第8話 地球の底でこんにちは
館内の食堂はひどく混み合っていた。
そう言えば今日は夏休みだったのだ。
私は静かな場所で昼食を食べたかったので、相馬くんにそれを伝えると、彼は笑って
「実は俺もそう思ってたんです」
と言ってくれた。
私たちは控え室の裏口を抜けて、館の外に出た。歩いてすぐの所に沼津港がある。照りつける日差しも、潮風に当たれば丁度良い夏のエッセンスになるだろう。
海が見える所で、一緒に温泉卵を食べよう。
日射しできらきらと泡立つ深い海を眺めて、信頼できる後輩と、とりとめのない話が出来れば、それはきっと素敵なことだから。
波止場にあったベンチに腰掛けた。
じくじくとした夏を一身に感じる。
相馬くんから温泉卵と紙容器を受け取って、手の平大の卵を割る。
卵殻がぱきり、と小気味良い音を立てる。
ぷるぷるの白身を纏った卵黄が、器の中にちゅるんと滑り込んだ。
暑気払いには丁度良さそうだった。
「先輩、前に俺のことシーラカンスみたいだって言いましたよね」
明太子のおにぎりを頬張って、相馬くんが訊ねた。ちなみに私は鮭を食べている。
「確かに言った」
「だったら先輩はボウエンギョです」
「なぜ私がヒメ目ボウエンギョ科に例えられねばならんのだ、いや、深海魚扱いされるのらやぶさかではないけれども」
「俺は、先輩に見つけて貰った」
私は訝しんだ。
だが、ややあって、それが私に対する言葉足らずの比喩だと言うことに思い当たる。
ボウエンギョは、暗い海の底で、食物を逃がさぬ為に目を著しく発達させた。
そうして他の魚が泳いでくると、顎をばくりと開いて、文字通り「丸呑み」にする。
相馬くんは続けた。
「先輩たちが俺を助けてくれて、先輩と一緒に同好会で過ごして、本当に楽しかった。あのまま弁論部に居たらきっと俺は、沈んで沈んで戻れなくなっていたかも知れない」
彼の声は訥々としていて、その目はずん、と暗かった。重みのある暗さだった。
彼の心の一欠片は、きっと今でもあの弁論部に取り残されて、ふらふらとさ迷っている。
私は、兄に頼まれたことだからとうそぶくのがやっとで、多分その声は震えていた。
「解ってるんです、俺が悪いってことは」
彼は自嘲気味に一人ごちた。
「俺の未熟で、少なくない誰かの青春を削り取った。部長は今年はもう受験だから、あれが最後のチャンスだった」
昏い心情の吐露に息が詰まる。
気づけばぎりぎりと歯を食い縛っていた。
楽しい時間だった、はずだ。
「それは俺の紛れもない傷として、心に縫い止めておかなくちゃならないし、なかったことにしてはいけない。俺は弁論部の皆を」
それは、治りかけのかさぶたを何度も何度も引き千切って、そこから溢れ出た血を集めて煮詰めるような、自虐と残酷。
けれどそこには、陶酔の色は含まれない。
ただただ自らの傷と向き合う、そんな覚悟が私の胸を衝いた。
そして、その的外れさに、余計に腹が立つ。
「もう、いいから」
私は話すのが上手くない。
けれども、今この時だけは、沈んでゆくシーラカンスを丸呑みにしなければならない。
相馬くんを繋ぎ止めなければならない。
「兄は、あなたを許すと言ったんだ」
「ありがたいことですけど、俺が傷付けたのは部長だけじゃない」
「だからと言って、兄のことを無視して良い理由にはならない」
「うっ」
「それは、兄の許しを無視することにも繋がるかも知れない」
「俺はそんなつもりじゃ」
「解っているっ」
瞬間、沈黙が降りた。
私はやりきれなくなって温泉卵を啜る。
卵は陽に照らされて、もうぬるい。
二人の溜め息が混ざる。
「その、すまない」
「...こちらも悪かったですから」
「ともかく、兄の為にも、少しだけで良いから、自分を許して、好きになってくれ」
「そんなこと言ったって」
相馬くんはうつむいた。
「俺には何も無いのに」
違う。
あなたはからっぽなんかじゃない。
初めて私の話を聞いてくれた。
苦笑いすることも、吐き捨てることも、無理に合わせることもなく。
私を見付けてくれたのは、あなたのほうだ。
この一年で彼と交わした言葉は、確かな心の拠り所で、それが悲しみに転化して。
そうして叫びが転がり出た。
「あなたは私の話を聞いてくれて、それでっ、それじゃあ足りないのかっ!?」
もう私にも解らない。
何を伝えたいのか、何を言って欲しいのか。
「私じゃ、あなたの理由になれないのか」
「...理由」
「あなたが自分を認める理由」
「先輩をそんなことに使うわけには」
「私には、大切なことなんだ」
彼は暫時答えを躊躇っていたようだった。
風が吹く。
ふと腕時計を見ると、昼休みは過ぎている。
そうだ、時計。
昔、相馬くんと一緒に水時計を作った。
私の無知のせいで壊れてしまったけれど、楽しい時間だった。
茹で玉子を作るのには、彼の持って来た砂時計を使った。相馬くんと一緒に、サケビクニンだったり、マリアナ海溝だったり、そんなことを話しながらのおやつは本当に楽しかったのだ。
わたしは、わたしは、わたしは、わたしは!
「帰ろう、もう昼休みも終わる」
行き場を無くした私の声は、やけにがらんどうに、諦めたような響きを伴って、夏の空に溶けていった。
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