3話 松波②――回想

 一年記念日を祝って、家でお酒を飲んでいる時。久しぶりにかかってきたその電話の通知を、松波はぼんやりと見ていた。「出なくていいの?」なんて言えたためしは一度だって無かった。松波は、何もなかったように明るい声で、

「そろそろケーキ食べる?」

 と言った。二人で食器を洗い終えた後、外の景色が紺色に染まりつつあることに気づいてカーテンを閉める。「もうすぐ就活だな」「めんどくさいね」「学生生活って、ほんとにあっという間だな」「そういえば夏海は、院に進むらしいよ」そんな、少し先の話をだらだらとした。いつの間にかニュースは終わっていて、テレビの向こうで芸人が踊っている。ほぼ裸だ。その声がけたたましい。ふいに松波がわたしのほうを見た。

「――あ。そういえば、俺、月乃に言いたいことがある」

「何?」

 わたしはリモコンをとって、音量を小さくする。思い出したような言い方をしているけど、きっとずっと考えていたんだろう。松波はそういう人だ。

「これは誰にも言った事がなくて、でも月乃にはちゃんと言いたいと思ったから」

「うん」

 きっと、今日一日を楽しく終わらせて、それから伝えようと思っていたんだろうなと思った。おそらくは、携帯電話の着信のことだろう。わたしと過ごすこの一年で、頻繁に誰かから電話がかかってきていることはもちろん知っていた。だから、心構えはできているはずだった。

 松波はゆっくりと言った。

「俺、大学一年のとき、死のうとしたことがある」

 言葉はそのまま、わたしの耳に届いた。彼はとりつくろうように、また口を開いた。

「だから、そういう人間、――人種だってこと、知ってほしくて」

「そういう人種って」

「そういう家庭環境で過ごしてきた人種ってこと。母親が二人。父親も二人いる」

 松波は困ったように笑った。そんな表情をすることを、初めて知った。わたしは声を出せなかった。松波は続ける。俺もよくわかってないんだけど。義理の父母合わせたらそうなるんだけど、今戸籍上どうなってるかは怖くて調べていない。連絡をとってるのは実の父親だけなんだよ。

「で、その父親がアル中でさ。金遣いが荒いの。暴力ふるうの。いくら痣ができても、血がにじんでも、気が収まるまで、ずっと止まらないんだ。俺、逃げて来たんだよ。大学は奨学金でなんとか行けたんだけど、『お前、アルバイトしてるんだろ。奨学金だってあるんだろ。ちょっとは親孝行しろよ』って何回も何回も電話かけてきてさあ。あっちで怒鳴ってるわけ。そうなるとさ、もう駄目なんだよ俺。実際に目の前にいるわけじゃないのにさ、もう吐き気が止まらない。頭痛が止まらない」

 彼は窓の外を見た。冷たい月が蒼然としてうかんでいる。

「夢に出てくるんだ。俺の役に立たないならお前なんていらねえよ、死ねよ、ばかやろう、父さんが俺を殴る、俺は何もできずに殴られる。馬鹿みたいだろ? もう大人なんだ、俺のほうがよっぽど力だってあるはずなんだ。殴り返せばいいんだよ、抵抗すればいいんだよ。だけど、俺はそうできないんだ。親父が、あたりにある文房具や家具でところ構わず俺を殴る。俺は叫んで夜中に起きる。現実にはそのとき誰も俺を責めてない、そうなのに一人で狂ったみたいに大声出して脂汗かいて起きるんだ。たまに叫び続ける自分に気づかないときがある、当然隣人が壁をぶったたく。ばかかなんでここまで逃げて来てまだ、俺はここまで来てまだ人様の迷惑になるのかよって。じゃあもう消えろよ、俺なんか死ねばいい、さっさと死ねばいいって」

 静かな呪文のようにするすると紡がれた言葉は、ふいにとぎれた。

「だから、首吊ろうとしたんだ。それで、結果的には失敗した。俺は、床に落ちたカーテンをぐちゃぐちゃにして引き裂いて、泣きながら自分で頭を殴った。……気が狂ったみたいだよな」

 そう言う松波の横顔は白かった。

 わたしは、何か言わなくちゃいけないのに、何か言いたいのに、口を開いては閉じ、そしてまた開いて――。す、と彼がこちらを向いた。

「ごめんな。話しすぎた。何か意図があって伝えたわけじゃないんだよ。ただ、誰にも言ってないことを、月乃には言いたくなっただけ。実際、しばらく何も起こってないし、月乃といれば夢は見ないし。だから、最近は気にならない」

 彼はまた笑った。気にしてないなんて嘘だ。手が震えている。煙草の香りが優しく脳裏をかすめていく。松波、松波。あなたはそんなときに笑わなくていいんだよ。わたしは、思わず身を乗り出した。

「わたし、わたしは何をすればいい?」

 松波の瞳がゆらいだのがわかった。はっきりと困っていた。ばかか。わたしにできることなんて何一つない。なんて傲慢で、ひどくて、最低なことを。

「ごめん」

「月乃」

 喉が熱かった。あわてて下を向いたけど、遅かった。本当に最低だ。なんでわたしが先に泣いてるんだ。お前なんか、松波の気持ちの一部だってわからないくせに。何一つわかってないくせに。

「ごめん」

 無力だ。何もできない。彼の気持ちを本当の意味でわかってあげることができない。わたしは。松波の役に立ちたい。頼ってほしい。松波が頼れるくらいに、強く優しいわたしになりたい。彼がくれた一つの秘密に報いたい。

「何も」

 ふいに、大きな骨ばった手が、わたしの手をつつんだ。わたしは顔を上げた。松波の顔はこわいくらいに真っ白だったけど、表情はやわらかかった。

「月乃はなーんにもしなくていい。月乃がいてくれてよかった。……そうだ」

 松波の微笑んだ。その瞳から、ぽろりと滴がこぼれ落ちた。 

「俺、月乃にお礼が言いたくて、このことを言いたかったんだよ。気づかなかったけど、きっとそうだ」

「松波」

「あの日、月乃と空き地で出会えてよかった。俺は、あの場所で、月乃に救われてたんだ」

 彼は、おいで、と小さく言った。わたしは、細くて冷たい体にだきついた。神様、お願い。松波を助けてよ。ぎゅう、と力を入れると、またかすかに煙草の匂いがした。低くて優しい声が、耳元で泣いている。彼はそっと、涙にぬれたくちびるをおしあてた。

「好きだよ。俺も月乃が好き。月乃がいてくれてよかった」

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