいな顔に小さな体。こちらに気づき身を固くしていた。
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