6話 役立たず②――回想

「雪村さんは、彼氏とかいないの?」

 春。真正面に座った同期は、ふわふわウェーブの髪の毛を指でいじっている。社員用の食堂に集まった同期の十数人は、テーブルを二つに分けて昼食をとっていた。

「うん、いないよ。もうしばらくいいかなあ……」

「えーもったいない。ここから出会いがあるのに。ねえ」

 確かにそれは言える、と右隣の女の子も笑っている。わたしのいるテーブルには六人が対面していて、今日はなぜか恋愛の話をしていた。まだ、出会って一ヶ月も経っていない人々が、互いの価値観をさぐって、いろんな話をしている。

 ずず、と紙パックを啜る音がする。

 斜め右前の澄ました顔の彼は、いつも同じ銘柄のお茶を飲んでいた。紙パックの安いやつ。わたしは、そんな彼の冷たさを含んだ目を見て、「どうでもいいんだろうなあ」と思う。何人でいたって、話の合わない人は確実にいる。本当のことを言わない人だって、秘密をもっている人だって、きっとたくさん。「ねえねえ」と正面の同期が身を乗り出す。

「雪村さんにそこまで言わせるのって一体何があったの」

「えっと」

 お昼どきの食堂は当然ながら混んでいて、本当なら弁当を食べる人は席を他の人にゆずるべきだ。正面の女の子が食べる色とりどりの弁当箱をぼんやり眺めた。

 がたり、と斜め右前の彼が席を立った。

「……ごめん。俺、先に上行っとくね。すましときたい仕事あるから」

 彼はトレーを下げると、さっさと上に行ってしまった。

「ノリわるーい」

 正面の彼女がくちびるをとがらせた。

「志貴くんって、いつもああいう感じだよね」

 わたしは彼が空けた席について思いを馳せていた。何度か話すうちに気が合う合わないがわかってきて、自然と疎遠になる人たちがこの中にもいるんだろうな。親しかった人ですら疎遠になるくらいだ。わたしは、松波と連絡をまったくとっていなかった。

 事務室に戻る前に化粧直しに行くと、自販機の前でばったりと志貴くんと会った。

「……どうも」

「仕事片付いたの?」

「雪村さんって、真面目だよね、ばかみたいに」

 わたしは、ぽかんとして彼を見た。何を言われているのか、理解が追いつかなかった。志貴くんは、わたしのそんな様子を見て、くすくす笑った。

「気持ちがはやまりすぎてて、見てておもしろいよ」

 それだけ言うと、彼はすたすたと先に行ってしまった。

 わたしはトイレの洗面台まで歩いていくと、化粧ポーチから黙ってリップを取り出した。先に着いていたウェーブの彼女が、鏡越しにちらりとわたしを見て、不思議そうに言う。

「あれ、雪村さん、なんか怒ってる?」

「なにも」

「あ、そう?」

 彼女は、ぱちくりと目をしばたかせて、また鏡に映った自分の顔を見出した。

「ねーそれよりもさ、絶対近衛さんって雪村さんに気があるよね」

 わたしは笑ってしまった。

「え、なに、雪村さん。わたしなんかおもしろいこと言った?」

「なにも」

 順調だったと思う。はじめは少し怖かった女子同士の関係も、上司とのやりとりも、うまくいっていた。そのうち、五歳上の上司の一人が、わたしを気にかけてくれるようになった。静かで控えめだけど、とても気さくな人だった。よく飲みに誘ってくれた。

「ここ一回来てみたかったんです。評判通り、お肉がすごくおいしいですね」

「そう? そりゃよかった」

 白ワインがキラキラ光っていた。近衛さんはにっこり微笑んだ。優しい瞳をしていた。それは、いつかの誰かにとても似ていた気がした。あれ。わたしは首を傾げた。大丈夫かもしれない。何が大丈夫になるのかはわからないけど。わたしはまた大丈夫になれるのだろうか。

「楽しかった。またぜひ」

 近衛さんは言った。のんびりしていて背が高くて、キリンみたいな人だった。それから何度か一緒にお酒を飲みに行った。

 そしてその日は、二人で四次会まで居酒屋をはしごしていた。めずらしいことだった。だってわたしも近衛さんも、いつもはお店を出たらすぐに帰るから。でもその日は違った。

「寒いねえ」

 ふわふわとしろい息が、ゆっくりと闇に消えていった。近衛さんの顔はほんのりと赤かった。凍った夜空の下、二人で駅まで歩いた。前を進む背中が話しかけて来た。

「雪村さんこの後どうするの?」

「終電はとっくに終わってますしタクシーもなんかなあってかんじなので、適当にファミレスで時間つぶして帰ります」

「そっか」

 わたしはばかなのだと思う。人の気持ちも考えないで。

 しずかな夜の街、だれもが寝静まったその道路で、彼はただやさしく。くるりとこちらを振り向いた彼は、わたしに手を伸ばした――

 ぐちゃぐちゃになったチェックのスカートが。

 血にまみれた薬指が。這うざらざらした手が。

 涙や、痣や、体温が、

「やめて……っ!」

 わたしは思い切りその人の手を払った。気持ち悪かった。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。喉から熱い熱い不快感がこみ上げてきた。その場にうずくまって、下を向いた。彼が駆け寄り、しゃがむ。こわい、また殴られる。

「来ないで触らないで」

 わめいた。叫んだ。

「雪村さん」

 その声が、あのかすれたひくい声ではないことに気づいて、それからやっと我に返った。わたしはゆっくりと顔を上げた。彼はひどく傷ついた顔をしていた。ああ、わたしは、今この人を傷つけたのか。

「ごめん。……そんなにいやだと思わなくて」

「……近衛さん、あの、待ってください、すみません、違うんです」

「何が?」

 近衛さんはさみしそうに笑った。

「タクシー呼ぼうか」

「近衛さん」

「大丈夫だからね。……困らせてごめん」

 違うんです。違うんです、本当に。……ごめんなさい、本当にごめんなさい。

 近衛さんは、月曜日会社で会っても優しかった。でも、だめなのはわたしのほうだった。書類を受け取るために伸びて来る手。それだけで、もう、だめだった。最初のうち、彼は気にしないそぶりをしてくれていた。けれど、毎回びくびくされて、気持ちがいいはずない。そのうち近衛さんは、わたしの態度にうんざりしだした。お互いに事務連絡さえも粗雑になった。手渡しの書類は、投げられるように置かれた。実際にはそうではないかもしれない。わたしは過剰に意識するようになっていった。そこかしこにある大きな手から、次第に男の人が全員怖くなった。夢でうなされだした。いろんな人に殴られる夢。夢を見るから寝たくない、眠れない。

 毎日何食わぬ顔で弁当を食べては、トイレに行って吐いた。食べ物が喉を通らない。同期はそのうちわたしの様子が変なことに気づき出した。仕事がうまくいかなくなり出した。一年間で作り上げてきたささいなものが、ほんのちいさなことが、少しずつ、崩れていく。もう一度春が来た。寝不足がたたって、上司や同期への業務連絡でミスをした。一度、志貴くんが新しくできた後輩に、わたしのことを「病弱で変なやつだから」と言っているのを聞いた。悪いやつじゃないんだけどね、と。もう一度夏が来た。同期から個人的な食事に呼ばれなくなった。

 使えない役立たずだ。わたしは、誰の役にも立つことが出来ない。それどころか、存在するだけで人に迷惑をかける。誰かが終わりにしてくれないだろうか。車の行き交う道路を見つめて、ぼんやりと思った。

 わたしは誰にも何にも言えなかった。休むことができなかった。DV男のトラウマに苦しめられてるんです。それがどうした。よくある女の話じゃないか。みんな苦しいのに、どうしてわたしだけ休むことが許されるだろう。

 だけどわたしは、ふと、ただ一つのことに気がついた。

 そうだ。 

 全部あいつのせいだ。

 あいつだ。あいつと出会ってから全部うまくいかなくなった。つらい。消えたい。あいつのせいだ、全部あいつのせいだ。松波のせいで、わたしの人生はうまくいかなくなった。

 芽生えはじめた昏い灯りは、わたしのこころをうす暗く照らし出した。絶対にゆるさない。わたしは彼を生涯ゆるすことはないだろう。


 そんなとき――忘れもしない、九月二日。そう、二週間前だ。友人からかかって来た電話を何気なくとった。

「わあ、夏海、元気? 久しぶりだね」

 どうしたの? そうわたしが言うよりも前に、夏海がこう言った。

「もしもし月乃? あんた、もう関係ないかもしれないけど、一応伝えるね。いい、落ちついて聞いてよ。あのね、松波が――」


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