2話 松波①――回想

 しゅうしゅうと、暗闇の中で弧を描く光。かすれた声。ぬるい空気。ぱちぱちと、火花を散らす線香花火。自分がどこで何をしているのか分からなくなりそうな暗闇の中で、わたしの居場所を指し示すただひとすじの光みたいに、差し出された腕。

 わたしは、あの日の風景を鮮やかに思い出しながら、公園の横を通り、アパートの階段を上っていく。アルバイトが早めに終わってよかった。今日は一秒だって早く彼に会いたいかった。八月の夕暮れに追われるようにしてドアを開ける。

「ただいま」

 そんなことを、他人の家で言う日が来るなんて思っていなかった。

「おかえり。早かったな」

 とん、とん、とん。彼が、包丁を規則正しく動かすたびに、灰色のVネックの半そでが揺れている。わたしはその横顔を見た。真っ黒の、少し長い前髪から、鋭い一重がのぞいている。松波は、すっとこっちを見て、

「何だよ」

 と笑った。わたしは、どきりとする。その優しい瞳が好きだった。あのね、松波。

「一年、おめでとう」

 わたしが言うよりも先に、彼が言った。ふわり、かすかに煙草の匂いがした。彼の髪の毛が、わたしの頬に柔らかく触れた。しゅうしゅうと、ぱちぱちと、あの日の花火を思い出す。

「……うん。おめでとう。わたし、こんなに続くなんて思ってなかったよ」


 最初は松波なんて、好きじゃないはずだった。松波は、大学のバンドサークルの同期だ。東北のそれもかなり北のほうから、わざわざ中部にあるI大学に来た彼のことを、みんな不思議がった。わたしが訊くと、

「学力が足りなかったんだよ。……俺そんなことより、あの三角関係のほうが気になるわ」

「ああ、夏海の? まあ確かに最近ほんと……。ちょっと待って、今、話そらしたでしょ」

 青い空の下、大したことなさそうに「俺アホなんで」と言う。たしかに、そんなに名のある大学ではないけれど、本当にそれだけだろうか。

 松波はボーカルをしていた。歌うときのギラギラした目つきと、同期をまとめあげるときの落ち着き。二年に上がってからは、幹部になって大変だろうに、何でもそつなくこなすのだった。

「何か困ってる事とかないの、わたしもやるよ」

「余裕よ。ありがとな」

 ひらひらと手を振って、たいていのことは全部いつの間にか終わらせている。そのくせ気負った風でもなくて、時々人に頼ってみせるところまで全部含めて、なんだか隙のない人だと思った。

 いろんな人から好かれ、頼られ、でも自分の本心はなぜだか隠している。本当の意味では、関わることがなさそうな人だなと思っていた。だから、そんな彼を好きになるはずがなかった。

 何かが動き出したのは、きっとあの空き地で出会ってしまった時だろう。

 一度、サークルの人間関係でうまくいかなかった時期、そのまま大学裏の空き地に一人で逃げてきたことがあった。大学裏は、住居者の随分減った民家や墓地の立ち並ぶ山際で、あまり学生は来ない。初夏の夕方だった。梅雨の名残かじめじめと人の体温みたいな居心地の悪い空気がまとわりついていて、空き地が濃い草の匂いでたちこめていた。

「あれ。月乃じゃん」

「松波」

 一瞬でげんなりした。人がいないと思ったからここに来たのに、よりによって知り合いに会うとは。彼は、さっきまで誰かと電話をしていたのか、携帯電話を左耳から下ろしながら、草を踏み分けて来る。

「お前、なんでこんなとこにいんの。危ないよ」

 そんなのこっちの台詞だ。なんでこんなところに。松波は同じバンドではなかったけど、幹事だけあって誰ともかなり仲が良い。こんな場所でいることをメンバーに知らされたらたまったもんじゃない。どう口止めしようかと思っていたら、彼はまじまじとわたしを見ながら、断りなしに隣に座る。

「どうせまた夏海がなんかしたんだろ」

「……別に」

 知ったように言ってほしくなかった。意外なことにも松波は「ふうん」と言ったきり黙った。いつ帰るのだろうとしばらく待っていたのだけど、彼は携帯電話をいじったり、足をぶらぶらさせて何にもない真っ暗な空を見上げたりするのだった。いや、帰れよ。

「あのさ、松波。なんかここで人と会う用事あるの?」

「いや? ないけど」

「あ、そう……」

 とにかく一人にしてほしかった。別に親しくもないやつが隣にいたって、妙に気を遣うだけだ。なんだこの泣きたくなるような状況は。気を遣われたくなくてここに来たのに、なんで、ここでも他人のことを考えなくちゃいけないのか。

 そのうち、ほんとに泣けてきた。

「うわ、泣いてる」

「うるさい」

 うるさいうるさい。ほっといてよ、と肩のあたりを殴るふりをしたら、なぜか松波は全部殴られてくれた。そこは避けてほしかった。

「……用事ないなら、さっさと帰ってよ」

 半ばやけになって乱暴に言ったら、松波は携帯電話をいじりながら、「別に俺がどうしようが俺の勝手」と、適当に返事をしてきた。なんだそれ、もう知らないからな、と思ったら、涙が止まらなくなった。

「月乃には、分かんないよ」。そう言った夏海の声が、ずっと耳から離れなかった。バンドメンバーのうち夏海ともう一人の女の子が、先輩をめぐって三角関係になり気まずくなって以来、その雰囲気は、いつの間にかバンド全体にも満ちていた。

「わたし……全部、大事にしたいのに、どうしてうまくいかないんだろう」

 夏海が「やめる」と言ったとき、わたしは全力で止めた。今だって、止めようとしてる。でも、「月乃には分かんないよ」なんて言われてしまったら、もうそれは、そうなのだ。わたしが「もう嫌だ」とか「しんどい」とかひたすら勝手にこぼして、勝手に落ち着くまで、松波はとうとう帰らなかった。

「……そう言えば、なんか電話してたの?」

「ああ、まあちょっと」

 帰り際尋ねると、松波はなんとも曖昧な返事をした。人の心にはずかずか入ってくるのに自分の心は見せないところが、いつもの彼の姿と重なった。「なんだそりゃ」と思いながら、わたしはさっさと家に帰った。次の日、口止めするのを忘れていたことに気付き、サークルに行ってみると、松波は素知らぬ顔を通していた。真っ黒な眼は、まるで普段と変わらない同期の目だった。その次の日も、そのまた次の日も、何もなかったかのように接された。なんなら忘れているというオチまであり得る、と思った。わたしの「なんだそりゃ」は、一か月のうちにみるみるうちに膨らんでいった。そのうち、夏海に「あの時はごめん。ほんとどうかしてた」だなんて謝られたり、「仕切り直ししようぜ!」なんて男子が言ったりして、悩んでいたことが嘘みたいに、普通に話せるようになった。それどころか、メンバーが全員集まって、わたしの誕生日会までしてくれた。一件落着まで、松波とは一言もあのことについて話さなかったし、個人的に会うこともなかった。


 わたしの「なんだそりゃ」は、見事に、八月末のライブの打ち上げで花火の如く打ちあがった。

「松波は、心を開いていない」

 なんかそういうのむかつく。わたしは十杯目のビールをごくりと飲みほして言った。テーブルの中心の方では騒々しくコールが上がっていて、部屋の四隅には徒党を組んだような秘密の話が行われている。

「おいおい。ちょっと飲みすぎ」

「そうやってすぐにはぐらかす。すみませーん、もう一杯お願いしまーす」

 わたしの目はさぞ据わっていたことだろう。店員さんが、ちょっと心配そうに「かしこまりました」と言った。みんなが飲み残したグラスが集められて、大粒の水滴が落ちてはテーブルの上で小さな水たまりを作っている。時間が経つにつれだんだん人が中心や四方に去って行って、気づけばわたしと松波二人になっていた。

 わたしは、真顔でもう一度言った。

「松波はなんでそうやって、壁つくって、仲良くすること拒んでるの」

 酔っ払いの絡みに、松波は吹き出した。

「え、そんなことないと思うけど? だって俺、月乃のこと好きだし」

 瞬間、先輩たちのうるさい奇声とか、女の子の猫なで声とか、全部聞こえなくなった。一呼吸おいて、やっと、

「……はあ?」

 わたしは、思いっきり顔をしかめた。意味がわからない。対する松波は全く意に介さず、涼しい表情だ。

「ていうか、実は月乃も好きでしょう」

 ふいににやりと笑って、わたしの十一杯目をかっさらう。そして、わたしの返事も聞かずにすたすたと先輩のところへ行った。クーラーの音がごうごう鳴っている。

「……はい?」

 その場に取り残されたわたしは唖然として、それからもちろん猛烈に怒った。

 いやいやいや。あの、別に好きじゃないですけど? いかにまぬけなわたしと言えども好きな人くらい選びますけど? 何うぬぼれてんの。――で、帰り道はぶつぶつ一人で文句言いながら帰ったくせに、気にしてないふりをしていたくせに、やっぱりわたしは、空き地にたどり着いてしまった。飲みすぎてちょっと気持ち悪かったし、一休みするためなんだ、と言い聞かせた。午前一時を過ぎた大学裏になんか、わざわざ来る人はいない。今度こそ、一人きりだった。

 と、思ったら、松波がいた。あ、あ、あんたはストーカーか。

 彼は、やれやれという表情でわたしを見た。

「なんか、お前って、素直じゃないけど、めちゃくちゃ素直だよな」

「こ」

 わたしは、びしりと松波を指をさした。彼は「こ?」と首をかしげて、その続きを待っている。できるだけゆっくりと、強い口調で、

「ここはね、わたしの秘密の場所なの。勝手に入ってこないで」

 と言った。

「へえ、なるほど」

 松波は、ごそごそと彼のポケットを探っていたかと思うと、おもむろに煙草を吸い出した。いつ何を言い出すか分からないと思って身構えていたが、そうこうしているうちにぽとりと赤い火が落ちた。え、待って、なに。これじゃ彼が吸い終わるまで待ってたみたいじゃないか。わたしが何か言う前に、松波は、真っ黒な眼でわたしを見た。

「付き合おう」

 彼は、まるで最初から決まってたみたいに、二人の間の自明のことを改めて表すみたいにそう言った。

「……あの、松波、話聞いてた?」

「聞いてたよ」

 だめだ。わたしはその場にへなへなと座り込んだ。なんにも通じてない。ここは、わたしの秘密の場所だ。そんなところにずかずか入って来て、そんなことを言うのは反則だ。

「――「松波は心を開いてない」なんて言ったやつが、秘密だなんて、何言ってるんだよ」

 どきん、とした。見上げると、松波が笑っていて、わたしはすぐに目をそらしてしまった。そのまま首を垂れる。

「まあ、だからって俺と付き合わなきゃいけないわけじゃないけどさ。……あれ、月乃?」

 ベンチの上に置いたバッグを引き寄せようとして、でも少し届かなくて、行き場を失くした腕がだらんと垂れる。草が鈍い月明かりの下で、さわさわと揺れている。

「……月乃? どうした?」

 松波がわたしの顔をのぞきこむ。

「いや、あのですね、ちょっと気持ち悪くて……」 

 松波は、「うわあ」と言った。ものすごく申し訳ない気持ちになった。ほんとムードも何にもないな、わたし。

「俺、そこらへんで飲み物買って来る。あ、いや、月乃も行こう。立てる?」

 ためらいなくわたしの腕に触れた。彼の手はひんやりとしていた。わたしは知っていた。松波は、飲み会でも盛り上げ役にまわるほうだしいい加減な人だって思われそうだけど、酔ってるからって女の子の頬に触ったり、抱きついたりするような男の子じゃないこと。まるで、人に触れることを恐れるように、注意深く避けていることを。

「行こう」

 冷たい肌だ、と思った。

「お前さ、空き地、危ないから一人であんまり行くなよ」

 附属図書館から正門までの道を二人でゆっくり歩いた。土曜日なのに、どの学部棟もぽつぽつと部屋に明かりがついている。視界が揺れて、きらきらと光る。普段と全然雰囲気の違う、静かな大学はどこか知らない場所みたいだった。夜風の中で、蝉の声が時々じいじいじいと聞こえた。自然に繋がれている右手だけが、自分の一部じゃないみたいに、とくんとくんと脈打っている。

「そりゃ月乃にとっては大事な場所なのかもしれないけどさ。月乃が空き地にいると思ったら、俺、迎えに行くしかない感じになるじゃん。別に、何かあったら俺に言えばいい」

 何言ってるんだこいつ。あほらし、と思ったのに、ちょっと泣きそうになった。その言葉は、わたしをそっとひとすじの光で照らし出した。誰かがわたしのことを知っていてくれることが、これほどに背中を強く押すなんて、わたしは知らなかったのだ。

 結局その日は、アパートまで送ってもらい別れた。次の日起きるとお昼をとっくに過ぎていた。わたしは、自分の中にすでに決まっていた答えを見つけて、すぐに電話をした。会って直接、だなんて呑気なことは言えなかった。それがわたしの彼にできるせめてもの誠実だった。電話の先で彼は笑っていた。

 きっと、本当はずっと前から、恋は始まっていたのだ。

 夕方会いに来た松波はなぜかスーパーのレジ袋を腕にぶらさげていて、花火のパッケージがのぞいていた。

 しゅうしゅう。弧を描いて、緑や黄色の光が空き地に降っていく。わたしは、ぱちぱちと火の散る中で、やっと口を開いた。伝えたいことは、たくさんあった。

「昨日、ありがとう。助けてくれてうれしかった」

「いや、ばか。下心だろそこは」

 松波はそう答えて笑った。わたしも、松波はばかだなあ、と思った。そうかもしれないけど、きっとそれだけじゃなかったから、わたしはうれしかったんだよ。

「それにね」

 静かな火花の落ちる中でわたしはぽつりと言った。

「わたしに、触れてくれたのがうれしかった」

 微かな光に照らされて、松波が顔を上げた。ぱちぱち、ぱちぱち。音を立てて光が散ってゆく。ねえ、松波。わたし、どうしたらいいの。伝えたいことがたくさんあって、止まらないよ。

 松波は、いつもみたいに笑ったりしなかった。真っ黒な瞳が、揺らいでいる。瞳の中に、花火がちらちらと浮かんでいる。ぬるい夜風が、二人の間を駆け抜けていく。そうっと手がのびてきて、ぎこちなくわたしの頬に触れた時、きっと、世界で一番、わたしに優しい人はこの人なんだと思った。そして、なんて壊れそうな顔をする人なんだと思った。触れられた頬が、しびれそうで、泣きそうで、わたしはこの人が好きなんだと何回も思った。

 そのうち、空き地には行かなくなった。大切なものを大切にするために作ったその逃げ場所は、心に小さな光を灯す思い出の場所になった。少しずつ、本当のことを、大事な人たちに話すようになった。いろんな言葉や場所がより色鮮やかに、鮮明になった。松波の家の近くにある商店街の中を散歩しては、いろんな話をした。

「俺さ、手編みのマフラーとか彼女からもらってみたかったんだよな」

「へえ、全然らしくないね」

「おい、今絶対ばかにしただろ」

「してないよ」

「……月乃はないの、そういうの」

「うーん、そうだなあ」

 本当はあった。わたしは、いつかのアニメーション映画で見た、お姫様の姿が忘れられなかった。お姫様は、物語の最後のシーンで、最愛の王子から花冠をもらうのだ。いつか、あの白い花で、大切な人と一緒に冠を作りたい。それは、人が聞いたら笑ってしまうような、ちょっとした憧れだった。

「……お前、あるくせに言う気ないだろ」

「えへへ。お見通しだね」

「月乃は分かりやすいからな」

 いつか誰かに騙されそう。そう言われたので、「そうだよ」と彼を見上げた。

「だから、わたしには松波がいないと、きっともう、だめなんだよ」

 真面目な声で言うと、「はいはい」とそっぽを向かれてしまう。あ、照れてる。そんな彼を、とても愛しく思う。

 わたしは、彼についていろんなことを知った。彼は、気の置けない人には、低くてかすれた、静かな声をする人だった。ホラー映画やグロシーンのある映画がだめで、顏には出さないけど意外と怖がりだと言うことを知った。実は彼が煙草を吸うのは、緊張しているしるし、ということに気づいた。多分、本当は傷つきやすい人なんだと知った。不器用で、とびきり優しい人だった。

 わたしたちは、まぎれもなく幸福だった。

 彼は、少しずつ、小さな秘密を教えてくれた。

 けれど、わたしが花冠の憧れを彼に伝えることができなかったように、彼もまた、一つの秘密をしまってあることを、わたしは知っていた。

 一年記念日の、その日も、彼の携帯電話からは着信音が鳴っていた。

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