最終話 真夏のピークが去った
俺と先輩は向かい合わせの席に座った。
バイトは二日目で、それはつまりこの奇妙な仕事が、今日でひとまずの終わりを迎えると言うことだった。
やはり先輩とは目を合わせ辛く、彼女もそれは同じと言った様子で、互いの視線が一時絡み合い、しかし交錯はせずに、そのままゆるゆると
俺も先輩も、相手の心の在処を掴むのに腐心しているのだとは思うが、これから働く相手と、こうして妙な空気のまま居るのは、いかんせん座りが悪い。
それに、どのみち俺は自分の想いを彼女に伝えると決めたのだ。
意を決して先輩に声を掛ける。
「バイト終わったら、少し話いいですか」
先輩はゆっくりと俺の方を見た。
「伝えたいことと、謝りたいことが」
「...解った」
再び、しじまが降りた。
電車の揺れよりもずっと耳と心に食い込んでくる、沈黙の音がした。
水族館に着く。
近隣にある沼津港は凪いでいて、気持ちのよい快晴だった。潮の匂いがする。
この港の下に深海が、地球の無意識とも呼べる場所が洞々と広がっているのだ。
石黒さんに挨拶をした。
人の良さそうなこの男性は、今日もやはりにこやかに俺たちを出迎えてくれる。
彼は俺たちの様子を見て怪訝そうにしたが、結局はあくまで普段通りに振る舞うことに決めたらしい。
下手に勘繰られるよりかは、むしろその方が楽だった。
青いバイト制服のシャツに再び袖を遠し、今日は一人でパソコンの画面に向かう。
先輩は石黒さんと一緒に、深海魚の飼育補助に行っている。
今日は俺一人で仕事だ。
『深海オペラ』の編纂である。
昨日のUSBを差し込んで、デスクトップの電源を立ち上げる。
先輩が残した魚たちのデータの輝きの断片に、キーで命を打ち込みながら、ふと思う。
俺は、先輩の助けになりたい。
小笠原兄妹への恩返しの意味もあるし、先輩に好意を抱いていることもある。
しかし、それだけではない。
かつて俺が弁論部の皆に、失わせたものと、その結果失ったもの。
そこからにじみ出た、屈辱と悔恨にまみれた時どき。
本当は最初からわかっている。
「特別な何か」だなんて俺にはないのかも知れないし、あるのかも知れない。
ひょっとしたら誰にもない。
別にもう、そんなものは関係ない。
ひたすらに、望む所へと潜ってゆく。
描くものが大きければ、その世界に深く潜れば、それだけ圧は大きくなって、いずれ抱いた希望は文字通り潰えるかも知れない。
けれど、「何か」が無くても。
俺は愚直に、ただしく深海魚になるんだ。
最後の欠片を、取り戻すために。
ボウエンギョに巡り合うために。
先輩もきっとそうだ。今なら解る。
あの人は強い人。
でもその強さは、けして初めからあった物ではない。彼女がその手につかみ取った物だ。
俺はそんな先輩の「隣」でありたい。
ただしく自分の夢に潜れる人でありたい。
傷ついても、傷つけることなく。
その為ならば。
地球の無意識にだって、飛び込んでみせる。
かたん、と、エンターキーを入れる。
すべての原稿を書き終えた。
高校生の、この夏にしか湧かない熱量を、全て燃やし尽くした気分だった。
ふと時計を見ると、後30分でバイトが終わる時間だったので、俺は背骨を鳴らしながら立ち上がって、部屋を出る。
早めに受付の人に言付けして、原稿が上がったことを石黒さんに伝えて貰った。
小笠原先輩と一緒に、水族館を辞去する。
帰り際に石黒さんに再び挨拶をした。
「お疲れ様でした」「お疲れ様でしまっ」
緊張で噛んでしまう。
「ご苦労様、原稿少し読ませて貰ったよ」
「そう...ですか」
思わず声が上ずる。
しかし、石黒さんはそんな俺の様子を意に関しないように、はっきりと口にした。
「深巳くんは良い後輩を持ったね」
瞬間、喜びが広がる。
礼を言おうとした矢庭に、何故か先輩が
「本当ですかっ」
と聞き返していた。
「嘘を言う理由もないからね。それとも深巳くんは、彼の仕事を信じられない?」
「それはないです」
「ならよかった、君たちは良いコンビだ」
先輩は彼の言葉に何かを気付いたように顔を上げ、そして、
「ええ、テッポウエビとハゼみたいに」
と微笑んだ。
沼津駅のホームで先輩とベンチに腰掛ける。
別れる前に伝えておこうと、口を開いた。
「先輩」
「何かな」
「昨日はすみませんでした」
「いや、こちらも」
「先輩の怒った理由、解ります」
「...そうか」
「先輩たちは多分俺に、もう少し先輩たちのことを心に置いて欲しかったんだと思う」
「そうだ」
「でも俺は、自分の過ちにだけ固執して、先輩たちからの善意を蔑ろにした」
今なら、俺は俺の傲慢さが解るし、ひょっとしたらそれを償うことも出来るかも知れない。自分の中で、確かに自らの殻を破った感触があった。
「あなたは、自分を許せるか」
「いえ」
先輩はまなじりをひそめ、何かをこらえるような表情をしていた。
俺の言葉は本心だった。
俺のしたことは、取り返しはつかない。
「でも」
それでも。
「でも?」
「先輩のおかげで、俺の間違いと向き合っていけそうな気はしています」
一陣の風が吹く。
汐の香りは、もうしない。
「先輩、深海魚の求愛って確か発光器を使ったりもするんですよね」
「...そうだけど、藪から棒に何だ」
「俺も先輩に発光したいです」
「は?」
「ですからっ」
「あっ...あっ! 待ってっ、えっ!?」
回りくどい告白の真意にたどり着いたらしい先輩の耳が、急にタコのように赤くなるのを見て、今さら彼女は色白だったのかも知れないと、愛おしいことに思い当たった。
きっと俺の耳も真っ赤になっている。
どのみちもう告白はしてしまったのだし、もう今更じたばたしてもどうなるものでもない。俺はもはや、ボウエンギョに丸呑みされるか否かの、まな板の上のシーラカンスだ。
先輩が肩口に切った黒髪を弄りながら、ごにょごにょと言葉を紡ぎ始めるまでの間に、乗るべき電車は通り過ぎてしまった。
俺も先輩も黙って電車を乗り過ごした。
「そっ、相馬くん」
「はい」
「私は、面倒くさいぞ」
「知ってますし、そう言う所も好きです」
「ひょっとしたら、私の言ってることが解らなくなる時があるかも知れない」
「先輩が教えて下さいよ」
「...いいのか」
「もう止めたんです、弁論部での一件と先輩たちの善意を混同するのも、特別な何かを探すのも、自分の気持ちから逃げるのも」
「そうか」
先輩は俺から顔を背ける。
覗きこもうかとも思ったが、止めた。
小さく、先輩のしゃくりあげる声が聞こえてきたからだ。
ふと、腕に暖かい感触がある。
先輩の細い左手だった。
少し戸惑って、それからしっかりと右手で握りしめた。ちょうど俺の腕が交差するような形になった。先輩も握り返してくる。
俺達はしばらくそのままでいた。
また一本電車が来て、去った。
「相馬くん」
「はい、小笠原先輩」
「シーラカンスって、素敵だな」
先輩は振り反って、優しく微笑んだ。
家に帰った後、携帯をいじっていると、先輩からの電話が掛かってきた。
1コールで出る。
「もしもし」
「どうも、今晩は」
「どうも。何か用ですか?」
「あなたと話したい、と言うのが用かな」
「はぁ」
「近々、あなたの住んでる所で花火があると聞いたのだけど」
「蓮華寺のやつですか」
「そうだ」
「先輩、一緒に行きます?」
「私もそれを言おうと思ってたのだが」
「面目ないです」
「それじゃあ、詳細は追って連絡します」
「解った、後、最後に一つ」
「何です?」
「大好きだよ、相馬くん」
電話を机に置いて、夜空を見上げる。
俺はこれまでのことを思った。
先輩とのこれからのことを思った。
心の奥底で、ボウエンギョとシーラカンスが響かせた福音が聞こえてくる気がした。
深海オペラ:prototype カムリ @KOUKING
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