1話 タイムマシン

 アストロと出会ったのは、ほんの数時間前のことだった。


 入社二年目にして、社会的に終わった。

「……ほんと、最悪」

 とぎれとぎれの蝉の声が、晩夏を思わせる。久しぶりに訪れた空き地は、何一つ変わっていなかった。古びたベンチに腰かけ、紺色のフレアスカートの裾を見つめた。膝丈まで伸びた草がさわさわと揺れている。

「もうやだ……」

 午後何時かも分からない強めの日ざしがぎらぎらと、わたしの頭を照らす。それで、また気分が悪くなった。馬鹿らしくなって、わたしは顔をしかめる。こんなの、自分をいじめているのとさして変わらない。

 会社で体調を崩して、お昼過ぎに退社した。帰宅途中の電車を降り、その足でここに来た。お手洗いの個室で人知れず吐くこと自体はもう日常茶飯事になっていたしけど、人前でうずくまるのも動けなくなるのも初めてだった。

 ――無敵ボタンは、使えなかった。

 結構うまくやっていると思っていたことが、徐々にうまくいかなくなっていき、しまいにはこの様だ。無敵ボタンというのは、わたしが勝手に脳内で作り上げた、無敵になるスイッチを押すボタンのこと。心を殺せば、何も感じなくなれば、仕事くらいどうってことないと思っていたのだ。ため息をついて、肩のあたりで切りそろえた毛先を触った。美容院でも行こうかな。気分を変えないと、もっとうまくいかなくなるような気がした。バッグを引き寄せて、財布を出そうとすると、右手の甲にこつんと冷たいものがあたり、ぎょっとして腕を抜いた。バッグの底に沈めた携帯電話は、死んだようにしんとしている。

 携帯電話の画面を見ることができなくなったのは、二週間前のことだ。それは壊れたのではない。見ることができない、というのはわたしの問題だった。その関係で、元々良くなかった体調が、目に見えて悪化した。

 学生たちの楽しそうな声が聞こえてくる。そういえば大学生の頃は、九月も夏休みだったんだっけ。今何時なんだろう。わたしは膝の上に置いた両手を結んだり開いたりした。もう、帰ろうか。急に立ち上がると、めまいがした。さっさと休んだほうがいいかもしれない。ぐわりと視界が揺れたので、目を閉じて両手をベンチにつく。やっぱり美容院は今度に――

 ふと蝉の声が途絶えた。

 その瞬間、視界がどんよりと暗くなる。ごうん、ごうん、とやけに大きな圧迫するような音が頭上で聞こえる。言いようのない違和感を覚え、顏を上げると、

「え、何……?」

 空は見えなかった。

 見あげた視界のほとんどがうっすらと発光する青に変わっていた。目の前にあるのは、つるりとした無機質な表面。それが、頭上三メートルほど先にあり、わたしの視界を遮っている。

 まるで小さな青い星、それか地球みたい。それは、青い大きな球体だった。見た感じでは直径三メートルほどありそうだ。異常事態というよりは、その美しさに息をのんで見つめていると、ふいに球体の真ん中が四角にくりぬかれ、そこからすぽんとはしごが出てきた。そして、そこから降りて来たのは、

「やあ、はじめまして」

 五歳児みたいな体型をした、二足歩行の妙な生き物だった。

「きみ、雪村月乃であってる? ぼくを呼んだ?」

 つま先から頭まで一様に黄色だ、星の色だ。黄色の野生動物と言えばそうも捉えられるかもしれない。けれど、それにしては頭の形があまりにも星の形をしていた。五角形をけずったみたいなあの形をしているのだ。

 変な生物が目の前にいる。何か変なものを発見してしまった。どうしたらいいのだろう。

 わたしが口をぱくぱくさせていると、その変な星色の生命体は表情を一切変えずに、むっとした声色で喋った。

「あの、聞いてる? きみは雪村月乃?」

「あ、……えっと。はい、そうです」

 タイムマシン、欲しいんでしょう。そいつは言った。そのまん丸な黒目が見つめている。

「ぼくはアストロ。タイムマシンを必要としている、きみに呼び寄せられてここに来た」

「……えっと。わたし、そんなの誰かに頼んだ覚えがないんだけど」

「タイムマシンは、必要としている人の前に現れるんだよ」

 きみ、戻りたい過去か行きたい未来があるんでしょう。

 アストロは、さも当たり前だと言わんばかりにさらりと言った。そして、「こっちも仕事だから、スムーズにしてもらえるとうれしいんだけどな」と呟く。まるで、わたしの事情をそっちのけにして、さっさと話を進ませようとしているようだった。彼は、はがきぐらいの大きさの白いメモ用紙とペンを小さな鞄から取り出した。

「じゃ、手続きのほうだけど――」

「待ってよ。必要ない」

 わたしは、彼の言葉を遮った。それで、アストロはやっと手をとめて、わたしの目を見た。

「どうして、変えたいものがあるって決めつけるの? ……わたし、別に何も今以上にのぞんでることなんてない」

 きっとこいつは、ここ数週間のわたしを監視していたのだろう。何もうまくいかなくなったわたしのことを。確かに、わたしはもう嫌だと言ったかもしれない。でもわたしは、わたしが間違っていると、今の自分が正しくないと、誰かに言われたいわけではなかった。

「失礼。ぼくは、何か癪にさわることを言ったかな? 随分怒っているようだけど」

「別にそんなことないよ」

「ところで少し時間をおたずねしたいのだけれど、きみ、時計もってる?」

「ごめん、もってない」

 というより、お昼の一件であわてているうちにどうやらどこかへ落としてしまったらしい。

「携帯電話は?」

「……あるけど」 

 わたしはバッグの中を探った。できれば見たくなかったけど、頼まれたら仕方ない。ごくりと唾をのみ込み、電源を入れる。ぴかりと白い光が二人を照らす。悲鳴を上げそうになった。嫌だ。嫌だ。

「二〇X八年九月十六日の十八時十六分……ね。どうも、助かったよ」

 汗がひとすじ頬を伝う。『連絡ください』『ねえ、月乃、大丈夫なの?』不特定多数のメッセージが、溢れ出て来る。やめて。もう放っておいて。いや、通知は切ったはずだ。自分の携帯電話を受け取る手が震えていることに気づく。のどがからからに渇いている。

「……じゃあ、わたしそろそろ帰るから」 

 携帯はバッグの中に投げ入れた。はやく、逃げなくては。

「タイムマシンは?」

「いらない」

 彼はわたしをじっと見つめて、白いメモ用紙に何かを書き込み、差し出した。

「分かった。でも、必要になったら、呼んで。……ところできみ、顔色が悪いみたいだけど」

 わたしは受け取れなかった。電源を切るのを忘れていた。わたしの様子をおかしく思ったアストロが、メモ用紙をバッグの中に入れた。

 同時に、携帯がかすかにバッグの中で震えた。

『月乃』

 見なくたって分かるそれはきっと――。

「ごめんなさい、さよなら」

 もう限界だった。ハンカチで口を押え、アストロの声を無視して走り出した。蝉の声がしている。空はこんな赤だったか。暮れたのではなかったか。変な色をしていた。もうやめて、放っておいて。大学からアパートまでの三駅分を、自分がどうやって帰って来たか、まったく覚えていない。

 気がついたら、玄関先でぐにゃりと曲がっていた。気持ち悪い。ふらつく足で立ち上がろうとするも、あっけなく倒れ込んでしまう。壁を支えにもう一度立ち上がると、胃のあたりが変に熱くなって来た。バッグを放り出して、靴も脱がずにそのままどっと倒れる。かすかに汗のにおいがする。

 びかりと板間が白く光った――いや、それは画面の白だった。

「いやぁ……」

 携帯電話が震えている。わたしは、耳をふさいだ。ぎゅっと目を瞑って何も見ない。触れることすら、これ以上近づくことすらできない。鳴り止まない電話の呼び出しと、メッセージ。わたしは震える体で携帯電話に近づく。電源を切ればいいんだ。だいたいの要件はわかっている。わたしが音信不通になったことがその一つ目の原因で、そしてもう一つは。

『松波のこと気に……』

 メッセージは連なっている。友人からだ。松波のこと気にしてるんだよね? でももう二週間前のことだよ、お願いだから一度連絡ちょうだい、短くてもいいから。心配だよ……。

「あぁあああ」

 喋っているのは誰だ、わたしだ、わたしは何を一人で叫んでいるんだ、そう思っているのに、わたしの声は続く。あーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあーあー。

 頭ががんがんと鳴る。世界がぐるぐると回っている。身体が熱くて痛い。

 気になんてするものか。わたしはあいつのことなど、何一つだって、気にしていない。世界で一番憎んでいるやつが不幸になったとして、それがどうした。わたしには関係のないことだ。心の中に存在する無敵ボタンを押す。

 そうじゃない、そうじゃなかった。そもそも、わたしは参ってなんかいない。床に横になったまま左手を見る。わたしはむせながら皮肉に笑った。まだ残ってやがる。めらめらと、ふつふつと、熱い熱い感情が湧き上がってくる。

 わたしの薬指には、黒い傷跡がある。ひび割れたように、確かなほそいくぼみがそこにある。その傷をつけた人は、わたしに幸福と不幸を手渡した。そして、自ら憎悪の対象となりながらも、わたしに復讐の機会さへ作らずにそのまま姿を消した。松波紘平というその人は、もう世界のどこにもいない。わたしはその人を生涯許すことはないだろう。わたしは胃痛と頭痛と吐き気に唸りながら、ぎらぎらした目でそいつのことを思った。

 そのとき、ひらりと、床に何かが落ちた。

「……?」

 それは、白いメモを二つ折りにしたものだった。

 ――必要になったら、呼んで。

 星色の頭が思い浮かぶ。そうだ。タイムマシンを使えばいい。アストロに頼んで、過去の松波に復讐しに行けばいい。折りたたまれた紙を開くと、そこには電話番号のような不思議なものが書いてあった。ごくりと唾をのんで、ひんやりとした携帯電話に触れる。不思議と、画面に対する怯えは消えていて、コールが二回鳴るよりも前に出た。

「……ごめん。やっぱり、タイムマシンを使わせて」

 わたしは、たぶん、どうしようもなく怒っていた。涙は、次から次へと零れ落ちた。

『……了解』

 受話器の向こうのアストロは、訳を訊くこともせずにうなずいた。レバーを引く音が聴こえた。たぶん、タイムマシンに乗っているのだろう。目的時間を手短に伝えると、冬の服装で来た方がいいだろうということになった。

『じゃあ、さっきの空き地で。ゆっくりでいいよ』

 シャワーを浴びてから行きたいという要望も、あっさり受け入れてもらった。できるだけ調子を整えていきたい。鏡台の前に座る。化粧ポーチから下地用の小瓶を取り出す。もう意地だった。夢中になっていると肩のあたりで切りそろえた髪が頬に落ちてくる。わたしは武装していた。メイクが終わるころには、随分季節外れの恰好をした自分が大きな鋭い眼でこちらを睨んでいた。心の中の無敵ボタンを何度も押す。灰色のニットのワンピース。クリーム色のコート。黒いマフラー。まだすこし気分が悪かったが、薬を飲み込んで、立ち上がる。

 電車から降りてすこし歩くと、駅から交差点を挟んだ先には長い商店街がある。講義終わりの大学生が、スーパーのビニル袋をぶらさげて、ゆっくり歩いている。参考書を売り出す本屋と、高校生の動かす自転車。細い路地でくつろいでいる黒猫。店じまいを始めた白い壁の花屋。それらは幸せの象徴のように当たり前にそこにある。

 だけど、これのどれが、いくつが本物なのだろう。あるいは、本当は幸せでも何でもないのに今の状態が自分の幸せだと信じて疑わない奴が、この中に何人いるのだろう。

 空地に着くころには、すっかり空が紺色に染まっていた。ススキがざわりと波打つ。どうして誰にも気づかれないのか疑問なくらいに、タイムマシンは突き抜ける青色をしていた。

「アストロー!」

 わたしが大声を出すと、返事の代わりに球体から突如としてはしごが出現した。よじ登ってこいと言うことらしい。

「遅かったね、月乃」

 タイムマシンの内装は、特撮テレビのヒーローが怪物を倒すときに乗り込むもののように銀色で角張っていた。わたしは、少し笑いそうになった。アストロといい、このタイムマシンといい、なんだか幼稚園児や小学生みたいな世界観だ。エネルギーをたくさん使っているのだろうか、ごうんごうん、と奇妙な地鳴りのような音がずっと響いている。

「なぜ?」

 ふと、アストロは、こちらを向くことなく運転席で操作画面を見つめて言った。わたしは、助手席に乗る。

「きみはあれだけタイムマシンに対して無関心だったじゃないか」

「急に使いたい用件ができたの。復讐がしたいやつがいる。殴って、蹴って、それから罵倒したいやつが」

「……そ。まあぼくは役割が果たせさえすればそれでいいんだけどね。じゃあ、復讐がタイムトリップの目的ってことでいい?」

「うん」

 アストロは、例の白いメモ帳に、何やら書き込んでいる。「一応確認だけど、きみは雪村月乃、七月十七日生まれでいい? 血液型はB型、それから……」と、いろいろ尋ねられた。それから、アストロはわたしを真っすぐに見た。

「殺しちゃだめだよ。直接人の命に関わることに触れるのは禁止されている」

 まあ、そうだろうとは思っていた。わたしが頷くのを確認すると、彼はメモ帳とペンをしまった。そして、あれ、と思った。出会った時には見逃していたある違和感に、わたしは思わず身を乗り出す。アストロの右隣に置いているのは、人間の拳一つ分よりも小さな鞄だ。

「え、そこにしまったの?」

 わたしの顔を見て、めんどくさそうに「そうだよ」と言う。

「タイムマシンは時間と空間を操るんだよ。タイムマシンを信じるくせにどうしてそっちは信じられないのさ」

「あ、そっか……」

 ばかにされたことよりも、なるほど自分がすんなりとタイムマシンの存在を信じ込んだことのほうに衝撃を受けた。

「……大丈夫。別にぼくはきみを騙したりする気はないよ。タイムマシンは本物だから」

「うん。アストロみたいな未確認生命体が目の前にいるからには、そこはもう信じる。……ねえ、このおもちゃみたいな銃は何?」

「護身用。ピカピカ銃っていうの。お願いだから、大人しく乗っててもらえるかな。それで以前いろいろあったから怖いんだよね」

 星色の彼は、カチャカチャと操作ボタンを押したり画面を睨んだり忙しい。「そこにブランケットがある」ちょこんとした小さな手が、入口近くの箱を指した。わたしはお礼を言ってふかい緑のそれにくるまる。

「それで月乃、荷物は? まさかそのまま来たんじゃないよね?」

「何ももってきてない。別に必要ないと思ったから携帯電話も財布も一切ない」

「きみって、思いつきで行動するタイプ?」

「うるさいなあ」

「で、いつのどこへ行けばいいわけ」

「二年前……二〇X六年の十二月二十四日」

「ここでいい?」

 画面から出てきた立体型のデータ。アストロは、その時空地図のある場所を指さした。次に、その地図のなかの赤い光の点を指す。

「ぼくたちがいる現在が二〇X八年九月十六日の十九時五十七分だね。この赤い光のところ。タイムトラベルの後は、ここを出発の『原点』として戻って来るから」

 あとは無言でボタンを押したりレバーを引いたりしていたが、ふとこちらを向いた。

「言い忘れていたことが二点。まず一つ、実はぼくは新入りだから運転が荒い。それからもう一つ、一人の人間がタイムマシンを使えるのは一度だけだよ」

「はいはい、了解しました」

 ごうんごうんという音が次第に大きくなって、なんとなく空気が吸い込まれていくような気持ちになる。タイムマシンの内部を、座ったそのままの体勢でぐるりと見渡す。結構狭いのだ。壁面は灰色だった。そこかしこにカラフルなボタンやレバーがあって、どれがどんな役割を成すのか見当もつかない。

「アストロはさ、どこから来たの」

「近未来からに決まってるじゃないか」

「そりゃそうか。……お給料いくらなの」

「六六六六六三三五五.五五五五二-一一〇〇ピカピカ」

「何だそりゃ」

「近未来人だからね。お給料の概念も違うのさ。時も金だよ。……ああ、そろそろ軌道に乗るよ。しばらくきみの意識を地図にさせてもらうからね」

 わたしは頷いた。ハンドルを握るように言われたので、言う通りにすると、すうっと意識がタイムマシンの動力源に取り込まれるような錯覚があった。すこしめまいのようなものを覚えたので、そのまま目を閉じる。

 すると、急に冷静になってきた。わたしは、今タイムマシンに乗っている。こんなことってあり得るのだろうか。思いついたらそのまま飛び込んでいくところが、自分のよくないところだとは思っていたけど、こんな現実離れしたことになるなんて、誰が考えるだろう。

 瞼の裏を、時空を超えるいくつもの記憶が流れ始めた。記憶の一つ一つが強風にはためき飛んでいく布切れのようだ。

「それにしても」

 アストロのあきれた笑い声が聞こえた。

「どうなったら、そんなに人に対して憎しみを向けられるの?」

 ぼんやりとした意識が、次第に薄れていく。

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