8話 復讐
チャイムを押してすぐ、ドアの向こう側から物音がした。
「はいはい……あれ、月乃?」
やわらかく伸びた、すこし長い前髪。揺れることのない湖みたいな黒い瞳が、わたしの姿を認めて大きくなり、次の瞬間にはすっと細くなった。わたしは一歩前へすすんだ。
「ひさしぶり」
彼の地元で執り行われた式には、とうとう行かなかった。友人が数人参列したけれど、四角い箱のなかで眠る彼の顔を見ることはできなかったという。細い雨の降る、静かな静かな式だったと聞いた。
ごう、と向こうの車道のほうから風の音がする。
「ひさしぶりって。昨日会ったばっかりだけど」
見上げると、彼が笑っていた。Tシャツの白が陽に照らされてまぶしい。袖からのぞく腕がすこやかだ。
「俺、今日の昼は会えないって言ってなかったっけ?」
「ああ、ごめん。都合悪かった?」
わたしは笑顔で謝る。殺せ。どくん、心が動く。いや、正確には「殺せ」ではない。彼の死なんていらない。それよりも、重い痛みを与えてやれ。わたしのこころが脈打つ。ぞわりぞわりと猟奇的な感情がせり上がってくる。部屋の内から冷気がうっすらと流れてきた。
「いや、まあ都合が悪いわけではないけど……。夜に会う約束してたし、今来なくても。うわっ、ていうかお前なんでそんな暑そうな服なの」
わたしの全身を上から下まで見つめる。
「ちょっと諸事情でね」
抑えろ、まだ早い。落ち着け。
「ちょっと急用があって。都合悪くないなら入れてよ」
「あー、でも……」
松波は渋った。それでわたしはいらいらして、前に詰め寄った。
「いいから、入れて。大事な話があるんだから」
「……わかったよ」
圧に押された松波は、わたしを家に招き入れる。彼が鍵をかけている間に、構わずすたすたと部屋の奥へ進む。家に上がり込んだのは、他の人に邪魔されないようにするため。とにかく殴らないと始まらない。
ズタズタになるお前が見たい。わたしがそうされたように。
どくん、どくん。心の奥に棲む、冴えわたる冷酷な瞳のわたしがささやく。開けて中に松波が入った瞬間にやれ。ぶっ潰せ。殺せ。めちゃくちゃに砕いてしまえ。煮えたぎった血が熱い。汗ばんだ震える指先を隠す。勢いよく、リビングへの引き戸を開ける。
ぽよん。
瞬間、目の前に青が飛び込んでくる。視界がやられて、出鼻をくじかれて、わたしはバランスを崩す。
「うわあ!」
何だトラップか!? 片足でうっかり何かを踏んで、弾ける衝動と大きな破裂音。わたしは声もなく飛び上がり、ひっくり返る。ぽよん。次に、飛び込んできたのは赤。わたしはあぜんとして、部屋を見渡す。
「……なに、これ」
白を基調とした室内は、赤や緑、青の風船で溢れかえっていた。わたしが動くとふわり、ふわりと宙を舞う。それはまるで、しあわせの象徴みたいに。
「いや、参ったわ」
松波がうしろにいた。一体何に参ったんだ。まだ何もはじまってないのに。彼はわたしの目線に合わせてしゃがみ、首をかしげてわたしの顔をながめた。
「今日、誕生日だけど、自覚は?」
おだやかで、かすれた声。
わたしは拍子抜けして、口をぱくぱくした。
「誕生日? ……誰の?」
「うわ……ほんとに忘れてたわけな。今日、七月十七日だよ。月乃の誕生日だろ」
お前ってほんと、そういうところぬけてるよな。彼の目がす、と細くなった。
何だよ、それ。
笑われたような気がした。武装して来た心を。憎悪をぶつけ、憎悪を受け止めると覚悟して来た心を。滑稽だと笑われたような気がした。松波は、首のうしろに手をあててからりと笑う。
「ほんとはサプライズしようと思ってたんだけど。ま、バレたら仕方ないな。……で、どうした? 何があった? じっくり聞かせてもらう」
何言ってるんだこいつ。そうして、わたしはようやく不時着したことに思い当たる。「原点」から二年前――二〇X六年十二月二十四日、つまり大学四年生の冬に着くはずだったわたしは、三年前である二〇X五年の夏、それもわたしの誕生日に不時着していたのだ。わたしは目の前の男を睨むこともできずにぼんやりと宙を見る。視界の大部分がのっぺりとした押入れだ。松波はわたしの視線の先を見て、「あ」と何かに思い当たる。
「もしかしてマフラー? ……あれは月乃が悪い」
「……は?」
「ベッドの下に隠すとか、中学生男子のエロ本かよ。俺が作ってほしいって言ってたの、まさか今から準備してるとは思わなかったよ。秘密でがんばってくれてたみたいだけど、さすがにわかる」
わたしの顔は青くなっていく。なんだ、やっぱり知ってたのに知らないふりしてたんだ。それも、予想以上に前から。所在なさげにかくれんぼ、見つかってないふりをする疲れた黒いマフラー。ずっと、マフラーを編んでいることを知っててそのくせ受け取る前にわたしと別れたんだ。
「違う……」
俄然、腹が立ってきた。
「わたしはそんなどうでもいいことのために来たんじゃない」
「どうでもよくないけど。けどそれならどうした?」
彼は顔を覗き込む。
「言いにくいこと?」
「そうじゃない!」
わたしはうつむいた。気持ちの整理がつかない。彼はいつまでも黙っているわたしを見かねたように、口を開いた。
「じゃあ俺のほうから先に言っていい? ……いいか月乃、大事なことだからよく聞けよ。一回しか言わないから」
わたしの正面にすわって、わたしの目を見つめた。そして彼は、やわらかく笑ったのだ。
「誕生日、おめでとう。いつもありがとう。マフラー見たときも本当に嬉しかったよ。……俺はあなたが好きです。強いところも、優しいところも、そのまっすぐなところも」
大切そうに、本当に大切そうに。彼はわたしを見た。ばかみたいに身動きが取れなくなった。呼吸をすることを忘れた。つめたい指先がそうっと伸びて、わたしに触れるその前に、
「本当に、月乃がいてくれてよかった」
「やめろよっ!」
わたしは松波を文字通りぶっ飛ばした。
「ふざけんな触るな!」
叫んでそれから飛びかかって力の限り殴った。そばの風船が割れた。
獣だった。発狂して、虎みたいになって、そこには奇声だけがあって、獣だった。ほそい体を蹴った。呼吸を阻害されたその体をもう一度蹴った。馬乗りになって、強く握って白くなった拳で、背中に一撃をくらわせた。無抵抗のそいつに腕を振り上げた。やわらかな頬を殴った。骨の当たるかたい音がした。
「ふざけんなよ……っ」
ふざけんなふざけんなふざけんな。
「お前が……、お前がいらないって言ったんだろ。どうでもいいって、いらないって、必要ないってお前が言ったんだ」
何のためにここに来たと思ってるの。何で、本気の目でそんなことを言うの。
「お前なんか……、お前なんか死んでしまえ。気持ち悪いんだよ」
わたしは悲鳴に近い声でわめき叫んで、もう一度腕を振り上げた。
「ちょ、ちょっと待てって、月乃! 落ち着けよ。ちゃんと話を聞くから」
それでも、松波は醜く四肢をじたばたさせて、男の不公平で不条理なあの力を正しく使って、わめき暴れる私を座らせた。それから、赤く腫れた顔で、わたしを殴ることも責めることも一つもせず――ただ、目を真っすぐ見た。
「ちゃんと話を聞かせて。俺、ちゃんと考えるから」
松波はぶっ飛ばされても、殴られても正常だった。優しい松波だった。本物だった。嘘じゃなかった。まぎれもなかった。わたしのみじめに乱れた呼吸だけが、部屋の音だった。どうしてここまで来て、わたしは憎しみの対象に祝福されているんだろう。
「ひどいよ、こんなのあんまりだよ」
彼の黒い瞳を見つめ返すことができない。吐き捨てるように言った。
「どうして、服を投げ捨てたの。わたしを殴ったの。謝ったの。嘘をついたの。傷つけたの。存在を否定したの。どうして、わたしたちはうまくいかなかったの」
どうして。わたしは口をつぐむ。この人に言っても仕方ないことばかりが、零れていく。理不尽に相手を傷つけて、自分が何をしているかもわからないで。これじゃ松波とわたしは同じだ。わかっているのに。
「どうして」
出てくる言葉を飲み込んで、それから言った。
「わたしは、お前が大っ嫌いだ。世界で一番大嫌いだ。死ねばいいと思っている。お前のせいで、わたしは、」
彼の肩を強く掴んだ。とことん不幸になれ、どん底に落ちろ、死ねばいい、そう思っている。
でも。
「わたしは知ってるの。大学一年の頃自殺を試みたんでしょう。それをわたしだけに打ち明けてくれるんでしょう。穏やかなようでいて繊細で、思いつめやすいこと。全部知ってる」
その誰にも向けることのできない矛先が、全部わたしに向いてしまったことも。わたしは知っている。
命を絶とうとしたことが、あったこと。それは付き合ってちょうど一年目、八月の最後の日に打ち明けてくれた。わたしの誕生日は――七月十七日は、それよりも前の出来事だ。ここにいる松波からすると、彼の家族以外まだ誰も知らないはずの事実を、わたしが知っていることになる。
だから、どうか、わたしが未来から来たと気付け。
「今から三年後の九月二日の十七時過ぎ。きみは交通事故で死ぬ。だからその日、きみは紀野交差点へ行ってはいけない。……どうか、決して、行ってはいけない」
「月乃」
「生きろ。生きたお前に、今度こそわたしは面と向かって文句を言ってやる。だから、そのときまで生きていろ」
尻もちをついたままの松波がわたしを見上げる。わたしは怒りと憎しみと不幸を願うこころをそのまま、松波に向けた。だけど。
「勝手に死ぬなんて、ありえない。……だから、行っちゃだめなんだよ」
これは復讐なんだ。お前のせいで何もかもがだめになってしまった、わたしの。お前はわたしの言動の意味を考えて、わからないまま一生苦しめばいい。
だから、わたしは何も知らない、自分が何をしたか一つだって知らない間抜けなそのくちびるにくちづけをした。
「女はね、好きじゃなくてもキスできるんだよ」
わたしは松波の顔を見た。かたり、とすぐ横で何かの物音がした。息をのむ音も聞こえた気がした。わたしは、あぁとため息を漏らした。きみは、ずっと前からここにいて、すべてを見ていたんだ。
わたしは帰らなければならない。黒いマフラーをとった。唖然とする松波の膝に、まだ彼にとっては完成していないはずのそれをのせる。
「わたし、その日はこの先どんな関係になろうとあなたを待ってるから。十二時ちょうどに商店街のケーキ屋。よく行ったでしょ」
「月乃」
ドアを開けようとしたとき、置き去りにされた子どものように切実な声が、わたしを呼び止めた。その戸惑いをふりはらうように、わたしはドアノブをひねった。
「さようなら」
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