第10話 地球の無意識にだって

二階に上がり、部屋の戸をノックする。

ややあって、眠そうな返事が聞こえた。


「誰?」

「相馬くんのことで話がある」

「深巳? ...解った、入れよ」


開いたドアから聞こえた応えに頷き、私は兄の部屋に足を踏み入れる。


困った時は、兄が笑って正解をくれた。

小学校の頃、友達が少なかった私を度々水族館に連れて行ってくれたのは兄だし、そこで芽生えた深海魚への興味を後押ししてくれたのも兄だし、深海同好会に相馬くんを紹介してくれたのも、兄だ。

そうして私はまた、兄に正解を求めている。

私はバイト先での、相馬くんとの悶着を兄に話し、助言を請うた。

相馬くんが未だに悔いていること、私が我慢ならなかったこと。

そして最後の叫びで、私は彼の苦しみをいいようにダシにして、必要のない罪悪感を植え付けただけかも知れないこと。

ふたごの兄は、それでもゆっくりと、包み込むように、私の下手な語りに耳を傾けてくれている。


全てを話終わって、こう漏らされた。


「...こじらせてるなぁ」

「それは、解ってるけど」

「そもそもお前は何で相馬に拘るんだ」


拘っているのはあなただって一緒だろう、と言いたいのをぐっと抑え込む。

兄も相馬くんに対しては複雑な思いを抱いているようで、しかしそれを指摘すると、彼は途端に不機嫌になるのだ。


「お前の深海同好会ところで面倒見て欲しいやつがいるんだ、すげぇ奴なんだが、どうにも部員達と折り合いが合わなくてな」


一年前、兄が切羽詰まった様子で私に告げた一言を思い出す。

あの時の兄の顔は、後にも先にも見たことが無いような、極めてもどかしげな様相を呈していて、私は不審に思ったものだ。

後に私は相馬くんと出逢い、その表情の意味を知ることとなる。

要するに兄は、悔しく、誇らしく、それでいてあまりに優しかったのだ。

主張で自らを打ち負かした後輩が、周りの無言の叱責に打ちひしがれてゆくのが堪えられず、だからと言って彼を立場上大っぴらに彼を許すこともかなわない。

兄は、相馬くんに特別な「何か」を確かに見ていたのだ。兄自身が私にそう言った。

ならば、と妹の部活に放り込んだのはどうかと思うが、いずれにせよ兄は、単純な善意からでなく、自分のプライドも掛けて、半ば強制避難のような形で相馬くんを助けた。

ここまでして何故あの律儀な後輩に拘っているのかと、どの口が訊くのだろうか。


だから私は、そんな諸々を全部呑み込んで、その代わりに

「兄さんと一緒だよ」

と言ってやった。


しかしそれに対する兄の反応は、予想とは幾分異なったものであった。


「...いや、違うだろ」

「どこが?」

「いや、お前相馬のこと好きなんじゃ」

「は? 」

「そうじゃないのか?」


兄の思いもよらぬ言葉に、思考が停止する。

私が相馬くんを好きだと言う。

それはつまり、そういうことだ。


数瞬間をおいて、脳味噌が焼けつくような感覚に襲われた。

一つ取って食べた茹で玉子だったり、寝ている彼の顔だったり、バイトに彼を真っ先に誘おうと思い立ったことだったり、彼に対してあれほどむきになったことだったり。

それら全てが、あの生きた化石への想いへと集束する。


「わたしは、相馬くんのことが、好きだ」


私は頭を抱えたくなった。

何故今まで気付かなかったのか。


いや、違う。

気付かなかったわけではない。

おそらく小笠原深巳自身が、どんな風に彼のことを想っているのか、少なくとも自覚ぐらいはしていたはずだ。

伝えようと思ったこともあるけれど。

相馬くんが自分の気持ちを隠していたから、私も自分の気持ちを名付けるのを止めた。

結局、彼も私も、相手を待つことしか出来ない深海魚だった。



「私は、彼に告白するべきなのだろうか」

「相馬もお前のこと好きだとは思うけどな」

「でもっ」

「大丈夫だ、お前らはお前らでいられるよ」


兄はにやりと笑う。

ああ、そうだ。

私はいつもこの笑顔に支えられて、ここまでやって来たんだ。


「あいつもお前も、似た者同士だからな」






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