いとひるぐして

葉月 弐斗一

いとひるぐして

「こっちこっち!」

 高井たかい修二しゅうじが電車から降りて改札に近づくと、由美浜ゆみはま真奈美まなみはすでに待っていたようだった。切符の回収箱に切符を落とし、改札を通る。その際、使いなれないキャリーバッグが二度ほど改札に引っかかったが、利用客はおろか駅員すらいない田舎の駅では慌てる必要もなかった。

「マナ姉、ずっと待ってたの?」

「まさか。今来たところ」

 真奈美と取り留めもない会話をしながら、駅舎を抜ける。つんと潮の香りが修二の鼻を刺激した。道路の向こう側には海が広がっている。寄せては返す波音が耳に心地よい。水平線の先まで広がる大海原はすでに、夕焼け色に染まっていた。

 スカイブルーの軽自動車に二人で近づきながら、真奈美は口を開く。四台駐車可能な小さな駐車場には、この一台しかない。

「せっかくの夏休みなのにわざわざごめんね。明日からお願いね」

「良いよどうせ予定なんてないし」

 キャリーバッグとともに後部座席に乗り込みながら、修二は答える。由美浜夫妻が営む喫茶店が近々改装するらしい。その手伝いにと、甥である修二が駆り出されたわけだ。

 そう、と呟き真奈美も運転席に乗り込む。しばらくのエンジン音の後、車窓がゆっくりと流れる。修二はぼんやりと窓の外を眺めるが、車高の低い軽自動車では、海はすぐに堤防に隠れて見えなくなった。

「しっかし修ちゃん大きくなったね。何年ぶり?」

「マナ姉の結婚式の時……いや、一人目が産まれた時じゃないかな?」

「じゃあ、六、七年ぶりくらいか。でもあの時は街の方に泊まったからこっち来てないよね」

 懐かしいでしょ、と真奈美は続ける。最後にこの町に来たのは、まだ小学生だった頃だ。大学生になった今では、何が残って、何が変わっていないのかもよく覚えていない。今となっては、知らない町のような気さえしている。ただ、一つだけ確実に覚えていることがある。

 ポケットに入れた宝物を握りしめながら、修二はあの夏の事を思い出していた。


▽  ▲   ▽   ▲


 仰向けになって、丸型蛍光灯の顔をぼんやりと眺めながら、修二は呟いた。

「はあ、退屈だな」

 誰にともなく発せられた言葉は、扇風機の風音にかき消されて聞こえなくなった。嗅ぎなれないイぐさの香りが鼻にくすぐったい。祖父が経営する階下の喫茶店からは――高校野球の実況だろうか――テレビの音声が途切れ途切れに聞こえる。玄関を出れば十歩ほどで砂浜だが、海水浴場を前面に押し出しているわけではないため、専らプライベートビーチの様相を呈している。貸し切り状態になっているが、一緒に遊ぶ相手もいない中では外出する気も起きない。

――母さん大丈夫かなあ。

 修二の母親が救急車で搬送されたのは二日前の事だ。友人宅から帰宅した修二の目に、お腹を抱えてうずくまっている母が飛び込んだ。一命は取り留めたが、しばらくの入院を要することとなった。修二が夏休みだという事に加え、父が出張中ということもあり、修二が母の実家である由美浜家に預けられたのが昨日の事だ。

 突然の事だったため、しばらくの着替えとあと僅かになった宿題だけしか持ってこなかった。日中は祖父が喫茶店にいるため、――祖父や叔母の真奈美は気にしなくていいというが――テレビを見ることもはばかられる。携帯ゲーム機を持ってくればよかったと、修二は後悔していた。

ひまだなあ」

 扇風機の方へと寝返りを打って、再度呟く。簾の下ろされた窓の外から、波音と風鈴の音色が聞こえる。時計の示す時刻は午前十時に迫ろうかというところ。時間の経過がやけに遅い気がする。到着して一日足らずで、この有り様である。明々後日には父が迎えに来るという事だが、それまであと三日もあるのかと思うと修二はうんざりとした。

「修ちゃんいる?」

 退屈を打ち破ったのは間延びした真奈美の声であった。障子を開けて顔を出す。腕だけで上半身を起こして修二は向き合った。

「どうしたの?」

「ちょっとこれから学校行かなくちゃ行けないんだけど、用事があるの忘れててさ。お父さんはお店あるし、申し訳ないんだけど、お遣い頼まれてくれない?」

 両掌を合わせて真奈美は頼む。大学生は夏休みでも学校に行かないといけないのかと、修二はぼんやりと考えていた。

「別にやっても良いけど、俺この辺よくわかんないよ」

 徒歩で行ける範囲でわかるものは精々、公園と個人商店の場所だけである。それより先は、祖父の車で連れて行ってもらう場所しか知らない。

「大丈夫! すぐわかる筈だから! じゃあ、ちょっと待ってて」

 言うが早いか、真奈美はどたどたと階段を駆け下りる。修二も立ち上がって階段を覗く。階下から、祖父と真奈美のやり取りが断片的に聞こえる。なんだろう、と思っていると下りた時と同じようにどたどたと真奈美が駆け上ってきた。手には何か箱のようなものを持っている。

「じゃあ、これお願いね!」


「ここか?」

 しばらくの後、修二は砂浜の端にある洞窟の前に来ていた。サンダルの中に入った砂を、足を振って追い出す。設えられた赤い鳥居を見ながら、修二は真奈美の言葉を心の中で反芻した。

『家を出て砂浜を右にざーっと歩いていくと、洞窟の前に鳥居があるのが見える筈なの。その洞窟をくぐっていくと、奥にちっちゃな御社があるから、それにこれをお供えしてきて。あ、すでに置いてある奴があるから、それの回収も忘れないでね』

 手の中の弁当箱に目を落とす。プラスチック製の透明な蓋から、おにぎりが幾つか見えた。普通お供え物と言えば団子ではないのかと思ったが、風習というか文化の違いなのだろうと割り切ることにした。それにしても、と思う。

「暗いなあ」

 洞窟の中は薄暗く、入り口から奥行きの深さははっきりとしない。光源は特に何も持っていないが、果たして大丈夫なのだろうか。岩壁で複雑に反響しながら吐き出される波音はまるで、ゲームで聞くモンスターの鳴き声のようだ。小学生に頼むような場所だ。危険ではないのだろうとは思う。だが、未知の場所に対して――恐怖とは言わないまでも――躊躇を覚えてしまう。

「……暑い」

 だが、考える時間はそんなに長くはなかった。今夏一番の気温と、海からの照り返しを真っ赤なTシャツが容赦なく吸収していく。背筋を川のように伝う汗が気持ち悪い。洞窟の中はさすがに涼しいだろ、と思った瞬間足は自然と動いていた。

「涼しい」

 洞窟の中はひんやりとしていた。体がさっと冷えるのを実感する。思わず呟いた言葉が、波音に混じって反響した。海水こそ入り込んでなかったが、多くの人が通っているせいだろう、凹凸の少なくなった岩の上をサンダルで慎重に歩いて奥を目指す。三十秒ほどで見えた洞窟の奥は、海とつながった広間のようになっており、波打ち際には入り口と同じような鳥居が設えられていた。鳥居の奥には、――最近設置された物だろう――場違いに新しい階段が設置されており、最上部には、それとは対照的に古めかしい小さな木製の祠のようなものが見える。

「あれか?」

 誰にともなく呟いて、修二は三段ほどの階段に近づく。穏やかな海面ではあったが、波に洗われて床面は濡れていた。滑らないように気を付けながら、階段の二段目から祠を見る。真奈美が言っていた御社というのは恐らくこれだろう。修二がもってきたものと同じような、プラスチック製の弁当箱がすでに置かれていた。

「蓋、開けとくのかな?」

 置いてある弁当箱を見て、修二は呟く。外された蓋が敷物のように弁当箱の下に置かれている。鳥か何かがついばんだのだろうか、中は空だ。真奈美からは持ってきた弁当箱を供えて、置いてある弁当箱を回収するようにしか言われていない。供え方の作法としてどうするのが正しいのか、修二には判断できなかった。

――前の奴と同じようにしとくか。

 視線を落として、持ってきた弁当箱のロックに手をかける。次の瞬間、

「ぎゃあっ!」

 足首を掴まれた感覚を受け、修二は短い悲鳴を上げた。反射的に体をのけぞり、バランスを崩して尻もちをつく。同時に、弁当箱が階段にぶつかって波打ち際へと転げ落ちていく。

「痛ててて――……」

 何なんだよ、と続けく筈だった言葉は、修二の奥深くへと血の気とともに引いていった。

 階段の脇から、青白い右腕が伸びていた。腕は何かを探すように動かして辺りを叩くと、やがてパタリと動きを止める。

――ヤバい。

 脳が警鐘を鳴らす。心臓が早鐘を打ち付ける。一刻も早くこの場から去らなければいけないと思いながらも、金縛りのように体が硬直して動かない。

 そうこうしている間に今度は左腕が海から出てくる。右腕と同じように何かを探しているようだった。

――ヤバい、ヤバい、ヤバい!

 頭の中を、危機感が満ちていく。呼吸は浅く早くなる。だが、指先すら満足に動かすことが出来ない。

 左腕の動きが止まる。一対の腕は指先に力をこめると、海中からゆっくりと上体を持ち上げた。潮水に濡れた髪が、階段の脇から徐々に姿を現す。

――ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!!

 今すぐにでも逃げ出したい。叫びたい。暴れたい。どんな形でもいいから、行動を起こしたかったが、恐怖がそれを抑制する。

 潮水でぴったりと顔面に張り付いた髪の向こうで、そいつは口を開いた。

「……お腹……空い、たぁ」

「………………………………は?」

 ようやく絞り出した言葉は、波の音にかき消された。


「いやぁ、ありがとうねぇ」

 階段に腰かけて、修二が持ってきたおにぎりをぺろりと平らげると、そいつは修二に礼を言った。弁当箱のロックをかけながら、そいつは間延びした声と独特な言葉遣いで名乗る。

「アイシはサンゴ言うんよぉ」

「高井、修二」

 アンタはぁ、と問いかけるそいつ――サンゴから弁当箱を受け取りながら、修二は返す。今更意味があるのか分からないが、形式として御社の前に弁当箱を置いて、同じように階段に腰を下ろす。神様から祟られるような事はないだろうかと、修二は不安になったが、血の気のなかった体が色を取り戻していく様子を見ていると、自分の判断が間違っていないように思える。

 砂浜のような白い肌。年の頃は修二と同じくらいだろうか。顔は年の頃相応にあどけないが、緩やかに巻いた肩甲骨の辺りまで届く黒髪と、ぼんやりとした垂れ目がかわいらしい。胸元には、緑青に透ける石をあしらった首飾りが光っている。肩から前へ流れる横髪は、海藻を巻いただけの体から器用に秘部を隠している。

「これ、着とけ」

「なんでぇ?」

「良いから!」

 裸同然のサンゴが急に恥ずかしくなり、修二は自身の着ていたTシャツを差し出した。サンゴはよくわからないといった風ではあったが、修二が強く言うともたもたと袖を通し始めた。恥ずかしくないというより文化の違いだろうな、と下半身を見ながら修二は思う。

 銀色に輝くきらびやかなうろこ。涼しげに透き通ったひれ。まさしくそれは魚の尾であった。

 人の上半身に付くはずのない、魚の下半身。腰の辺りで徐々に変わっているのか、人の部分と魚の部分の境界線ははっきりしない。果たしてどのような動きをするのだろうか。

 思わずまじまじと見つめていた修二に、サンゴが問いかける。

「しゅぅちゃんはぁ、人魚見るるん、初めてかぁ?」

「やっぱりサンゴは人魚なのか!?」

 思わず身を乗り出して、修二もサンゴに問いかける。勢い余って互いの呼吸が触れる距離になってしまう。慌てて距離を離す修二の様子に、サンゴは楽し気な笑みを浮かべて答えた。

「こんな人間居らんでしょぉ」

 それはそうなんだけど、と呟く修二であったが、俄かには信じられなかった。人魚というのは漫画やゲームの中だけの、空想上の生物ではなかったのか。

 未だ懐疑的な視線を向ける修二の視線に気付いたのか、サンゴは自身の尾を妖艶に撫で上げながら、問いかけた。

「良かったらぁ、アイシのあしぃ、触ってみるるかぁ?」

 とても同年代――かどうかは不明だが――とは思えない蠱惑的な指使いに、修二は思わず固唾を飲んでしまう。そしてそんな自分を恥ずかしく思い、目を反らしてぶっきらぼうに答えた。

「良いよ! 信じるから!」

 顔が熱くなっているのは夏のせいだと思い込むことにして、修二はさらに続ける。

「大体、なんで死にそうになってたんだよ!」

 先ほどまでのサンゴはまるで餓死寸前といった風であった。一体どれだけの期間食べなければあれだけ衰弱するのか、幼い修二には想像もできない。気恥ずかしさを隠すための質問ではあったが、気にはなっていたことだ。対するサンゴは、先ほどまでの余裕が消え失せ、もじもじと気恥ずかしそうに口を開いた。

「実はアイシ、迷子なんなぁ」

「迷子?」

 サンゴの口から発せられた思いがけない単語に、修二は復唱してしまった。迷子で死にかけるのかと思う修二に対し、そうなんよぉ、と返すとサンゴは続けた。

「アイシら普段は、海の底で暮らしるるんけどぉ、ちょぉと回遊さんぽに出たらぁ、あれよあれよと海流にさらわれたんよぉ」

 なぜだか修二にはかつてテレビで見た、砂漠で遭難した冒険者の姿が想起される。海は広大な筈だ。救助の当てはあるのだろうか。それを伝えると、サンゴはなぜだか嬉しそうに答えた。

「心配してくるるんかぁ? でも大丈夫よぉ。ここぉ待ち合わせ場所だかぁ」

 サンゴが言うには、この御社で待っていれば明日にでも迎えが来てくれるらしい。お祭りやデパートにある、迷子預り所のようなものだろうかと修二は何となく理解した。そういう意味であれば、なるほど確かに、遭難というより迷子と言ったサンゴの表現は正しいだろう。

「じゃあ、また迷子にならないように気を付けろよ。俺帰るから」

 納得しつつ、修二は立ち上がった。潮水で濡れたズボンの尻を軽くはたく。別段困っている風でもないようだし、あまり長居する必要もないだろう。御社からすでに置いてあった弁当箱を回収するため体を反転させると、ズボンを軽く引っ張る感触があった。気になって下を向くと、サンゴがズボンの裾を軽くつまんでいた。

「アイシと一緒ぉってぇ?」

 涙を湛えた上目遣いでこちらを見つめるサンゴを見て、修二は生まれて初めて、女ってずるい、と思うのであった。


 気が付けば、空はほのかに茜色に染まりかけていた。

「流石にもう帰るよ」

 岩棚のようになっている波打ち際に腰かけ、修二は言った。互いの家族の話しや、効率の良い泳ぎ方など、時に喋り、時に泳ぎながらサンゴと過ごした。話しては海に入り、泳いでは陸に上がってを繰り返したせいで修二の体力は限界寸前だ。家を出たのは昼前だったが、今は一体何時頃だろうか。昼食を摂っていないこともあり、腹の虫は鳴りっぱなしだ。

「もう、遅いもんねぇ」

 寂しくなるるねぇ、とサンゴは続ける。夕焼けに照らされているためだろうか、上半身だけ海面から出したサンゴの表情は、ひどく物憂げであった。考えてみれば、――サンゴから聞いたことだが――修二と同い年の女の子である。明日になれば迎えが来るとは言え、暗い海辺で一夜を過ごすのに不安を感じない筈がない。海中でゆらゆらと揺れる尾にも力が入っていないように見えた。

 可能であれば家に上げてやりたいところだが、修二自身も居候の身である。人間ではないサンゴを家に上げてもらえるよう頼むのは気が引けたし、何より家に上げる方法も、上げた後にどうするのかも思い浮かばない。修二自身、罪悪感を覚えないわけではないが、サンゴの寂しさを紛らわせてやれそうな方法は思い浮かばない。

「サンゴが人間だったら良かったのになあ」

「しゅぅちゃんがぁ人魚だったぁ良かったになぁ」

 叶わないと思いつつも吐き出した言葉は、サンゴと妙なユニゾンを演じた。思いがけぬサンゴの言葉に、いや無理だろ、と溢す修二に対し、サンゴは、そぉも良いねぇ、と漏らす。

「いやいやいや、人間は人間、人魚は人魚だろ?」

 サンゴの言い方ではまるで、人魚が人間になる方法があるようではないか。それを伝えると、サンゴは嬉しそうに口を開いた。

「そぉよぉ。人魚は人間になるるんよぉ」

「どうやって?」

「内緒ぉ。そぉに今は無理なんしぃ」

「なんだそりゃ」

 修二としては、サンゴが人間ならば家にも招きやすいという事だったのだ。今実行できない方法ならば意味がない。そう思う修二に対しサンゴは、しゅぅちゃん、と呼びかけて、続けた。

「明日も会えぅ?」

「まあ、暇だけど。サンゴは明日帰るんだろ?」

「そぉまでにぃ」

 親に何かをねだる子供の様にサンゴは修二に言う。確かに迎えが来るまでサンゴは一人待たなければならないのだ。それまでどんな気持ちで待つことになるだろうと思うと、修二の答えはすぐに決まった。

「分かったよ。お昼までには来る」

「ありがとうねぇ!」

 見送りくらいしても良いだろうと思う修二に、サンゴは言うが早いかトビウオのようにとびかかってきた。勢い余って岩肌に背中をつく修二に対し、サンゴはシャツの首元から手を突っ込んだ。広がったシャツの隙間から白い柔肌が覗く。

「おまっ! 何をして――」

「こぉあげるるぅ」

 慌てて目をそらす修二に、サンゴは首飾りを差し出した。小さな丸い石を――どうやってかは分からないが――繋げたネックレスで、ペンダントトップには鋭くとがった緑青の石があしらわれている。夕陽を通した石の輝きは、海中から見上げた太陽のようだと修二は思った。

「良いのかよ。それサンゴのお母さんからもらった宝物だろ?」

 泳いでいる時にそのような事を言っていた気がする。今日会ったばかりの自分にそれほど大切なものを差し出しても良いのかと、修二は戸惑ってしまった。一方のサンゴは修二の首に手をまわして首飾りを結ぶと、修二の肩に手を置いた。サンゴの吸い込まれそうな瞳に、修二は心拍数が瞬間的に上がるのを自覚した。体が妙な湿り気を帯びていく修二を見つめ、サンゴは小さくささやく。

「おかさんがねぇ、自分がひるぐした相手にあげろってずっと言ってたんよぉ。アイシはしゅぅちゃんをひるぐしてるからあげるるんよぉ」

「ひるぐす?」

 恐らく人魚の言葉だろう。これまでもサンゴは度々人魚の言葉を――そうとは自覚せず――使っていた。その度に修二は問いかけ、サンゴが言い直していたのだが今回は違った。

「内緒ぉ」

 修二をまっすぐに見据え、サンゴは年不相応の淫靡な笑みを浮かべて答える。夕焼けに染まっているからだろうか。その顔は何だか真っ赤に染まって見えた。

「何だよ、教えろよ!」

「しゅぅちゃんがぁチューしてギューしてくるるんならぁ、教えてあげぇ」

「なっ!」

 思いがけぬサンゴの要求に、修二は言葉を失ってしまう。やけに近いサンゴから思わず顔を背けて、何を言ってるんだ、と叫びたくなった言葉はしかし別の形で出てきた。

「お前がもっと大人になったらな!」

 なぜこんな事を言ったのか、修二自身にも分からなかった。だが、なぜだか否定する言葉は使いたくなかった。

「約束よぉ」

 視界の端からちらりと見えたサンゴの顔には、満開の向日葵ひまわりのような笑顔が咲いていた。


 家に帰る頃にはすでに空が暗くなりかけていた。祖父たちは心配していないだろうかと修二は不安になる。いい加減に持った弁当箱と、ポケットに入れたサンゴの首飾りがやけに重く感じられた。喫茶店の前まで帰ってきたが、扉を押すのがやや躊躇われる。

「ただいま……」

 恐る恐る喫茶店の扉を開けたが、祖父や客の姿は見当たらなかった。明かりは落とされておらず、点いたままのテレビは低気圧の接近を伝えている。まさか自分を探しに出かけていたりはしないだろうかと修二は思ったが、奥の厨房から水仕事の音がした。恐らくは祖父だろう。修二はやや強く声を張った。

祖父じいちゃんただいま」

 修二の声に呼応して、水音が止まる。祖父だと思っていた修二の予想に反して、のれんをくぐって出てきたのは真奈美だった。カウンターに近づきながら真奈美が口を開く。

「修ちゃんおかえり。遅かったねって服どうしたのさ?」

 彼女の問いかけに、修二は言葉を詰まらせる。まさか人魚にやったと馬鹿正直に答えても信じてもらえないだろう。

「泳ぐのに邪魔だったから、脱いだら、流された」

「ああ、そう」

 修二の咄嗟の嘘に対して、真奈美は興味なさげに相槌を打った。そして、まあ良いや、と続けると、真奈美は掌を修二の方へと差し出す。

「弁当箱。一緒に洗っちゃうから貸して」

「ああ、うん。はいこれ」

 真奈美に促され、修二は御社から持ち帰った弁当箱の事を思い出した。謝罪を口にしながら修二は弁当箱を彼女の手に乗せる。

「遅くなってゴメン」

「気にしてなかったから別にいいよ。まあ、さすがに遅いとは思うけど」

 どうやら修二が考えていたより、祖父や真奈美は安穏としていたようだった。言いながら真奈美は弁当箱を受け取る。

「おや?」

 同時に、真奈美は素っ頓狂な声を上げた。やけに軽いね、と呟きながら真奈美は弁当箱の蓋を取る。対する修二も、どう返したものか迷っていた。

「修ちゃん、食べちゃった?」

「そんなわけないだろ」

 食べたのは人魚だよと、続けるわけにもいかず、言い訳めいた言葉で修二は返した。

「海鳥か何かが食べたんじゃないのか?」

「わざわざ蓋を外して?」

 どうやら丁寧に蓋を敷物にしてあったのはサンゴの趣味によるものらしかった。何気ない真奈美の疑問が、修二の心をちくちくと刺す。いっそのこと、お腹を空かせた人にあげたと逝ってしまえば良いのかもしれないと思い、修二はある問いかけをすることにした。

「空だと何かまずいのか?」

 別に何か理由があるわけじゃないんだけどね、と返ってくるものだと修二は考えていた。その時に、サンゴの事を伏せて打ち明ければ良いと考えていたのだが、修二の予想に反して、真奈美は眉をひそめて考え事を始めた。その様子があまりにも真剣だったため、修二は気おされてしまう。わずか数瞬だが、長い時間が流れる。しばらくのち、この辺に伝わる民話なんだけどねと、と口を開くと、真奈美は修二に言い聞かせるようにゆっくりと続けた。

「昔この辺にね、悪い龍の神様がいたの」

 その龍神はたびたび現れては、この辺りの海を荒らして回っていたのだという。その間、人々は恐れおののき、龍神が一日も早く去ることを祈りながら、じっと耐え忍ぶ生活をしていた。しかしある年の事、数か月にも渡って海が荒れたのだという。漁を生業としていた人々は、一人、また一人と命を落としていった。限界を迎えた人々は、村で一番美しい娘を龍神への生贄に捧げ、これにより龍神は機嫌を直し、海は平穏を取り戻したのだという。

「それが弁当箱とどうつながるんだ?」

 真奈美が一息入れたところで、修二は率直な疑問をぶつけてみた。先ほどの彼女の話と、弁当箱が空なのがいけない理由がつながるようには思えない。はやる修二に、まだ続きがあるのと制すと、真奈美はさらに語り始めた。

「その娘さんには婚約者がいてね、今生こんじょうの別れにひどく悲しんだというわ」

 余りにも涙を流す娘を不憫に思った龍神は、娘にある提案をしたのだという。

『我はしばらく旅に出る。行く当てのない旅だが、貴様が我の世話役を務めるというのであれば、いずれ生きてこの地に戻ることもあるだろう。我の目の前で貴様が想い人と口づけを交わしたならば、我は貴様の任を解いてやる』

 龍神の提案を受け入れた娘は、半身を泳ぎやすい魚の姿に変えられ、龍神と旅をしたのだという。そして、このあたりの海域に帰ってきては洞窟の中から男の名を叫び続けたそうだ。

「その人は結局どうなったんだ? 男の人と幸せになったのか?」

「ううん、結局その男は迎えに来なかったの。それどころか、不吉の予兆として忌み嫌われるようになったわ。村の人にとって娘さんは死んだはずの人だからね。ましてや現れるたびに海が荒れるとなれば怖くないわけがないでしょ」

 荒れる海から死んだはずの人が自分の名前を呼び続ける様子を想像して、修二は少し怖くなった。同時に、サンゴが例の娘ではないのかとやや不安になった。

 そんな修二をよそに、真奈美は話を続ける。

「だから村の人は御社を建てたの。お供え物を通して、娘さんが帰って来ていないことを確認する意味でね」

 そこで修二はようやく合点がいった。弁当箱が空になっているという事は、生贄の娘が帰ってきたという事だ。長年ここに住んでいる真奈美が不審がるのも当然というものだろう。

「まあ御伽噺だし、あんまり神経質になる必要もないけどさ」

 明日は海行かないほうが良いかもね、と続ける真奈美の言葉が、ズボンのポケットを重くしたように感じた。

 やや重たい時間が流れる。そんな空気を変えるため、修二は口を開いた。

「マナ姉、ちょっと聞いていい?」

「なに?」

「『ひるぐす』って言葉の意味知ってる?」

 サンゴは内緒だと言っていたが、人魚の言葉だと決まったわけではない。もしかしたら自分が知らないだけで、大人は知っているかもしれないと思い、修二は真奈美に訊ねることにした。と、先ほどまでの表情を一変させ、にやけた笑みを浮かべ修二の方へと向き直った。

「いやぁ、子供だ子供だと思っていたけど、修ちゃんもいつの間にか年頃になってたんだね。叔母さん嬉しいやら悲しいやらで複雑だ」

 カウンターから身を乗り出して修二に乗り出す真奈美の表情には、明らかな好気の表情が満ちている。弁当箱の時とは別の理由で、虎の尾を踏んでしまったようだ。

――訊かない方が良かったかも……。

 心の中で後悔する修二を気にも留めず、真奈美は修二にそっと耳打ちする。

「『ひるぐす』っていうのはこの辺の古い言葉で、――」

 思いがけぬ彼女の言葉に、修二は自分の後悔が正しかったことを理解する。その日眠りに就くまで、少年の心は荒れ続けた。


「本当に荒れ始めた」

 二階の窓から海の様子を眺めながら、修二は誰にともなく呟いた。祖父は老人会の集まりで、真奈美は大学の用事でそれぞれ留守にしている。家の中には修二ただ一人だ。庭でラジオ体操を行った際には静まり返っていた海が、今では窓ガラス越しに波音がハッキリと聞こえる程に荒れている。空には重たい雲が立ち込め、風鈴は絶え間なく音色を奏でている。洞窟の方へと視線を向けると、岩壁にぶつかった波が激しい水しぶきを上げているのが見えた。

「これじゃあ、海行けないな……」

 言いながら修二は仰向けになった。鞄に手を伸ばして、サンゴに貰った首飾りを引き寄せる。蛍光灯の明かりに緑青のペンダントトップを透かすと、波音と相まって海の中に居るような錯覚を覚えた。

 サンゴに悪いとは思うが、この荒れようでは出るのは危険だろう。恐らくもう二度と会うことは無いだろう事を思うと、昨日もっと話しておけば、もっと遊んでおけば良かったと後悔が止まらない。昨夜の真奈美の言葉を思い出して、顔が熱くなるのを自覚する。ほんの一日だけの関係だったが、修二の心の中は病床の母ではなく、サンゴで占められていた。

――ゴメンな……サンゴ。

 荒れる海の中、一人待つサンゴを思い、修二は心の中で謝る。大の字になって、静かに海の声を聴いていると、波音に混ざってそれは聞こえた。

『……ぅ……ん』

「ん?」

 誰かに呼ばれたような気がして、修二は上体を起こして耳を澄ませた。祖父が帰ってきたかと思ったが、扉の音が聞こえない。一体誰だと思案していると、波音に混じって再度声がした。

『……ゅぅ……ゃん』

「祖父ちゃん? マナ姉?」

 先ほどよりやや強く聞こえた気がする。声を張って家人を呼んでみるが、当然返事は無い。そもそも件の声は家の中からというより外から聞こえたように感じられた。窓に張り付いて外の様子を見てみるも、やはり真奈美らの姿は見当たらない。波はさらに強くなっているようだ。

「なんだ……?」

 呟きながら、首を傾げる。空耳か、ともう一度転がりかけた瞬間、それは確かに聞こえた。

『……ゅぅちゃ……』

――サンゴだ……!

 慌てて立ち上がって窓を開けると、波音とともに強い風が室内に押し寄せた。すだれがはためき、蛍光灯の引きひもが激しく踊る。風で開くのが辛い瞼を開き、海面に目を凝らす。白い筋を幾重にも重ねて波打つ海面に向かって、修二は力の限り叫んだ。

「サンゴ――っ!!」

『……ゅぅ……ゃん』

 返ってきたのは、弱々しい、ともすれば風にかき消されてしまいそうな声だ。続けざまに二度、三度と呼びかける。その度、時に強く、時に弱く修二を呼ぶ声が戻ってきた。しかし、風に攪拌された声は、発生源はもとよりその方角さえも曖昧にしてしまっている。何度呼びかけた頃だろうか。不意に風が弱くなった。同時に、砂浜の端、洞窟の方から声が響く。

『しゅぅちゃん』

「!?」

 そこからの修二の行動は早かった。窓も玄関も開けっ放しにして、洞窟に向かって浜辺を駆け出す。時折聞こえる声は、一歩近づくほどにより大きく、悲痛になっていき、焦燥感を加速させた。激しい風に幼い体を揺さぶられ、重い砂が足を捉える。波打ち際は平時よりも近く、時折打ち付ける水飛沫しぶきが容赦なく修二を濡らす。走りなれない浜辺につまづくたびに湿った砂が、手に、足に、口に、まとわりつく。それらを払うこともせず、修二はがむしゃらに走った。

 やがて洞窟が近づく。ぽっかりと開いた入り口は、大きな波が来る度、鯨のように海水を飲み込み、吹き抜ける風となって、叫び声のような高音を吐き出している。一瞬の躊躇の後、修二は洞窟へと足を踏み入れた。増えた海水がサンダルを濡らし、足音と波音が岩壁にぶつかり複雑に反響する。波に合わせて吹く風が、修二の体を揺さぶった。奥に進むにつれ、水位は徐々に上がっている。

「サンゴ――っ!!」

 最奥にある広間に足を踏み入れると、増えた海水は修二のくるぶしよりやや高い所まで来ていた。再度サンゴを呼びかけるも、返答はない。それどころかサンゴの姿すら見当たらなかった。岩壁の隙間からは、荒々しく波打つ海の光景だけが覗いている。そこで修二は気が付いた。

――声が、止んでる……?

 いつの頃からか、修二の耳に声が届かなくなっていた。洞窟に入ってからだろうか。いや、もっと前から聞こえていなかった気がする。

――もう帰っちゃったのか?

「サンゴ――っ!!」

 脳裏によぎった考えを振り払うように、修二は大海原に向かって叫んだ。少しでも遠くへ届けばと、一歩、また一歩と足を進めて、何度も叫ぶ。踝までしかなかった水は、すね、膝、そしてももへと水位を増していく。

――御社より後ろなら大丈夫だろ。

 そう思い、前だけを見てサンゴを呼ぶ。水位はいつの間にか腰のあたりまで来ていた。と、次の一歩を出した瞬間である。

「サンッ――!?」

 引き波に吸い寄せられて、不意に体が前に出た。踏み込むはずだった足がするりと滑り落ちる。視界が一気に海水で滲む。慌ててもがくが、波の勢いが強く思うように水を掴めない。岩棚に戻ろうとするも、予想できない水の動きに、光景が目まぐるしく変化し対応できない。叫び続けた肺が悲鳴を上げる。衣服が帆のように水流を捕らえ、体を激しく揺さぶった。もがけばもがくほど、陸が遠のいていくようだった。空気を求めて海面を目指すが、手足をばたつかせるほど海面が遠のいていく。呼吸が我慢の限界になり、空気を一気に吐き出す。開いた喉に、海水が飛び込むように流入してきた。体の動きが鈍くなり、手足が重たくなっていく。視界がぼやけ、徐々に色を失っていく。思考が少しづつ途切れがちになっていく。薄れゆく光景の中、見覚えのある赤いTシャツが近づいてくるのが見えた。

――俺……死ぬのかな……。

 周囲が徐々に暗くなっていく。柔らかい何かが唇に触れたのを感じながら、修二は意識を手放した。


▽  ▲   ▽   ▲


 そこからの事を修二は覚えていない。気が付けば、由美浜家の布団の上で寝かされていた。真奈美が言うには浜辺で横たわっているところを、帰ってきた祖父が見つけたそうだ。

「あの時はビビったね。お爺ちゃんからは鬼のように電話かかってくるし、原チャとばして家に帰ったら修ちゃんはぐったりしてるし」

 とは真奈美の言葉だ。そんな真奈美は今、修二を家に下ろし、保育園に子ども達を迎えに行っている。二児のうち、上の子は来年には小学校に入学するそうだ。かつてサルのようだと思った赤ん坊が、いつの間にか齢を重ねていた事実に、修二は少し驚愕する。むしろ、久方ぶりに会った祖父の方が変わっていないように見えた。ただ、婿夫婦に喫茶店の経営を譲って、今は悠々自適な生活を送っているとのことだ。かつて真奈美とお菓子を買いに行った個人商店も閉店したらしく、修二の知っている部分も確実に変化していることを知った。

――そりゃあ、俺も年を取るわけだ。

 洞窟の中から夕陽を眺め、修二は物思いにふける。かつて同じように夕陽を見た時には考えもしなかったことだが、来年には就活が迫っている。真奈美たちだけでなく、自分も確実に変わっていることを思い知らされる。ただ、はるか水平線の彼方に沈む太陽の姿だけは変わっていないように見えた。

――いや、まだ変わってない事があるか。

 洞窟に入る前、波の音に混じって空洞音が聞こえた。後に調べて分かったことだが、奇妙な音を出すことで、その筋では有名な洞窟だそうだ。今でも、海が荒れた日には人を呼ぶような音を出している事だろう。変わっていないのはそれだけではない。

 ポケットから緑青の石が輝く首飾りを取り出し、夕陽に透かして見る。ゆらゆらと動く光に修二は、かつてと同じように海の中に居るような錯覚を覚えた。この首飾りの事は未だに誰にも伝えていない。言ってしまえば、あの夏の記憶が夢物語になってしまう気がしたからだ。

――帰るか。

 そう思って、ポケットに首飾りをしまいかけた時、不意に背後から足音がした。ポケットに入るはずだった手を下ろして振り返る修二に、足音の主は言う。

「きれぇな石ねぇ」

「昔、大切な人に貰った宝物なんだ」

 言いながら、修二は声の主を見る。大人の女性。年の頃は修二と同じくらいだろうか。緩やかに巻いた黒髪と、ぼんやりとした垂れ目が懐かしい。

「約束。チューはもぉしてしまったけど、大人になったけぇギューってして」

「あぁ」

 かつてと同じ笑みを浮かべて要求する彼女を、修二は抱き寄せ、耳元でささやいた。

「サンゴ、ひるぐしてるよ」

 アイシもよぉ、と返すサンゴを、修二は力の限り抱きしめるのだった。

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いとひるぐして 葉月 弐斗一 @haduki_2to1

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