5話 役立たず①――回想
十九時の空は、真っ黒だった。部屋の中で、暖房がごうごうと鳴っている。わたしは、黒い毛糸をころころ転がしてみた。
――俺さ、手編みのマフラーとか彼女からもらってみたかったんだよな。
絶対に作ろうと思ったそのマフラーは、聞いたその翌日から始めたのに、二年が過ぎても出来上がらないままだった。そんな、彼ですら忘れているだろうものを、わたしは、今さら編んでいる。「あれをやろう」「これをやろう」っていうのは、すべて未来があると思い込んでいるから、あとからその全てが地雷になって襲いかかるのだろう。例えば、マフラーを編んでいれば。例えば、花冠の憧れを話していれば。
「……ただいま」
彼の低い声がした。がちゃん。ドアの閉まる音がする。そうっと、編みかけの黒いマフラーを紙袋に入れて、ベッドの下に隠す。わたしは白い部屋の中で、すう、と深呼吸をする。身をひきしめる。心の中のボタンを押す。たったそれだけで、多分、わたしは無敵になれる。
引き戸が開かれた。無機質な双眸が、わたしを見下ろしていた。言葉選びを失敗しちゃいけない。わたしは、まばたきをして、笑顔になる。
「……おかえり、松波」
「ただいま」
彼は笑った。分厚い黒のコートをハンガーにかけている。わたしはそっと胸を撫でおろした。ああ、大丈夫だ、今日は。
「寒かったでしょう」
「うん。寒かった」
わたしたちは寒いね、と言いあってこたつに入った。松波は入ってゲームをし出した。横顔が、冬の冷たさを湛えた、はかない白だ。「俺、今日夏海に会ったわ。研究室、忙しそうだった」すこしだけ開かれた口許、そこから流れる言葉。それらの声の温度は、優しく油断している。わたしに身を任せた声だ。やっぱり、彼が好きだと思った。
「月乃。聞いてる?」
「うん? 何?」
「だから、今日さあ」
すこし、うんざりした声に聞こえたのは気のせいだろうか。
「――親父から連絡があってさあ」
「あ」
表情を構成するいくつもの筋肉が、ぎしぎしいってるみたいに。くずれていくものを必死にひろいあつめて、無敵モードを何度も押す。
「……そうなんだ」
口に笑みを浮かべているのに、いびつだった。わたしも彼も何一つ笑っていない。
「俺が何したっていうんだろうな」
わたしの目を見ることなく、つぶやいた。何があったか、彼はもう口に出さない。潰された何かが、ゴミ箱に投げ込まれる。煙草の匂いは、もうわたしの日常の一部になってしまった。
「ね、ねえ、松波」
わたしは、心の中で願う。
「今日は晴れてるしどっちもバイト入れてないから、おいしい夜ご飯食べに行こうよ。気晴らしついでに、商店街うろつくのもいいし」
「いや、いいよ」
彼はあきれたように、静かに笑った。
「イルミネーションで飾り立てて、うざいし。ばかみたいじゃん。……お前、そういうのすきなタイプだっけ?」
「ううん、好きじゃない」
反射的に、わたしは笑っていた。垣間見える棘のようなものに小さく怯えていた。とりつくろうように、無敵モードのボタンを押す。お願いだから。
「ねえ、ご飯、作ろうか」
「あー、頼む」
「何が食べたいとかある?」
もう、返事はなかった。ちらりと見ると、松波はソファにしずんで、つまらなさそうに携帯電話の画面を見ている。ライトに照らされた顔が、青く光る。どうしてこうなったのだろう。表情を無くして、冷蔵庫を開ける。
松波がテレビをつけた。画面の中の夜の街はキラキラ光るクリスマスだった。ほんとに「ばかみたい」だ。みんな浮かれている。ばかじゃないの……まだ、一か月もあるのに。ハロウィンが終わったばっかりなのに。わたしは、どうしてかどこにも行けないままのに。空き地に行かなくなったわたしは、いつしか、松波に気づかれないように、そっと無敵ボタンを押すようになっていた。
低い笑い声が聞こえる。
わたしが台所からそっと見ると、彼はだるそうに、テレビを見て口をゆるませていた。
明らかに失われはじめた、彼の愛想。いや、もっとはっきりというなら、それは愛というものか。なんだか、無性にマフラーの続きを編みたくなる。すとん、すとん。大根を切る音すら、空しく響く。
二人がとてもうまくやっていた頃。松波は「手編みのマフラーとかもらってみたかったんだよな」と、柄にもないことを言っていた。「月乃はないの、そういうの」と、わたしに秘密があるか尋ねた。わたしは、マフラーを編みきれなかったし、花冠の憧れは言えないままだった。つまるところ、わたしはとても不誠実だった。「どうせ来年もあるでしょ」と心の中で妥協した。これからがあるからと、今をないがしろにし続けた。わたしは、目の前にいるそのときそのときの松波を大切にしなかったのかもしれない。だから、うまくいかなくなった原因の一つ「かもしれない」だけのマフラーにすがる。これを編んだら、この問題を解決したら、またもとに戻れるかもしれない。ばかだ。わかってる。
無言で白菜を冷蔵庫から取り出した。
いつからこうなってしまったのだろう。どちらも就活がうまくいかなくて、切羽詰まって、気遣いを忘れてからか。いや、違う。……ああ、そうだ。今日みたいに、松波のお父さんが内定のことについて電話してくるから――
「いったぁ」
ざぐり。
左手の指の第二間接のあたりに、そのまま包丁を降ろしてしまう。ぼうっとしていた意識が、急に現実に溢れ出した赤色で鮮明になる。
「わあ」
ぽたりぽたりと、床に赤が落ちる。指をつたう。特に、包丁の角がささった薬指の出血がひどい。
「ま、松波……」
あいつの名前を呼んだ。指から血をぽたぽたと落としながら、呼んだ。「何?」めんどくさそうな、彼の足音。
「うわっ。お前なあ……」
松波は露骨に顔をしかめている。ああ、もう、ずっと失望されている。真っ赤にそまった自分の左手よりも、その痛みよりも、真っ先に彼の目つきがわたしに刺さった。
と、彼は、わたしの指をつかんだ。
え、と思ったときには遅くて、わたしは床にひっくり返っていた。薬指は強打して、鋭い痛みに思わずうめく。頭上に、彼の無機質な瞳があった。
「痛い」
思わずわたしは言った。彼は無言だった。待って、と思った。松波、いやだよ。また、あれがはじまるのだ。
「……松波、放してよ、痛いよ」
「月乃さあ」
低い声からは、心の温度が伝わらなかった。身動きが取れない姿勢を強いられて、しだいに恐怖で体温が奪われていく。
「俺が血にトラウマもってんの知ってるよね?」
「……知ってるよ。ねえ、痛いよ……」
小さく悲鳴を上げた。彼がつかんだ指の力を強めていた。
「やめて、ほんとにやめて、お願い松波……」
つかまれた指が、薬指が、心臓そのものみたいに熱く脈打つ。焼け付くように鋭い痛みに、わたしは、気づけば、片方の手で彼の手を払った。瞬間、頭が真っ白になる。彼が思い切り、わたしの横腹を殴った。声さえ出なかった。彼が見下ろしている。
「謝ってよ」
松波はあくまで静かだった。波立たない水面みたいに、静かだった。
「謝ってよ」
「……ごめんなさい」
わたしは小さく何度も謝った。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
「今日は一段と寒くなって、街灯も色づいています。クリスマスまで、あと三週間!」
何かと思ったら、アナウンサーの声だった。テレビの世界は、一面のクリスマス。暗闇の中に滲む光は赤や黄色。では週末のお天気予報でえす。女の人の底抜けに明るい声と共に愉快な音楽が流れる。ふっと指の圧迫がなくなって、自由になる。松波の温度が遠ざかる。
「ごめんなさい」
わたしは、もう一度言った。手の震えを必死に隠しながら、やっと起き上がる。咳き込んだら、震えを見られたら、また殴られる。またやられる。泣けない、笑えない、話せない、動けない。つらい。でも、たぶん、ほんとのほんとにつらいのは――。
「頼むから、思い出させないでくれよ、もうこりごりなんだよ」
彼は顔を両手で覆っていた。その指の間から、もう嫌だと言葉が零れだす。
「なあ……」
彼は、わたしの着ているセーターの裾をつかみ、ひっぱりあげた。
――もう、考えるのはやめよう。もう、何も考えるな。
ボタンを、何度だって押す。何度だって、何度だって、わたしは。
そのとき、わたしは傷つかない無敵モードになる。こんなのもう慣れていた。彼のつめたい肌が、わたしの肌と触れる。信じられないくらいに、ぞわぞわと、ただ寒い。
無敵モードになれたなら、わたしはきっと松波に優しくできる。強くあれる。つらくて、どうしようもなくて、はけ口にするしかない、そんな彼のことを受け入れることができる。彼のごつごつと骨ばった手が、わたしの手首をつかんだ。びくりと、肩がはねた。
松波は悪くない。悪者のいる物語は苦手だ。わたしは、ぼそりと口の中で小さく唱えた。だって、みんな何かを抱えている。わたしはそのみんなになることはできないから、その苦しみを理解できるはずがない。わたしは、彼を救えない。
「好きだよ、月乃」
彼がわたしの名前を呼ぶ。薬指の付け根が痛い。痛かった。
死ぬほど嫌だったら死ぬほど抗えばいい。泣いて叫べばいい。それなのに、わたしはそれをしない。選択権があるのに、相手に譲る。優しいふりをする。そうすることが何かの打開策になると、祈り、願ってばかりいる。
「あのね、松波。あのね、……今日は晴れてるみたい。散歩したら、きっと気分が晴れるよ」
何度だって言った。何度だって、わかりあいたいと思った。
「ねえ。お花屋さんに行ってみようよ、商店街にきれいなところがあるんだよ。わたし、行ってみたい」
松波と、行ってみたいの。そしたら、今度こそ本当にわたしの秘密を教えてあげる。きっと誰にとってもくだらないけど、わたしがあなたを大切だと思うただ一つのしるしになる。黒いマフラーだって、きっとクリスマスには間に合わせるよ。
「わたしは、ずっと絶対に味方でいるから」
だけど、もう、言葉だって返ってこないのだ。心のどこかではもうわかっていた。わたしは必要とされていない。いらないんだと。かわいいと思われたくて、買っただけのチェックのスカート。ぐちゃぐちゃになって、床に放り出されている。ここは、寒すぎる。あんまりにも、冷たすぎる。
――ねえ、松波。
「俺は、どこにも行きたくない、ここにいられればそれで充分なんだ」
殴っては、抱きしめる。壊しては、撫でる。でも、体温さえわからない。こわい、ただこわい。いや、大丈夫、わたしは無敵だ。彼の味方だ。だからこわくない。こわく、ない、けど。
――ねえ、松波。……頼むから、お願いだから、わたしのこと必要だと言ってよ。
「ねえ、わたしのことすきなんだよね? さっき、そう言ったよね」
ありふれた恋にやられた女みたいに、わたしはありふれたうめきを口にする。動きを止めた松波は歪んだ瞳で、「わからない」と呟く。
「……たぶん男はね、好きじゃなくても何でもできるんだよ」
ジングルベール、ジングルベール、鈴が鳴る。軽快な音楽。テレビのCMが場違いだ。わたしは、押さえつけられたまま部屋を見廻す。記念日に撮った写真。一緒に飲んだお酒の瓶。ねえ、たすけてよ。わたしたちを、たすけてよ。幸せだった日々の象徴は、すっかり黙ってしまって、怯えて、何も言わない。誰も何もわたしたちをたすけてくれない。
「月乃なんて、もういらない」
ある日、松波は困ったように笑って言った。俺が触れただけで、びくびくしてんの。もう無理だよ、俺ら。クリスマスの前日だった。もう、その声はずっと遠くだった。わたしと松波の関係は、三十秒にも満たない電話で終わった。
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