9話 きみは神さま①
青いタイムマシンに戻ると、椅子に座った星色の小さな近未来人がぽつんといた。
「何してるのさ」
アストロは背中を向けたままそう一言だけぽつりと呟いた。彼は肩で息をしていた。まるで、今ここに帰ってきたみたいに。
「ごめん。ごめんなさい、アストロ」
「……ぼく、きみのこと心から尊敬するよ」
わたしは、座ることもせずに、ただ立ち尽くしていた。彼がレバーを引くと、機体は宙に浮いたようにごうんごうんと鳴り響いた。途端に、嫌な予感がした。
「アストロ? ちょっと待って、どうする気?」
「どうするって……帰るんだよ。元いた時間へ。『原点』へ」
「そんな。九月二日の十二時にあいつと会う約束をしたこと、聞いてたんでしょう」
アストロは、仕方なさそうに、わたしを見た。そして、「タイムマシンは一人につき一回しか使えない決まりだよ」と言った。
「……それに、ぼくがきみをわざわざ二〇X八年の九月二日に連れて行かなくても、元いた時間に戻ればすぐわかる。次こそ彼に復讐できるかどうか。ぼくたちは、戻るんだよ。出発したときへ。『原点』である、九月十六日の夕方へ」
「違う! それじゃ遅いよ。そのときに死んでたら、わたしはもう何もできないじゃない。まだひとつも復讐できていないのに」
「あんなことするなんてぼくは聞いていない」
アストロはため息をつき、正面を向いた。
「それより、体調は大丈夫なの?」
「……薬を飲んだからしばらくは。ねえ、アストロ、話をそらさないでよ」
これで終わりになんてできなかった。
「話す意味がない。違反だよ。二回もタイムマシンを使うなんて」
「それなら、こっちだって、盗み見するなんて聞いてない。それだって違反じゃないの?」
「……お互い様ってか。ま、一理あるかもね。まあ、そうだとしても、ぼくはきみの意向には添えないな」
「でも」
「でも、なに」
諦めきれなかった。わたしは、スカートのすそをぎゅっとつかんだ。
「一つでもタイムマシンに余地があるならわたしは……」
「彼のことなんて、放っておけばいいじゃない」
アストロがぽつりと言った。はっとして顔を上げると、彼は画面を見つめていた。
「きみは、彼の不幸を望んでいたはずだ」
「そうだよ。だけど……何も知らない松波に何をしたって、意味がないの。対等な立場で文句を言いたいの。わたしがそうしたいの」
とはいえ、方法がないとなると。わたしは考える。すると、もう一度深いため息が聞こえた。
「これはぼくが過去に聞いた話だけど」
アストロが話し出す。
「目的を叶えるため、運転手の銃を奪いそれを使ってタイムマシンを乗っ取った乗客もいたらしい」
わたしは、アストロの言いたいことがよくわからなかった。ぽかんと彼を見つめる。黄色い頭はやけに元気な声で言った。
「あれ、ぼくのピカピカ銃どこにやったんだろう!」
普段より数倍抑揚がついていて不気味だ。「……何言ってるの? おかしくなった?」わたしが尋ねても、アストロは完全に無視して続ける。
「このままじゃタイムマシンを乗っ取られちゃう。怖いよう! それじゃあぼくは無理矢理ルールを破っちゃうことになるけどっ」
「……」
「――仕方ないよなあ」
そして、アストロはわたしを横目で見た。すぐそこに、ピカピカ銃が備え付けられている。そうだ、最初に乗ったときに説明してくれたあの銃だ。
沈黙が流れる。
アストロはもう一度横目でじいっとわたしを見た。
わたしは吹き出した。素直じゃないやつ。手に取ると、ピカピカ銃は手になじんだ。銃口をアストロに向かって突きつけて、わたしはしっかりと言う。
「タイムマシンジャックとして命じる。二〇X八年の九月二日へ、連れて行って」
「こ、怖いよう! 従うしかないよう!」
一応の建前を叫ぶ。それからアストロはすっとさめたように、色とりどりのボタンを押した。そして、ほとんど聞こえないほどの声で、「これっきりだよ。そろそろ未来人がぼくらのやってることに気がつくと思う」と言った。
「やれやれ全く、きみの本来の目的は何だったのさ……」
ピアノの音がかろやかに踊る。いらっしゃいませー、ありがとうございましたー。店員さんの声が耳を通り抜けていく。二度目のタイムトリップでたどり着いたのは、「原点」である二〇X八年九月十六日から二週間前――九月二日のお昼前、商店街の中にあるケーキ屋さんだった。賑わう店内は、飛び交う人の声で溢れかえっている。だから、わたしの隣で見えない誰かがささやいているなんて、誰も気づかない。
「きみの考えはとても安易だね。まるできみ自身みたい」
「もう、うるさいなあ」
携帯電話も財布ももってきていないということに、店内に入ってから気づいた。一瞬うろたえたけど、店員さんの「お連れ様が来られてから注文お伺いしますね」という一言で落ち着きを取り戻した。からん、とグラスの中の氷が涼しげな音をたてる。
「あの松ナントカに支払わせる気なの?」
「ええっと……」
「うわ、かっこわる……」
アストロは本気であきれているようだ。
「本当にそんなので復讐する気はあるの?」
「うるさいなあ……。あるに決まってるでしょ」
時計の針は十一時三〇分を指していた。松波が来るなら、あと三〇分後だ。
松波は大学を卒業したあとも、こちらにいた。就職先が地元ではなくこちら側で決まっていたからだ。奨学金返済と節約のために、引っ越しせず学生の頃と同じアパートにそのまま住んでいると聞いていた。彼の家から商店街はまっすぐ歩けば着く。事故のあった紀野交差点とは別方向なので、おそらく交差点に行くことはないだろう。
「――今の自分なら、松ナントカとうまくやれるって思ってる?」
ぽつりと、アストロが言った。遠くの席で、女の人たちがぱっと開く花のように笑っている。彼の一言は、聞こえないふりをすれば、すぐにかき消されてしまうような、小さなものだった。
「……わからない」
わたしも、小さく言った。見えないけど、アストロは多分、こちらをじっと見ているのだろう。
「わたしは……結局、あの頃から何も変わっていないのかもしれない」
あのアパートで松波と会うまでは、あの頃の自分とは違う、そう思っていた。
「もう変わったから、彼に立ち向かえるなんて思ってた。でも多分、そんなのうまくやれるつもりになってるだけだったんだよ。昔の自分より強くなってる気になってるだけ。でも本当は、きっと今だってわたしは……慣れてしまえば、彼の暴力に甘んじるんだと思う」
「……とんでもなく救われないこと言うね」
かすれた声で、アストロが言った。
もう『原点』に戻れないとしたら、今の記憶をもったまま過去をもう一度生きることになったら。わたしはその自分が生きる場所で、あんな風に松波を殴れただろうか。できないだろうな、と思う。――だとしたら、わたしがさっき、まだ何も知らないあの松波にぶつけた激情の理不尽さは、どう考えたって。
「やっぱり、どう考えてもこれは復讐なんだね、アストロ」
「……今さら何言ってるのさ」
また、ぽつりと、アストロが言った。
「ねえ、復讐って言ってもケーキ屋さんで何するの。まさかここで殴るわけじゃないよね?」
「何しようかな」
「決めてないの?」
「うん。……決めてなかった」
「……そう」
「うん」
十一時五〇分を過ぎても、松波は来なかった。からん。ドアが涼し気な音を立てるたびわたしは顔を上げる。透明のアストロが側で同じように注意を傾けていることがわかった。でも、どこにもいない。見かねたのか、アストロが沈黙を破る。
「来ないね」
「うん」
「大丈夫?」
「うん」
わたしは膝に二つの拳をぎゅっとのせたまま、俯く。
「ねえ、アストロ。まさか、紀野交差点に行ったなんてこと、ないよね……」
透明の彼が、何か言おうとする気配があったそのとき。
低く、そしてだんだん高くなっていく、赤い音。
ぴんとはりつめる、空気。
――救急車です、救急車です。道を開けてください。
待ってなんかいないはずなのに、わたしはどこかそのサイレンのけたたましい音が聞こえてくるのを待っていたみたいだった。アストロは、透明な手をわたしの手にのせた。その暖かな手のひらを振り払い、わたしはお店を飛び出した。店員さんが何か言った気がするけど、何も耳に入ってこなかった。
商店街はまばらな人だった。救急車の音、近いね。何があったんだろ。そんな会話が聞こえた。わたしは駆ける。獣のように疾く。さびれた服屋の前を通る。しろいワンピースに至るほそ道。動物のいなくなったペットショップ。
「松波」
どこにいるのかもわからない。何があったのかもわからない。誰を乗せた救急車かもわからない。
でも、心がわかっていた。
松波は、もう、多分。
びゅんびゅんと風を切って思い出が流れていく。一緒に行った居酒屋。あの日出会った秘密の空き地。一緒に行ってみたかったあの花屋。――好きな人と行きたかった花屋。でも、きっと、もう。
商店街の先、ばらつく人々が目に入る。ただ、救急車のサイレンが、遠のいていく。松波、松波。
わたしは、あの日のことを思い出していた。
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