4話 不時着

「月乃」

 あたたかな手が、ゆさゆさと肩を揺らす。目の前で小さな黄色い頭がじっとわたしを見ていた。喉がからからに渇いていた。どれくらい眠っていたんだろう。ごうんごうん、地鳴りのような音で、自分がどこにいるのかやっと理解する。こめかみのあたりを押さえてみる。体調が回復したようには全く思えなかった。

「…………ごめん。寝てた」

「体調はどう?」

「……大丈夫。着いたの?」

 返事がない。シートからゆっくりと身体を起こすと、つぶらな瞳が変わらずにわたしを見つめている。一体どうしたんだろう。出口のドアからまぶしい光がさしこんでいる。

「ほんとに言いにくいんだけどさ」アストロは口を開いた。

「月乃、マップで言ってたところ間違ってない? どう考えても違うところに着いてるんだけど」

「……嘘でしょ。それ本当?」

 自分の顔から血の気が引いていくのがはっきりとわかった。わたしは出口から飛び出した。

「あ、月乃」

 アストロが何か言い切るその前に、わたしは二メートル差を垂直に落下した。背のひくい木に受け止められた後、そのまま地面に這いつくばる。濃い緑の草がいっせいにわあっと揺れた。しきりに蝉が鳴いている。しゃあしゃあしゃあ、圧迫する夏の音が降って来る。

「……最悪」

 わたしは突如自分の頭上に現れた青の空に向かってぼそりと呟いた。クリスマスイブは一体どこにいったんだ。明らかに冬じゃない。

「まぬけ。まだ、はしごつけてなかったのに」

 やれやれ。アストロが上からぼやいている。ピ、とボタンを押す音がしてはしごが登場する。そういや出発するときもはしごでのぼってきたんだっけ。

 ゆっくりと立ち上がって周りを見渡す。ちょうどアストロが降りて来た。

「これ、わたしたちが出発した空き地じゃん」

「そうだね。僕らが出発した場所と同じ。『原点』から三年前の夏といったところかな。ルールに反するからやり直しはできないけれど、問題は?」

「ない。このままでもいいよ」

 やることは変わらない。わたしが歩き出すと、アストロは隣に並ぶ。青い葉がさらさらと風をなでている。熱にしおれた、草の濃い薫り。やることは、変わらない。

 大事なのは、あいつが生きている時間にわたしが存在すること。復讐は可能だ。

「それじゃ、行こうか月乃」

「アストロもついてくるの?」

「松ナントカいうやつの家まではね。きみはなんだか思いつきで行動するふしがある。そういうの、仕事上困るから。途中まで監視させてもらうよ」

 なるほど、そういうことか。

「別に他のことをするつもりはないけど、そういうことなら」

 アストロの姿を考慮するなら、人通りの少ないところを行く必要がある。松波の家は、空地から大学をはさんで正反対の商店街側だ。少し遠回りになるけど、今回は大学裏の狭い路地を歩いたほうが妥当だろう。

「ここからだと、だいたい三十分ぐらいかな」

 アスファルトがぎらぎら光っている。すぐ目の前、ふるびた一戸建てのひさしが、くっきりとした影を落としている。だけど、多分そこに人は住んでいない。空き家がとても多いのだ。大学裏には小さな山が裾をのばしていて、そのきわにはお墓が連なっている。夜は明かりがすくないために、余計に気味悪がる人がいる。おまけに、近くにスーパーもないときたから、こちら側に住む大学生は例年すくない。誰も、活気のない、死を近くに感じるような場所で過ごしたくないからだ。蝉しぐれが降り注いでいる。山の濃緑と空の青さがまぶしい。ごう、と強い風が一陣起こった。

「死んだんでしょう」

 ぽたり。額から落ちた汗が、わたしの手の甲に落ちる。アストロが立ち止まってわたしを見上げていた。わたしはゆっくりと歩き出す。仕方なく、口を開く。

「……死んだよ」

 松波紘平は『原点』から二週間前の十七時過ぎ、交通事故に遭って死んだ。即死だった。

「じゃあ、なぜ復讐を?」

「あいつのことが、どうしても許せないから。……アストロ、わたしはね」

 熊蝉の声が夏空に広がっている。じりじりと、肌を焼くような日ざしの強さに、くらっとする。どくん、どくんと、頭痛が響く。少し遠くの方で、大学生だろうか、楽しそうな声が聞こえる。生唾を飲み込んで、わたしはアストロを見た。

「わたしは、あいつがわたしの手で不幸になるところを見たい。そうじゃないと、報われない」

「……ふうん。歪んでるね」

 小さな草をちぎって、それを眺めている。アストロはさして興味なさそうに言った。

「何とでも言ってよ。わたしは、歪んでてもかまわないから」

 アストロは小さな足で、小石を蹴りつけている。

「でも、理解できないな。彼はもう死んでいる。それが一番の不幸じゃないの。月乃が手を下すまでもなく彼は、本当の意味で、もう再起不能だよ。……それに月乃が彼に何かひどいことをされたとして、そんなこと忘れて生きていったほうが幸せじゃないの。もっと、今そこかしこにある、幸せに目を向けたほうがさ」

「それは幸せ者の理論でしょ」

 そうできたらいいけど、そうできないから苦しい。そんなのは、幸せな人にはわからないことだ。わたしはさっきからとまらない汗をぬぐった。

 いつまでも過去にとらわれずに、今を見て幸せに生きていきましょう。あなたを傷つけた人のことなんか忘れて、それよりもあなたを応援してくれる人を大切に生きていけばよいのです。――そういう正論を言う人たちのことを悪いとは思わない。責めようとも思わない。

「そのとおりだと思うよ。でも、きれいに生きることができないから、苦しいんだよ。そんな幸せ者の理論をどれだけ説かれたって、心に届かない」

 誰もわたしを責めることだって、口出しすることだってできないとも思う。誰がどんなことでつらいと思おうと勝手だ。それがたとえ、他者からすると大したことのないことだとしても。

 アストロはゆっくりうなずいた。

「そうだね。ぼくには関わる義理も権利もないことだ」

「うん」

「でも、それって大切なことなの?」

 覗き込んでくるその瞳は、疑問をぶつけて来た。

「そいつに復讐することがきみの目的だよね。……それって、そんなに大切なこと? それで未来が変わってもいいの? 松ナントカが改心するかもしれないよ? てことは、月乃は今と違う自分になるかもしれないよ。今の自分を殺してしまうことになるかもしれないんだよ。きみには、そんな覚悟が本当にあるの?」

「あるよ。それでも」

 わたしは地面を踏みしめる。

「わたしは、あいつが不幸になるところが見たい。挫折するところが見たい。自分が人にしたことの残酷さを地の果てまで味わって、懺悔して、這いつくばるところが見たい」

 アストロは吹き出した。わたしは驚いた。

「……何? わたし、変なこと言った?」

「ばかみたい。そんなの時間の無駄だよ。そんなばかなことは、さっさとやめることをおすすめする」

 くすくすと笑っている。場違いだ。わたしは本気なのに。むっとして言い返そうとすると、彼が「はいはい、もういいです」と言った。

「ねえ、もしかして、ぼくの見た目のこと考えて遠回りしてる? それだったら、今からでも近い道で行こう。ぼくは透明になれるから。ほら」

 言い終わると、アストロの姿が消えた。「ちゃんと見えなくなってるでしょ」声だけしっかり聞こえる。

「そんな能力持ってたの」

「うん。むしろ基本はこっちの姿でいるよ。関係ない人に姿が見つかるとやっぱり大ごとになるじゃない? 未確認生命体発見って。きみは、感覚が鈍いのか驚かなかったけど」

「なるほど。だから服も着ず裸でいるわけね。恥ずかしくないのかなって思ってた」

「何言ってるのさ」

 アストロは姿を消したままこちらに冷えた声をよこす。でも、それなら手間が省ける。わたしはコースを変えることにした。

「じゃあ、商店街の中をそのまま通っても大丈夫ってことだよね」

「うん」

 当然彼の姿は見えない。ついてきているか不安になって何度か確認したら、うんざりした声で「きみじゃないから大丈夫だよ」と言われた。余計なお世話だ。けれど、正直わたしは少し安心していた。出発前に薬を飲んできたにも関わらず、全く体調が良くならない。その上、炎天下の中ニットのワンピースを着て歩くなど、あいつの家まで体力がもつ気がしなかった。

 入り組んだ路地を進んで、見通しの良い大通りに出る。思った通り、ここまでくると、多少人が増えるみたいだった。講義終わりの大学生らしき若い男女が歩いている。今日の小テストの結果がどうだとか、隣の席の子がかわいかっただとか……。ということは今日は平日なのだろうか。気になったけど、この人前でアストロに聞くわけにもいかないだろうと思ったので、黙って歩く。

 横断歩道を渡れば、商店街がある。わたしたちはアーチの前に立った。店から溢れ出した冷気と風が一気に押しよせて来る。思わず、立ち止まりそうになる。

「うわ、ここまで冷房効かせると店内寒いんじゃないの。やりすぎ」

 アストロが小さな声で言った。こっちは配慮して話しかけなかったのに。わたしは一応返事のつもりで小さくうなずく。けれど、透明人間になったアストロは、「はあ、環境に悪い……まったく、考えものだよ」とまだぶつぶつ言っている。

 ――うわ。これはこれで、つらいかもしれない。

 アストロの言った通り、冷房が効きすぎているように思えた。波のように、つめたい空気が肌に触れる。服がぐしょぐしょになって心底気持ち悪い。

 さびれた呉服店。その隣、放課後の女子高生がさわいでいるプリクラ機。もう何年もシャッターが降りているままの古本屋。その横を足早に通り過ぎる。頭の芯が、腫れて脈打ってるみたいに、鈍痛を訴える。

「……ずいぶんしんどそうだけど」

 確かに、身体がだるくてたまらない。けれど、それがどうした。わたしはあいつをぶん殴るために、ここまで来たんだから。わたしはそっと無敵ボタンを押した。

「……大丈夫です」

 静かにしろ、という意味も込めて言った。アストロは話しかけてきすぎだ。透明人間になっている自覚があるんだろうか。

 歩くごとに、視界の左右でなつかしい景色が流れていく。白いワンピースを買った古着屋。人の賑わうスーパー。寒い。なんだか、寒すぎないか。唾をのみこむ。「あのー、月乃?」アストロがまた話しかけて来るけど、無視した。くすんだ緑に髪を染めた大学生、地べたに座り込んで弾き語りをする青年。まばらに並ぶ居酒屋。しろい木造の花屋が見えて、立ち止まる。全部全部、地雷だ。あいつとの思い出ばっかり並んで。だらだらと汗が流れる。気持ち悪い。奥歯を強く噛む。大丈夫、わたしは無敵だ。武装までしてきたんだから。出口のアーチが見えて、しろく眩しい空が飛び込んでくる。

 車が行き交う大通りに出た。その向こう側にアパートが密集している。案外誰も外を歩いている人がいなさそうだ。横断歩道を渡って、しばらくそのまま真っすぐ歩けば、松波の家だ。蝉の声はうすらいだけど、太陽の熱がひたすらに痛かった。風を切る車の音がずっと響いている。松波が事故に遭ったのも、ここから少ししたところの交差点だ。たぶん、駅に行こうとしたのだろう。

 目の前に公園が現われた。そうだ、この公園の少し先に、あいつの家がある。暑さと寒さで肌がぞわぞわと粟だっていた。

「あのさ。先に言っとくけど」

 アストロの声がする。

「こんなところで倒れられると、ほんとめんどくさいから。さっさと用事終わらしてきてよ」

「言われなくてもわかってますよ。……ほら」

 わたしは立ち止まって指をさす。脳の輪郭がぼやけているように、考えがまとまらない。

「着いた。あれがあいつの住んでいるところだよ」

 赤い屋根のアパートの二階。ベランダには、はたはたと洗濯物が揺れている。それに呼応するみたいに、視界がぐらぐら揺れている。建物が不気味に痙攣している。変だと思った。どんどんつめたい汗が背中をつたっていく。喉がからからだ。公園の木々がぐにゃりと曲がって、それから、遊具の大きなタコが、赤黒い心臓のように、どくんどくん、ぬめぬめ光っている。「月乃?」アストロの声が遠い。瞬間、青空が斜めに飛んだ。

 夏が、どろどろにとけてゆく。

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