7話 公園にて
「月乃」
冷たい声がして見上げると、誰もいない。その代わり、真上に青い空が広がっている。蝉があいかわらずうるさい。焼け付くような日ざしがまぶしかった。わたしはどうやら、仰向けに寝ているようだった。そのままの体勢であたりを見まわすけど、やっぱりどこにも人は見当たらない。声の主は、静かに言った。
「ぼくだよ、ぼく」
「……ああ、アストロ」
すっかり忘れていた。自分がいま、どこにいるのか。
「……それ、新手の詐欺みたいだね」
とぼけて笑ってみたけど、「そういうのいいから」と吐き捨てられる。身体を起こすと、緑のペンキのはがれたベンチに寝ていたということがわかる。松波の家の近くの公園だ。こめかみを軽く押さえる。それにしても、これまた随分嫌な夢を見た。ぼうっとしていると、アストロがたぶん隣に座った。もちろん姿は見えない。彼はいま透明人間になっている。
「自分がさっきまでどうなってたか、わかってる?」
「えっと」
「気絶してたんだよ。多分、もとの体調不良に加えて、脱水症状になりかけてる」
「やっぱりそうだったんだ、ごめん」
道理で頭が痛いわけだ。でも、休めば大丈夫だろう。
「……月乃。もう帰ろう」
「嫌だよ。ここまで来たのに」
わたしは隣に顔を向ける。アストロは透明なままで、冷静な声をよこす。
「いや、帰る。営業妨害もいいとこだよ、きみは。どうしてそう突っ走るの? 言ったよね、無理はしないようにって。こんなんじゃうちのところの信頼度が落ちる」
「ちょっと待ってよ。わたし絶対に帰らないからね」
「いい加減にしてよ。こっちの都合も考えてくれる? これでもいろいろ大変なんだけど。……ほら、もう帰るよ」
「アストロ」
彼は返事をしなかった。アストロはベンチを降りて、公園の出口に向かったようだ。小さな足音がすこしずつ遠ざかる。わたしは立ち上がって呼びとめる。
「待ってよ、わたしだってお客さんでしょう。うそ、ほんとに帰る気? ねえ、アストロ」
「その状態で、彼のところへ行かせるわけないでしょ。ぼくはきみみたいに自滅が得意な人に付き合わされるのはごめんだ。自分の猛進が、ほかの人を巻き込んでるのわかってる?」
「……わかってるよ」
それはわかっているつもりだった。会社だってそうだ。いろんな人に迷惑をかけている。いろんな人を傷つけた。気を遣わせた。小さな足音はどんどん遠くなる。あわてて話し出す。
「でも、わたしはタイムマシンを求めてるんだよ。タイムマシンを使って、目的を果たす権利があるはずだよ。――タイムマシンは、求めている人のところへたどり着くんでしょ?」
彼の足音は止まる気配がない。もう、本当に帰る気なのだ。それなら、と思った。目的を果たさせないというなら。どうしてもアストロがそうさせないというなら。
わたしは大きな声で呼びかけた。
「どうしてもっていうなら力ずくで止めたらいいよ」
彼の足音が止まる。やった。わたしはごくりとつばを飲み込んで、続ける。
「わたしは松波のところへ予定通り行く。だから、どうしてもだめだっていうなら、力にものを言わせたらいい」
卑怯な手段だとはわかっている。それでも、わたしは鼻で笑う。
「――もっとも、腕っぷしできみに負けるとは思わないけど」
「上等だよ」
いつの間にか、アストロは透化能力を解いて、出口のポールの前でわたしを見ていた。
その真っ黒な瞳から感情は読み取れない。彼はすたすたとわたしの目の前に来て、ぐいと袖を引っ張った。存外に、思い切りわたしの身体は前にのめる。ちいさく悲鳴を上げた。反射的に腕で顔を守ってしまう。それを見たアストロのちいさな手に、ためらいが生まれたのがわかった。
けれど、わたしは口を引き結び、腕を下ろす。無敵モードのボタンをそっと押す。わたしだって負けない。負けたくない。
「……何? やってみればいいじゃん。こわいの?」
平然と言ってやった。わたしと彼は睨みあった。汗が流れ、膝がかすかにふるえてくる。
「勝手に言ってろよ」
ふい、とアストロは目を逸らして、手を離す。彼はまた透明になって、どこにいるのかもわからない。少なくとも、また足音が遠ざかっている。もしやどこかへ行くのだろうか、と思ったら、ピ、ゴトン、とフェンスの裏にある自販機から音がした。しばらくすると、隣に座る気配がする。ミネラルウォーターがわたしの膝に置かれた。
「……それっていろいろ大丈夫なの?」
「知らない」
怒ったように彼が言った。
「これがきみのやってることなんだよ。きみが無茶するなら、誰かがこうやって迷惑をこうむるの。きみがそうするなら、ぼくはこうする他ないってことぐらいは自覚して」
「それは……、いや、ごめん。そうだね、アストロ。ごめん」
「へえ、きみってちゃんと謝れるんだ」
「うん。本当にごめんなさい。迷惑かけるけど……お願いします」
あらためて、深く頭を下げる。アストロはしばらく黙っていたけれど、ふと言った。
「もう、いいから」
熱い風が吹いて、横顔をなでていった。ペットボトルを傾けると、水が光に反射してきらきら光った。冷たさが身体にしみわたっていく。
まっしろな雲が、ゆっくりと空を動いていく。少しここで休んでいくことになった。わたしたちは、空を眺めた。
「今まで、どんな人をタイムマシンに乗せて来たの?」
「そうだな――全員、日本人だったよ。試運転だったから全く接触はしてないけどね」
「新人の研修みたいなやつ?」
「そう。いろんな人がいたよ。とても優しい人。とてもかわいらしい人。とても泣き虫な人」
「それ、誰にでも当てはまることしか言ってないでしょ」
「当たり前。プライバシーに反さない範囲のことしか言わないよ」
よく気づいたね。アストロはくすくす笑っている。ばかにされていたようだ。心外だった。
だいたい、優しいもかわいらしいも、泣き虫も、一人のなかに存在する要素の一つ一つであって、それ一つがその人の本質になったりはしないはずだ。
「アストロ」
「ん?」
「実は、わたしも泣き虫だったりする」
「へえ、そうなの」
でも、わたしは泣き虫な人、というだけではない。でもそれなら、わたしは一体なんなのだろう。
「……さて。体調はどう? そろそろ落ち着いてきたんじゃない?」
「そうだね、だいぶましになってきた」
人はそれぞれ、いろんな要素をもっている。特徴や性質といってもいいかもしれない。わたしにも一面がある。けれど。それらをひとまとめにすべて丸めて、「いらない」と言われてしまった人間は、どうすればいいのだろう。ゴミ箱に捨てられてしまった役立たずは、どうやって生きていけばいいのだろう。
「まあ、きみがスッキリすることを心から祈ってるよ」
アストロは、ベンチから立ち上がった。そのままあとは任せてくれるらしい。わたしは、その透明な背中に声をかけた。一歩踏み出すと、ほんの少しだけ自分の身体からだるさがぬけているのがわかった。
「あ、アストロ。あの、本当にありがとう」
「……じゃ、ぼくはさきにタイムマシンに帰ってるから」
砂利を踏む音が途絶えると、あとは何も聴こえなくなった。アスファルトはじりじり照りつけているだけだ。すでにぬるくなったミネラルウォーターを飲む。もし、彼がこれからタイムマシンを使う人にわたしのことを言うのなら。アストロは、どんな人が乗ったと話すのだろう。コートを腕にかけ、黒いマフラーをつかむ。
公園を出ると、相変わらず赤いアパートの二階には洗濯物が揺れていた。トタン屋根のついた階段をゆっくり上がっていく。二〇三号室のドアを前にして深呼吸をする。
静かにチャイムを押す。
もうすぐ、彼に会える。
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