夏の終わり、優しい君の嘘。

 それからほぼ毎日、私は同じような時間にプールに行った。私が着いたころにはすでに彼は裸足を水の中に入れていて、私の気配に気づくと「やっほう」とか気の抜けた挨拶をするのだ。それが案外気に入っているので私もやっほう、と返す――真似するな、と怒られるのだけど。なんとなく、ここに来ればいつも君がいるから、これが当たり前のようになってしまう。当たり前というものがどれほど怖いか、私は知っているはずなのに。君を当たり前にしてはいけない、ここにいるのが普通だと思ってしまってはいけない。そう思ったが最後、会えなくなったとき、どうしようもない焦燥感に襲われるのだ。

 なんだってそうだ、当たり前にそばにいる家族も友達も……いついなくなるかなんて、誰にも予想することはできない。誰だってわかっているはずなのだ、心のどこかで。だけど、皆それを知らないふりして生きている。当たり前は当たり前なのだと、そこにあるのが普通なのだと。それが無くなったときのことを考えていない、だからたとえば地震とか、災害にあったときとかにあれほど動揺してしまうのだろう。誰も毎日帰ってきたら家が無くなっているかもしれないなんて考えるはずがない。帰ってきたら家があるし、家族がいるし連絡をとれる誰かがいる。当たり前のように食事をして、柔らかくてあたたかい布団の中で眠るのだ。そのときだって、明日にでも自分は死ぬかもしれないなんて考えるはずがないし、それどころかあと何日で土曜日だ、とかあと何ヶ月で今年が終わる、とかどうでもいいことを考えているに違いない。

 そういうものだと思う、私もそうだ。当たり前に明日が来ると思っているし、目の前にあるものが突然消えるなんて思わない。

「……やっほう」

 だからせめて今だけは、君がここにいるうちは。私を、幸せな世界にいさせて。

 小テストでひどい点数を取ったのだとか、夏休み明けに行われる文化祭の用意で忙しかったとか、他愛のない話をして過ごした。夏休み、と言っても夏期講習やら補充授業やら諸々があるせいでほとんど学校にいるのだけど。そういう、正直どうでもいい私の話を、君は静かに聞いてくれた。優しい瞳で私を見つめて、水のように透明な肌を滑らせて。

「私の話を聞いてて、飽きない? 君の話も聞こうか?」

 私は時折そうやって声をかける。けれど君は無音で首を横に振り、私の話を聞くのが楽しいから、もっと話してくれとせがむのだった。私のこんなどうでもいい話を聞きたがってくれるなんて変わった子だなあ、とか思いながら、私は頷く。そんなに頼んでくるなら、私だって話してあげたい。喜んでもらいたい。いつしかそういう感情が心の中に芽生えてきたようだった。

 君も私もそんなだったから、私は君の話をほとんど聞いたことがない。なんで毎日そう飽きもせずうちのプールへ来るのか、とか。年齢も名前も分からないし、どこに住んでいてどんな環境で育ったのかも――まあ、知るはずがない。一応、他人だし。

 いつまでここに来るのかな、とか考える。高校だし、始業式が9月1日とかいう小学生みたいな日程ではない。はっきり何日だったかまでは覚えていないけど、8月中に学校が始まる。学校が始まればこの子もさすがに来なくなるだろう。うん、学生だし、たぶん。

「いつまで、ここに来るの? ここの始業式は……いつなのか、私もはっきりわかってないけど」

「君が来るなら、ずっと来る」

 君は体育館の屋根のあたりを見上げながら、そう言った。名前も知らない私によくそんなに懐くものだなあ、と不思議に思う。人懐こい性格なのか、人見知りをしない性格なのか――詳しくはわからないけど、つまりそういうことなんだろう。

「うーん、じゃあお盆の前までね。私も、予定があるし」

 お盆の間は母方の祖母の家に泊まりに行くことになっている。祖母の家は県外なので、その間はさすがに来ることはできない。お盆の後は来れるかもしれないけれど、そのころに課題が終わっていなければここに来ている時間はないと思うし、そうなるとこの子と会えるのはあと二週間くらい。もうすぐ、八月だから。

「じゃあ、あと二週間くらい?」

「うん、そんな感じ。君は、学校の宿題とか大丈夫なの?」

 私がそう尋ねると、君はまた水面に視線を落とし足をゆっくり動かしながら小さな声で大丈夫、と呟いた。大丈夫そうには見えなかったけど、あんまり詮索したら不機嫌になりそうだし、やめておこう。私は水に浸かって濡れてしまった制服のスカートを絞りながら、緋色の空を仰いだ。もう八月になる。時が流れるのは早い、一か月ちょっとの夏休みはすぐに終わって、私はまた現実に引き戻される。泳いでいられるのは今のうちなのだ。また時を刻み始めたら、止まらない。もうこの時間を、私は引き止めていられない。

 夢を見ていられるのは、人生のほんの一部だと思う。今、私は自由なのだろうか。自由なのだとしたら、私は何故何もしないのだろう。自由なうちにいろんなことをして、いろんな経験をして、たくさん楽しい思い出を作るべきなのに。だけど、このゆったりとした時間軸の中で君と二人で取り留めのない話をするのも、私にとっては充実した時間なのだ。だから後悔はしないし、私は胸を張って今が楽しいと言える――まあ、こんな幸せな時間がずっと続くなんて、もちろん考えていないけれど。一応これでも、受験生だから。本当はこんなところでぼうっとしていられる時間なんてない、勉強しなきゃいけない。だけど、せめて最後にもう一度夢を見ていたいのだ。これが最後で、いいから。


 今年のお盆は、11日かららしい。本当なら13日なのだけど、山の日があるからか少し早めに始まるようだ。あと二週間だね、といったあの日から二週間近く経って、最後の日になった。私がプールの水に足をつけるのも、君と会うのも、この場所で二人で夕焼けを見るのも、今日が最後。全部、終わる。今日で、さよなら。もう、またねと言えない。

「……おれ、楽しかったよ」

「私も、楽しかった」

 君に出会えてよかった。ドラマとかでしか使われていなさそうな恥ずかしい台詞を口にする。でも、本当に心からそう思っているのだ。ありがとう、と感謝の気持ちを伝えたい。私は、君に出会えて本当に良かった。

「ありがとね」

 俯いたままそう告げると、君はびっくりしたのか私のほうを向いたみたいだった。私は見えなかったけれど、何となくそういう気配を感じた。

「いや、おれの方が迷惑かけたし。その、いっぱい話してくれて、ありがと」

 君の方を向くと、照れているのか少し耳が赤かった。夕焼けに照らされたさらさらした君の髪が風に揺れる。それと一緒になってプールの水も波をつくって、流れていく。それを見ているとまた、優しい気持ちになるのだ。私を認めてくれているみたいな、そんな気がするから。

 うん、とだけ言って、私は黙った。君も黙っていた。ただ静かに水が小さく波をつくっていくのを見つめるだけ。静かだ。もうお盆に近いし夕方だから、部活に来ていた生徒たちも徐々に帰って行っているらしい。沈黙が流れる。きらきら輝く水面が太陽の光を反射した。君の瞳も、同じように夕暮れの光で緋色に染まっていた。

光を放つ綺麗な君を見つめ続けたら、きっと私は焼けてしまうんだ。君に照らされた道も見えなくて、どこか違うところに外れていってしまう。転んだとしても私は、それにさえ気づかないのだろう。君が遠くで光っているから。ただ、それだけを見つめているのだ。夏が終わらなければいいのに、ずっとこのままでいられればいいのに。水に映る君の表情はわからなかった。何を考えているのかも。でも、それでいいような気もした。知ってしまったらきっと、私は二度とこの世界から出られない。何度も繰り返すのだ、同じ夏を。

「また会えるから大丈夫だよ」

 そう言いながら、何が大丈夫なのか分からなかった。君に向けて言っている言葉なのか、自分に向けているのかさえも。また会えるなんて、保証もないくせに。それでも人は嘘をつくんだ。夏の夜空の向こうに、夢を見ているから。だから、夏を終わらせたくない。このまま続けば私はきっと、幸せなのに。

 私が深い深い水の底に沈んだって、引き上げてくれるんでしょう。息ができなくなったとしても君が私を呼んでくれるんでしょう。分かっているから、期待してしまう。だけどもう、そんな期待を捨ててしまいたい。お願いだから、私のことを早く忘れてほしい。きっとまた会えるって私は馬鹿みたいに、子供みたいに思い込んでいるから。本当はずっと分かっていたくせに、終わりは来るって。今日が終われば、この手を離せば、もう二度と君と会うことはないんだって。だからそんな期待、消し去ってしまってほしいのに、なのに私はまだへらへら笑って、大丈夫だよって言うんだ。



「君さ、なんでいつもそんな悲しそうな顔してるの?」

 君は突然そんなことを言い出した。私は、そんなに悲しそうな顔をしているだろうか。自分ではそんなつもり、ないんだけどな。そう呟くと君はまた悲しそうに俯いた。ぱちゃん、と水音がする。君が素足で、プールの水面に触れた音。

「だって、いつも悲しそうな顔してるじゃん」

「……そんなこと、ないよ。私、悲しくないよ」

 夕暮れに霞んで見える月を見上げながら、私は笑った。もうすぐ夏が終わる。分かってる、もうすぐ夏が終わる。悲しくないよ、これでお別れだとしても、それが私たちの運命だったってことだから。それだけだ。いつも悲しそうな顔をしていた? 私は、君と一緒にいる時間が一番楽しかったのに、充実していたのに?

「君だって、笑ってくれなかった」

「君が悲しそうな顔してたからだよ」

「嘘。私は、悲しくなんかない。ずっと前から分かってた、会えなくなる日が来るって!」

 分かってたのに、分かってたのになんで、なんで私はこんなに悲しいんだろう。

「……ほら、悲しいでしょ?」

 だから言ったのに、みたいなニュアンスで君はそう言った。悲しくない、悲しくないもん。私は首を横に振った。これは、水。水だから。

「泣かないでよ」

 泣いてない、水だよ。そう言おうとしたけど言葉が出てこなかった、喉の奥が詰まったみたいで、声が出なかった。違う、違う、こんなつもりじゃなかった。ばいばいって言って、普通な顔して、この一か月にも満たない期間だったけど、楽しかったよって言って、それで終わるつもりだったのに。すぐに忘れるはずだったのに。どうして、こんなに心の奥まで食い込んでくるの。

プールサイドに二人で座って、裸足を水の中に沈めて。最後の日まで君は笑わなかった。君は、ずっと私の前で悲しそうな顔をしていた。だから、さっきまで私が笑って励ましていたのに。最後の最後になって、君は私が悲しそうな顔をしている、なんて言うんだ。哀しそうなのは、君のほうでしょ。ずっと、君の方が悲しそうな顔してた。

「……ごめんね、おれのせいで」

 君はそう言って、困ったような笑顔を浮かべた。そんな笑顔はいらないよ、私は君のそんな顔が見たかったんじゃないよ。私はただ純粋に君に夏を楽しんでほしかっただけなんだから。駄目だな、私。やっぱり、君を笑顔にさせてあげられなかった。ほら、私も、もう笑ってなんかないんだから。

「泣かないでよ」

 君だって、泣きそうじゃん。なんで、私にばっかり泣かないでなんて言うの。だけどやっぱり言葉は出てこなくて、苦しくて。

「大丈夫だよ、また会えるから」

 さっきまでそう言って君を励ましていたのは私なのに、すっかり逆の立場になってしまっている。ああ、駄目だな、私。――――やっぱり、君を笑顔にさせてあげられなかった。きっと楽しませて見せるって、無愛想な顔した君を笑顔にしてあげるって、そう思っていたはずなのに。

 初めて出会った日と同じような空だった。緋色に染まったまだ少し明るい空に紺青の雲。夢を見ているような景色だ。こんな景色、もう二度と見られないんだろうな。少なくとも、私の目に同じ景色が映ることはない。この場所から君と一緒に見上げているから、だから綺麗なのであって。

「もう、こんな景色見られないんだよ……」

「まだ見れるよ」

「無理だよ、だってもう、君には会えないじゃん」

「会えるよ、絶対」

 絶対なんてあるはずないじゃないか、なんでそんな期待させるようなことばっかり言うんだ。この手を離せば、ここで別れてしまえば、名前も知らない君にもう一度逢うことなんて、できやしないのに。

「大丈夫だよ、君のこと、忘れないから」

「忘れてよ、もう。会わなくていいんだよ、会ったら、また」

 私、何を言ってるんだろう。会わなくていいのか、会いたいのか、会いたくないのか、全然頭の中整理できてないし自分でも何を言っているのかよく分かってない。なんなんだ、私は。これじゃただの面倒くさい女に過ぎない。嫌だ、そんなの嫌だ。最後の最後になって君からの印象が“面倒くさいやつ”に変わったらって、そんなの嫌すぎる。さっきまで綺麗だった君の瞳は真っ黒で、まったく緋色じゃなくて、少し不気味に感じるくらいだった。

「……大丈夫だからさ」

「うん」

「また会えるから」

「絶対?」

「絶対。約束しよ」

「うん」

 君と初めて、約束をした。今までは約束なんてしなくても、気づいたらここに二人でいたのに。初めて、私たちは次に会う約束をしている。

「絶対だからね。忘れてたら、怒る」

 夕焼けに染まった瞳が私を見つめた。私は深く頷いて、当たり前でしょ、と笑う。すっかり涙は乾いていた。よかった、ちゃんと笑えてる。このまま別れるならきっと、私はもう泣かないで済む。

「よかった、最後に君が笑ってくれて」

 君はそう言ってプールから上がる。ちゃぷ、と小さな水音。

「また、会うんでしょ?」

「まあそうだけどさ」

 私の言葉に、君はふっと笑った。

「ばいばい!」

 君が私より先に帰るのは、初めてだった。私に笑顔を向けたのも。やっと、君の笑顔を見ることができた。そして最後に分かったのだ。

 瞳が緋色に反射するのも、肌が透けてしまいそうなほど綺麗だったのも、名前を答えなかったのも、君の体が濡れていなかったのも。今さっきプールから出て行った君が、必ず通るはずの道に姿を現さなかったのも。全部、分かったのだ。

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夏の終わり、君と二人。 ゆくらみんゆい @yui_yukuramin

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