第9話 ボイルド・シーラカンス

先輩の叱咤に、俺はしばし呆然としていた。

彼女の悲痛な言葉に自らの心を追い付かせるのには、少なくない時間が必要で。

そして、そこまでしてくれた先輩に対して、俺は未だ何も返せていない。


その日のバイトは結局、先輩との必要な会話をぶつ切りに放っただけで終わった。

他には、帰り際に「また、明日」とだけ。


先輩とは、やはり別々に帰る。

俺たちが考えるべきことはとても多いのに、どこに行けば良いのかなんて解りもしない。


帰りの電車に揺られてふと思った。

行きは先輩と一緒だった。

隣に居て欲しい人が居ないのは、寂しい。

先輩と過ごした一年が、電車の揺れに合わせて浮かんでは消える。


同好会に入ってからは、俺は、先輩の話を一生懸命聞くことを信条とした。

弁論部での出来事から、人の話を聞くことに注力しようと努めていたのもある。

数える程度だが、一緒に出掛けたこともあるし、その都度俺は先輩の機知の深さと、暖かさを知っていった。

ぽつぽつと記憶が浮かび上がってきて、先輩にシーラカンスと揶揄されたのを思い出す。


シーラカンスは生きた化石。

太古に繋がれ、揺れる亡念。

マリンスノーは降り積もり、地球の底で静かに朽ちて、時たま無性に寂しくなる。

ボウエンギョはそんなシーラカンスを見付けて、ばくりと丸呑みにした。


先輩は昔に縛られていると俺を檄した。

そうだ、確かに俺はシーラカンスだ。

先輩は、俺を生きた化石に例えた時から、俺の胸の内を悟っていたのかも知れない。


俺は先輩の助けになりたい。

部長の為でも良い。

それが先輩たちへの恩返しになると信じて、

自らの殻を破らなければならない。


茹で玉子だって、食べる時には殻を剥く。

俺は深海同好会での時間の残りの一割を、おやつの卵を茹でるのに費やしてきた。

だったら、俺にだってできるはずだ。

根拠の無い自信だけど、それをくれたのは紛れもない、愛しいあの人だ。


俺は、先輩に告白しよう。

自己満足で、どうしようもないくらいに身勝手だけど、それでも、今の俺には、それしか思いつかなかったのだ。

先輩との仕事を丁寧に終えて、先輩に伝えたいことを伝えて、俺は今度こそ、自分自身の皮膜を引き裂かなければならない。

気付けば、原稿が入ったUSBメモリを、お守りのように握りしめていた。




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