大人になった、少年少女たちへ……

私も身に覚えがあるのだが、ティーンエイジほど多感に満ちたものはない。人間とは、この時期がもっとも外部からの影響を受けやすく、内部での拡張が激しいものではないだろうか。難しい年ごろを昔から反抗期と言った。今は中二などとも呼ばれる。総じて思春期と称されることは今昔変わらないが、吸収力と燃焼力が強烈に結合する時期で、外部から得られた情報の多くを人生の糧とすることができる。もはや遠い記憶なのだが、当時の私もそうではなかったか、と思う。

熱意ある高校生たちが参戦しているカクヨム甲子園。投稿されている作品群に目を通すと、意外と未成熟さをウリにしたものは少ない。マウンドから大人顔負けの色香ある文章で読者のインサイドをえぐってくる攻撃性が見られ、打席に立つ私たち人生の先輩に“これは負けてられんなァ”と奮起をうながすようなものも多数ある。いち書き手として刺激を受けることもしばしばで、あらためて若い才能に驚かされる。

縁あって私が手に取った本著『1マイルの僕は1マイクロの君にキスをする』も、そんなカクヨム甲子園のダイヤモンド・フィールドにたつ作品のひとつだ。作者はたん氏。ほんのすこし……ほんのすこしだけ他人と見た目が違う少年と少女が互いに感情をぶつけ合い、傷を舐め合い、そして理解を深めてゆく。

針屋様世と只巻すみれ。精神病棟で出会ったふたりは物語開始時点で既に心が不安定だ。かたや激しやすく、かたや壊れやすい。デリケートな少年少女とは得てしてそういうものかもしれないが、彼らは“病人”である。それは本作品が抱える“闇”となり、結局最後までつきまとうこととなる。

男女の“関係”において、すみれのほうが手慣れている理由……本作品がもつ悲劇性を構築する原因のひとつとなっている。

「私は今から純潔を奪われるのかな?」

彼女が様世を“誘う”シーンは最後まで読んだ今となっては悲しい。なぜなら彼女は“とある理由”で既に汚れていたからだ。それでも好きな男の前では綺麗でいたかったのか上手にカマトトぶる。これは彼女が言いなりの人生を歩んできた結果、そういった“娼才”を身につけてしまったことの証左とも思えるのだがどうだろうか?

高校生がこのような作品を書く、ということについては賛否両論があるのかもしれない。私自身は、その是非を問われれば返答に窮する。彼らの年齢に見合った明るく爽やかで健全な物語を紡いでほしい。そう思う人も少なからずいるだろうか?

だが感性が鋭敏なこの時期にしか書けないもの、というのがあるのではないか? 少年少女だからこそ表現できる残酷さや野蛮さ、というものが確実にあるのだ。肉親に対する愛憎はその最たるもので、思春期だからこそ、それを生々しく端的に書きあらわすことができる。現役の“当事者”であるからだ。

私は小説を書きはじめて二年ほどになるが、十代のころに作品を残さなかったことを痛烈に後悔している。多感な少年時代ならば、今とは違うものを書くことができたはずだった、と思うのだ。しかし当時の私が本作品にあるような独特で魅力的な台詞回し、複雑繊細な内心描写を文章としておこせるか、と問われれば無理だったろう。たん氏の見事な文才に只々、脱帽せざるを得ない。

最後、様世とすみれは、“ふたりの世界”が終わる前に旅に出る。病室の外に広がるいろいろな景色を見るために……だが、これは様世の“幻想”だったのだろう。ふたりの立場を考慮すれば、現実的に不可能な行動だからだ。ラストシーンが繰り広げられる場所を“一つしかない彼女との思い出の地”と呼んでいることからも、そのように推測できる。ひょっとしたら、すみれが愛する本の世界だったのかもしれない。もし、そうならば冒頭にある彼女の最初の“お願い”は布石だったともとれる。そこからつながるスマートな幕引きではないか。わずか一万一千文字の中で見事、完結する少女の人生と少年の半生は読者の心に暗い影をおとすも、不思議なほどに読後感は悪くない。あのころの逡巡をこえて大人になった“元少年少女”にこそ、読んでいただきたい作品である。