夏の終わり、君と二人。

ゆくらみんゆい

夏の始まり、君と出会う。

 今でも、緋色に染まった夕焼け空や、無人の学校のプールなんかを見かけると、あの子のことを思い出す。名前も知らない、たった数週間関わっただけの男の子のことを。何であの子が私の前に現れたのか、今どうしているのか。私は何も知らない、ただ知っているのは、ずっと覚えているのは、私に見せたひとつの笑顔だけだった。


「君さ、なんでいつもそんな悲しそうな顔してるの?」

 君は突然そんなことを言い出した。私は、そんなに悲しそうな顔をしているだろうか。自分ではそんなつもり、ないんだけどな。そう呟くと君はまた悲しそうに俯いた。ぱちゃん、と水音がする。君が素足で、プールの水面に触れた音。

「だって、いつも悲しそうな顔してるじゃん」

「……そんなこと、ないよ。私、悲しくないよ」

 夕暮れに霞んで見える月を見上げながら、私は笑った。もうすぐ夏が終わる。


 自分の失敗を振り返る。たくさんあった、勉強でも友達関係でもいろいろあった。だけどいつでも君は、私を肯定してくれていた。それがうれしくて甘えてしまっていたのだろうか。ごめんね、の声も届かないまま、君と会うことはなくなった。

 あの日、プールサイドに二人で座って、裸足を水の中に沈めて。最後の日まで君は笑わなかった。君は、ずっと私の前で悲しそうな顔をしていた。だから、私が笑って励ましていたのに。最後の最後になって、君は私が悲しそうな顔をしている、なんて言うんだ。悲しそうなのは、君のほうでしょ。

 君は「……ごめんね、おれのせいで」と言って、困ったような笑顔を浮かべた。そんな笑顔、いらない。私は君のそんな顔が見たかったんじゃない。私はただ、純粋に君に夏を楽しんでほしかっただけなんだから。駄目だな、私。やっぱり、君を笑顔にさせてあげられなかった。君と過ごした、一か月にも満たなかった静かな時間は、ずっと私のたからもの。だけど、君からしたらどうなんだろう。私のこと、うっとうしいと思っていたかもしれない。それだったら私のほうこそ、謝らなくちゃいけないね。

 一人で水の底へ沈んでいく私を、引っ張ってくれたのは君なんだ。助けてくれたのは、私の夜に咲いた小さな花は君だった。君がいたから、ひとりぼっちじゃなかった。私は君に、“ごめんね”よりも“ありがとう”を伝えたいよ。まあ、もうそれも叶わないのだけど。

 あたたかい君の手のひらを思い出す。冷たい水に浸かっていた私をあたためてくれた、君の手。やわらかいそれは、いつでも私を包み込んでくれた。だから私も君を守らなくちゃいけないと思ったんだ。だけどやっぱり私は君を笑顔にすることはできなかった。


「……きみ、どこの子? 勝手にプール入っちゃだめだよ」

 放課後、部活帰りの私はプールサイドに座って足を水に入れていた君を見つけた。思えばあのときから君は悲しそうな顔をしていたような気がする。日も暮れてきていて、君は明るい夕空の紺青を仰いだ。

「夕焼け空。綺麗だな、と思って」

 突然そんなことを言い出すものだから、私は肩を竦めて小さくため息をついた。

「いや、関係ないでしょ。ほら、こっちおいで。落っこちちゃうよ」

「大丈夫」

「いやいや、大丈夫じゃないから。そんなとこにいたら先生に怒られちゃうし。きみ、小学生? 中学生?」

 いろいろ尋ねてみるけれど、反応はあまりなかった。私はまたため息をこぼして、フェンスの向こうに座る君に声をかける。

「きみ、プール好きなの?」

「うん、好き」

 やっと、はっきりとした返事をしてくれた。私は少し嬉しくなって、次々と君に質問を投げかけた。水が好き、冷たくて綺麗で、大好き。君のその言葉はきっと本心なのだろうけど、抑揚のない声で言うものだから本当なのか疑ってしまう。プールに溜められた水のように透明な肌をした君は、やっぱり笑っていなかった。無理に好きだと言っているわけじゃない。ただ笑い方を忘れたみたいな、不自然な表情だったということだけが今も印象に残っている。

 決して無表情だったというわけではない。あからさまに不機嫌なのを見せることもしばしばあった。でもどうしても、私は君の笑顔を見ることはできなかった。

 けれど君は、私の話を聞くときにはとても優しい目をする。そのまま少しだけ口角を上げればもうそれは笑顔だ、と言い切れるくらい。こんなに優しい、穏やかな瞳をしているのに……どうしてこの子は、笑ってくれないのだろうか。私に心を開いていないから?

 ――――それなら、心を開いてもらいたい。

馬鹿な私のことだから、きっとそう思ったんだろう。それから、私は毎日意味もなく学校のプールに行って君と喋った。笑ってほしかった、から。

「……また、来たの?」

「うん。だめ?」

 最初の方は特に、君は不機嫌な顔をして私を見ていた。もちろんそうされることは何となく予想していたから、気にしない。君の隣に座って、靴下を脱ぎ捨て君と同じようにプールに足をつける。冷たい水が気持ちよくて、きっと先生に見つかったら怒られるんだろうなあ、と思いながら夕暮れの空を見上げた。君は何も言わずに、俯いていた。

すっかり緋色に染まった空にはほとんど雲はなくて清々しい。時折吹く風が、一つに束ねた私の髪をさらっていく。昼間ならここは水泳部が占領しているのだけど、さすがにこんな時間にもなれば誰もいない。そもそも夏休みだから、こんな時間まで部活なんかしている方が珍しい。なんだか夢を見ているみたいだ……こんなところにぼうっと座っているだけなんて。

しばらくそうしていた。お互い何も言わずゆっくり足を水の中で動かして、それがぱちゃん、と跳ねるのを眺めるだけ。夕焼けが水に反射してオレンジ色に染まっているのが綺麗だな、とか思っていると君が口を開いた。

「水、綺麗でしょ」

 唐突だったから驚いたけど、私はうん、と頷いた。綺麗だと、私もちょうど思ったばかりだったから。プールの下にお宝があるとか、排水溝の向こうには異世界があるとか、小学生のころはそんな話ばかりしていた。もちろんそんなわけないのは分かっていて、でも無邪気な私たちは心のどこか奥の方でそれを信じていた。誰かがお宝を埋めて、私たちが見つけるのを待っているのだと、異世界の住人が私たちの助けを求めているのだと。

 馬鹿らしい話だ、そんなわけがないのに。私は、そんなたいそうな人間ではない。一人では何もできない小さな子どもだ。だけど、あの頃は大人が守ってくれたから。

「おれさ、ここ好きなんだ」

「……だから毎日来てるの?」

「うん、そう。あ、ちゃんと足は洗ってから入れてるから、大丈夫だから」

「別に、そんな心配はしてないけど」

 私は水泳部ではないので、正直どうでもいい。女子のプール授業は終わったし、もうこのプールにお世話になることはない。

ゆらゆらと揺れる水面が、私の顔を映す。ああ、また、この表情。自分の顔が嫌いだから、せめて笑っていようと思うのに。へたくそな笑顔を、私は浮かべていたようだ。もうちょっとちゃんと笑いなよ、ほんとに。自分にそう言い聞かせ、顔を上げる。下や後ろは向かない。前だけ見て生きるって、私はずっと前に決めたのだ。

「君、おれのこと聞かないの?」

 君が突然そう言ったので、私は顔を上げて彼の方を見た。私が名前を聞いたりしないからだろうか。聞いてほしいの? と尋ねると君は首を振るのだけど。

「ううん、聞かないんだって思っただけ」

「だって、聞いてほしくなさそうな顔してるでしょ」

「……ばれた?」

 ちょっぴり悪戯っ子みたいな悪い笑みを浮かべる。そういう顔はできるのか、と妙に納得しながら、私は再び水面に視線を落とした。さっきよりはましな笑顔を取り繕う。私がへらへら笑っていれば、あとは大抵誰かがどうにかしてくれるのだ。私が率先して動く必要はない、分からないという表情をしてごめんね、と薄っぺらい謝罪を加えれば、いいよいいよ、気にしないでという言葉が数秒後には聞こえてくる。だからなるべく私は上手な笑顔の練習をする。それだけで、大体の人生がうまくいくのだから不思議でもある。まあ、みんながみんなうまくいくわけでもないのだろうけど、少なくとも私はそういう、ちょっとラッキーな世界に生まれたのだろう。

「名前、教えてよ」

 君はそう言って私の方を見た。少し考えたあとに「それなら君の名前を教えて」と言った。それを聞いてから、どうせならもっとかっこよく言ってみれば良かったと後悔する。

「それならいいや、おれ名前教えたくないし」

「なに、それ。人に名前教えたくないくせに、私の名前は聞こうとしてたの?」

 分かりやすくため息をつくと、君は若干引いたような表情をして、足を動かしぱちゃぱちゃと水音を立てた。

「あーあ、つまんない。大体さ、名前なんてどうでもいいんだよ。そう思わない?」

 彼も私を真似するみたいにわざとらしく大きなため息をついて、ぼやいた。さっきの、私の名前を尋ねたのと何の関係があるのだろう。名前を聞いたくせに自分の名前は教えたくなくて、挙句の果てに名前なんてどうでもいいとか言って。

 やっぱり、子供の考えていることは分からない。いや、私も大人かと言われればそうじゃないけど。そんなことを考えていると「明日も来るの?」と、君が尋ねてきた。

「君が来るなら」

「じゃあ、考えとく」

 君はそれだけ言うとゆっくり立ち上がった。どうやら、帰るみたいだ。私も鞄からタオルを取り出して軽く足を拭くと、脱ぎ捨てた靴下を履いてプールサイドを離れる。今日も穏やかに時が流れてゆく。いつまでも君との時間が続けばいいのに。だけど、夏が終わればプールは――と、考えて、やめた。別にプールの水が抜かれることはない。何故だったか、確か理由があったと思うけど。底が日に焼けないためだったか、火事になった時に使うための水を溜めておくためだったか……どれも違うような気がするけれど、そんなのどうでもいい。そんなことにはまったく興味はないし、湧かない。そうじゃなくて、水はあるけどきっと藻が浮かんで汚くなるし、そうしたら綺麗な水が大好きな君がここに訪れることはなくなって、私もこの夏が終わればもうここに来ることはなくなる。会えなくなる日が来るのだ、だから夏なんて、ずっと終わらなければいいのに。夏休みなんて終わらなくていいのに。

 小学生のころは逆だった、最初の方はそれこそ楽しむのだけど、八月の最後になるとすることがなくなって暇でたまらなくて、早く学校に行きたい、夏休みなんてさっさと終わってしまえばいいのに、なんて考えていた。あの頃がどれだけ幸せだっただろう、と思いながら私は振り向いた。後ろは向かないと決めていたはずなのに。だけどそこには誰もいなくて、ただ水が揺られているだけだった。

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