第8話 夕日

 ――見渡すばかりの青。


 日差しを反射してキラキラと輝くそれは、間違いなく海だった。



 電車を降りると、もうそろそろ昼になるかな、というぐらいなのに日が反射して眩しい。


 ……生暖かい風が頬を撫でる。視覚的にも、嗅覚的にも、それらはここが”海”であることを主張していた。



「……どう?」

「どうって言われても……何を聞きたいのかしら?」

 ふむ、確かに今の聞き方は抽象的すぎたか。じゃあ――


「――男と二人で来る海は、どう?」

「……死にたいのかしら? 良ければ今すぐ連れて行ってあげるけれど」

「もうこれ以上の面倒は御免だ」

「奇遇ね、私もそうよ」


 そう言うと、彼女は砂浜へと飛び出した。


 お盆前だが、こぢんまりとしたこの浜にはあまり海水浴客の姿が見られず……まあ一言で言ってしまうと寂れていた。


 そんな中、一人はしゃぐ少女。

 

 その美しさはなんとも形容しがたいもので、ただただぼうっと眺めてしまった。

 そのまま眺めていると、急にこっちへと向かってくる。


「ちょっと、肇は泳いだりしないの?」

「ああ、実は――」

「泳げないの?」

「……そうだよ。泳げないんだ。カナヅチなんだよ」

「ぷっ」

「おい、今笑ったろ? 今全国の泳げない人バカにしたろ?」

「そんなことないわよ」

 ……アハハ、と笑う彼女。あーもう、絶対許さない。


「僕にはこのパラソルを立てる、という大仕事があるんだ。だから澄華に構ってやれない」

「逃げるの?」

「恥だが役に立つってどっかで聞いた」

「なわけ無いでしょ。泳ぐわよ」

 ――強引な彼女に、無理やり海に叩きこまれた。一生恨んでやる。


 *


「で、だ。昼なんだが……」

「海で食べる昼食といえば焼きそばでしょ! 一度食べてみたかったのよね……」

「……残念ながらそこまで資金がないので、あまりいろいろ食べることができないのです」

「ねえ、それって私が大食いにでも見えたわけ?」

 なんか目が怖い。


「いや、とりあえず保険としてだな」

「乙女に保険とはいえそんなこと言えるの? ほんっとーに、あなたは女の子の扱いがなってないわね」

「仰るとおりで。彼女いない歴=年齢です」

「ぷっ」

「また笑ったな? 今全世界の彼女いない歴=年齢を敵に回したぞ?」


 ――ともあれ、いつも地雷を踏んでいく僕が買い出しに(決して彼女の使用人ではないが)行かされた。


「ねえ、君一人?」

 ……なんてナンパ男すらいないような寂れた海。

 商売も成り立たないのか、海の家として開いていたところは一つしかなかった。仕方なくそこで焼きそばを二人分購入する。ついでにラムネも。

 じゅう、と焼けたソースの香りが食欲をそそる。


「……遅い」

「これはこれは申し訳ありませんお嬢様」

「地獄に突き落としてもいいかしら」

「そうしたらこの焼きそばは一生食べられないなあ」

「……」

 さっきのやり返しをしたところで、パックと割り箸を彼女に手渡す。


「じゃあ、いただきます」

「……いただきます」


 ぴちん、と割り箸を割り、麺を口に運ぶ。――うん、何の変哲もない、ただの焼きそばだ。


「……おいしい」

「そうか……それはよかった」


 ――ただ、それだけの会話。でも、それはいくらか僕を救ってくれた。


 食べ終わると、日の照り返しも真昼よりはマシになっていた。が、もう二度と泳ぐまいと決めた僕は、ただただパラソルの下でぼうっとしていた。影の下の砂は段々と熱を失い、少しだけだが気持よく感じられた。


「もう、せっかく海に来たっていうのに……」

「そもそも君がいなければ来ることもなかった」

「灰色の青春ね……」

「うるせえほっとけ」

 本当に灰色だよチクショウ。


「――そう思えば、なんで海にしたのか話してなかったわね」

「いいのか?」

 それは……と言いかけてやめる。


「まあ、ここまで連れて来てくれた恩も多少は感じているしね」


 そう言うと、ぽつりぽつりと話し始めた。



 *


「――え? じゃあラムネが好きだったわけじゃないのか?」

「生きていた頃は、そこまで飲みたいものではなかったと思うわ。ただ、死ぬ前に一番強く刻まれていた”海に行く”という想いが、私の存在をここに留めていたから、自然とラムネを飲むようになっただけ」

「同志だと思ってたのに……『ラムネ、好きなの?』なんて聞き方、普通は自分も好きな前提の聞き方でしょ?」

「まあ、その時はそれぐらいしかあなたに話しかける話題がなかったと思ったのかもね」

「……澄華、実はあんまり友達いないタイプでしょ」

「悪かったわね!」

 都合が悪くなると拗ねる彼女も、またいい。


「貝を、拾ってくるわ」

 と言って立ち上がり、ふらりと海へと向かう彼女。

 そんな様子を見ながら、この時間が終わらなければいいのに、と本気で思った。




 でも、時間は止まってなどくれない。何かが始まれば、終わりは必ずやってくる。

 それは、少し特殊な僕たちでも変わらないことだった。


「綺麗ね」


 夕日がもうそろそろ沈みそうになる、という頃。

 僕と彼女は、二人で海を眺めていた。


「ああ。たぶん忘れられないだろうね」

「変なところでロマンチックなのね」

 くすりと笑う彼女。


「――というより、センチメンタルだろうな。この時間が終わってほしくない、と願う自分がどこかにいるんだ」

「それは私も同じ。……ずっと思い描いて、でも絶対に叶わないと思っていた夢が、今日叶ってしまったのだから」

「……それはよかった」

「全部、あなたのおかげ。ここにいるのも、こうやって誰かと話せているのも」

 手が触れた。


「だから――――本当に、ありがとう」



 その言葉に、僕は何も答えられなかった。




 …………日が、沈む。




 ふと横を見ると、もうそこには誰もいない。




 頬をつう、と熱いものが流れる。ぬるい風が、頬を撫でる。



 僕は忘れないよ、とだけ呟くと、彼女の残した、ぬるく気の抜けたラムネを飲み干した。

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ラムネと彼女 ホウボウ @closecombat

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