1マイルの僕は1マイクロの君にキスをする

たん

1マイルの僕は1マイクロの君にキスをする







 国立宗滝総合病院精神病棟5階503号。この場所の名前だ。そして、僕が今から去る場所の名前。君が、僕をくれた場所の名前。









 「初めまして、只巻すみれと申します。短い間ですがお世話になります」

あんまりに淡々としていたから、この病棟に入ってきたのが何でかって、その理解には時間を要さなかった。

 きっと、感情が無いだとか。そういう類いだろう。

 しかし、普通、精神を患っている患者が入る病棟では、同じ部屋に複数人が共同するものではないんじゃないか?その暗黙のルールというか、それを破ってまで僕のところに彼女を置いた理由が分からなかった。

「あぁ…よろしく…」

 中途半端な思考停止は好きじゃないので、持て余した感じで素っ気なく答えた。この時「やぁ初めまして!僕の名前は針屋様世!よろしくね☆」なんて至極明るいパーリーピーポーな挨拶をかましていたら、もしかすると今は違った結末になったかもしれないな。



 「針屋くん、棚の上の本を取っていただけますか?ベッドから見えた情報では、私の好きな『御是平助』の紀南紀行シリーズのはずなので」

「あぁ、確かに御是先生の紀南紀行シリーズ最新作だが…。君、見掛けによらず渋いもの読むんだね」

 僕らの最初の会話。とっても素っ気なくて、それでもって無機質な会話。業務連絡のような言葉のやり取りだけだった。生まれてこの方、普通の生活なんて待っていなかったから、業務連絡なんてしたことなんて無いけど。

「あの」

 なんて、過去を自虐に潜らせていると、随分と下の方から、至って平坦な声が聞こえた。

「趣味に見た目は関係ありません。軽率な言動ですね、あまり好きでないです」

 …ん?随分と不躾なことを言うお嬢だな。

「別に、僕も君に好かれようなんて思っちゃいないよ。軽率な言動だね、あまり好きではないよ」

 思いっきりの皮肉。最初にしては、印象が悪すぎたろうか。

「そうですか。それは失礼しました。ところで、棚の上の本を取っていただけますか?」

「このタイミングでさらにお願いをしてくるかい?君は不躾なだけじゃなく空気も読めないようだね。面白いよ」

 別に皮肉ではない。素直にそう思った。

「そうですか。ありがとうございます。ところで、棚の上の本を取って」

「分かったって。ほら」

「ありがとうございます」

「…本当に思ってるかい?」

「はい?思っていますが…どうしてですか?」

 …面白い子だ。特に、好む著名人が『御是平助』である辺りが。



 僕と彼女は似ていた。趣味嗜好だとか、考え方の根本だとか、好きな偉人とか、身の回りの環境だとか。とにかく、似るものはごっそり似せましたとでも言わんばかりに似ていた。

 しかし、僕と彼女は決定的に違っていた。明言すると、互いの生物としての秤が。

 僕の腰近くにある物が、彼女には背伸びをしたって取れない。彼女がスキップで通れる隙間が、僕は腹這いにならないと通ることが出来ない。僕と同じことが彼女には出来ないし、彼女と同じことが僕には出来ない。無論、そんなもの安っぽい比喩表現である。同じ本は読めるし、同じ飯だって食える。その気になれば、同じベッドで寝ることも出来る。しかし、彼女に触れるには僕は余りに大きすぎて。デカブツの僕なんかに、色物の彼女は愛せなかった。



 下垂体性肥大症。僕の病気だ。詳しいことは分からないが、僕の身長は17歳現時点で2m20cmを越えている。俗に言う、巨人症ってやつだ。

 胎内発育不全性低身長症。彼女の病気だ。詳しいことは分からないが、彼女の身長は16歳現時点で120cmを下回っている。俗に言う、小人症ってやつだ。

 僕らは互いにハンディキャップを背負って生きてきた。それも、限り無く目立つ形で。だから、僕らは互いに傷を舐め合った。いつかそれが、救われるものだと信じて。



 「様世くん、海を見に行きませんか。ここから数十メートル歩いたところに、ぜっけいすぽっとなるものが有るらしいです」

「酒見坂のことだね。絶景スポットには程遠いが、確かにここら辺だと一番マシな景色だ。良いよ、行ってみよう」

 最初こそ取っ付きにくい間柄だったが、親の仇のように趣味嗜好が合うので、僕らが仲良くなるには時間は掛からなかった。同じ本を一緒に読んだり、互いの趣味を共有しあったり。今回のように、よく出掛けたりもした。

「じゃあいつも通り出発は夜になるね。それまでボードゲームでもして暇を潰そうか」

「この間の人生ゲームというやつは懲り懲りです。あんなに借金苦にまみれた生活は初めてでした」

 相変わらず彼女の言葉には抑揚が無い。まるで機械音声と喋っている気分になる。僕の名前を呼ぶときだって、誰かから「よ」と「う」と「せ」を取って引っ付けたような声だ。ピッチを補正したような、ケロケロと鳴り出しそうな声だ。

「あはは。では今度は別のゲームで遊ぼう。そうだなぁ…あ、ダイヤモンドゲームにしようか」

 けど、その声には、確かな感情もある。それは、目に見えたりも耳に聴こえたりもしない。でも、短い間でもずっと一緒に過ごしてきた僕には、そんな彼女の声を、感情を、拾うことだって出来た。

「だいやもんどげーむ?何だか知りませんが、暇が潰れるならそれで良いのではないでしょうか」

「それもそうだね。よし、プレイルームから持ってくるよ」

 大きさの影響もあってノロノロと立ち上がり、そのまま同じテンポで歩き出そうとする僕。その裾を何かがグッと引っ張った。

「あっ」

「え?」

 僕が振り向くと、僕もそれも、少し驚いたような顔をした。彼女、只巻すみれだった。

「すみれ?どうしたんだい、何か他に頼み事があるの?」

 驚きを隠して僕は問う。しかし、

「あ、いえ…。そういうワケではないんです…。ただ…その…何でしょう、私にも分からないです」

 …僕は中途半端な思考停止は好きじゃない。それは、自他なんて関係無い。

「分からない?分からないワケないだろう?君は何らかの理由で僕がプレイルームに行くことを阻害しているんだ。それは何故だ?本当はダイヤモンドゲームがしたくないのか?たんに僕を困らせたいだけなのか?しっかりとした理由が無いなら、早く離してくれないかな。ハッキリ言って、少し邪魔だ」

 自他なんて関係無い。にしても、正直「しくじった」と思った。あまりにも冷たい、突き放すような声。これじゃまるで、僕の方が機械音声。彼女のことが、そんな声になるまでに嫌いと言ってるみたいじゃないか。

 僕は焦る。とっても野暮な謝り方をする。

「いや…その、すみれ。悪かっ」

「…グスッ」

 え?

「何で…何でそん…なこと…言うんですか…」

 彼女は泣いていた。本当に、本当に驚きすぎて、喉が仕事をしなかった。それもそうだろう。だって、僕が。いや、僕だけじゃない、この院内の全ての人間がおおよそ見たことが無いであろう「只巻すみれの感情」が、今目の前にある。誰も触れられなかった禁忌がそこにある。その、その感情は、

「…悪かったね、本当に」

 見てられないほど美しく、どうでもいいほど醜くて、殺人的なまでに可憐なものだった。少なくとも、僕が。こんな体の僕が、見惚れてしまうほどには。



 「様世くんが散々に言うものだから、どんな酷い絶景かと来てみれば」

「案外そんなこともなかったな。なかなかどうして良い景色だ」

 僕らは酒見坂に来ていた。…昼間のことは、取り敢えず奥の方に置いといたまま。

「…私は別に、感情が無いわけではありません。ゲームに負ければ悔しいし、趣味が合えば嬉しいし、あんな風に突き放されれば悲しいです」

 置いといてはくれないようだ。

「悪かったって!…僕の疾患はあれなんだ。あまり傷口を開かないでほしい」

 疾患というか、精神病だ。解離性精神障害。自分の気にくわないことがあると、自我が破綻し、言動の歯止めが効かなくなる。ヒステリックな性格、と訳するのが一番利口か。

「どうも歯止めが効かないんだ。本当に悪かったよ…」

 僕が惰性に謝っていると、彼女は膨らせた頬を萎ませて言う。

「良いですよ、もう。愛する者の過ちは、赦すのが情けというものです」

 えっ?いまなんて?

「愛する者の過ちは赦すべきだ、と言ったのです。何か間違いがありましたか?」

「ばっ…君…愛する者って、その…!」

「か弱い乙女に何度も言わせないでください。さっきも言いましたよ?私にも感情はあるって」

 微妙に静かに微笑んだ彼女。突然に舞い込んだアクセントは、つまらない美しさの夜景を一瞬で色付けた。

「…何も間違ってません。愛する者の過ちは赦すべきだ。間違ってないよ」

 か弱い乙女っていうのは、少し間違っている気もするけど。



 出会ってから五ヶ月。あ…愛の告白…から三ヶ月。そこからさらに四ヶ月経った。当初に感じた既成概念なんてとうの昔にぶっ壊れていて、僕も立派に彼女を…その…愛していた。

「そういえば、出会って一年だな、もうすぐ」

 思い出したように、思い出が口を衝く。

「そうですね、何かパーティーでも開きましょうか」

「パーティーって柄じゃ無いだろ僕ら」

「良いじゃないですか、たまには。別に大事ではなくて良いんです。小さいお祝いでも良いんですよ、何かしてくれれば。そういうの、女の子は結構気にするものですよ?」

 そう。出会ってから、五ヶ月経って、三ヶ月経って、四ヶ月経った。もうすぐ一年なのだ。

「まぁ…そうだね。そういう催しはあまりしてこなかったからね。良いよ、下の購買にケーキでも買いに行こう」

「良いですね、行きましょう」

 早速、僕らは購買に向かう。自然とすみれの手を取りかけるが、一つ気付いて、不味そうにそれを引っ込める。そうだ、すっかりと忘れかけていた。僕らの間には、掘っても埋めても決して縮まらない、圧倒的な距離がある。確かに今の僕らは、端から見れば俗に言う「恋人」なのかもしれない。


 けど。


 僕は、彼女の手を取ることが出来ない。彼女だって、僕の手を取ることが出来ない。共に抱き合えない。耳を打って内緒話も出来ない。何も、恋人らしいことなんて、何も出来ない。

「様世くん、早く行きましょう」

 出来ない。

「…様世くん?聞いていますか?」

 出来ない。

「顔色が悪いです…気分でも優れない…」

 出来ない。

「…様世くん?聴いてますか!?様世くん!」

 出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない出来な

「様世!私の……私の声を聴いて!!」

 …………聴こえてる。

「あぁ、聴こえてるよ…。ちゃんと…」

 あの時ぶりだろうか。僕は。僕は静かに泣いていた。



「じゃあ、出会って一年を記念して…」

「乾杯」

「乾杯」

 わびさび極まる乾杯で、僕らは出会いを祝福しあう。さっきのギクシャクした空気感は、既に失せかけていた。

「先ほどは少し驚いたよ。そんなに色んなことを背負っていたの?」

 不意に、彼女は僕に問う。

「…あぁ、僕なりに君を考えて、僕なりに僕を考えていた。…ダメだな、弱味を見せてしまった。嫌な過去だって、思い出してしまった。悪かったね、ホントに」

「良いんだよ。私は君に、君は私に、それぞれ弱味を見せて良いんだよ。短所を知らない人間同士だったら、ただの希薄な他人になってしまう」

「…そうだな。君にはいつも宥められてばかりだ。本当に感謝しているよ」

 壁が出来てしまったかな、とも思ったが、案外そうでもないようだ。少し安心した。

「それより…すみれ。君、敬語はやめたのかい?何か少しむず痒い感じがするな」

「君の」

 今度は僕が問うと、彼女はスッと真剣な眼差しになる。

「君の…芯を、核を、本心を見た気がした。他人がどれだけ追い求めたって、深くて見つけられないほどの。それほどのものを見たくせに、未だに他人行儀な付き合いなんて、不躾にもほどがある。そう思ってね」

 只巻すみれという人間は、もしかすると相当に立派な人格者なのかもしれない。僕は、分かりやすい何処かで、常に彼女に救われている。

「そうか…それなら良いんだけど」

 そんな彼女の考えだ。僕は決して否定しない。僕は彼女の回路が好きだし、共有できそうな気もする。思考の同一化は、言うならば幸福と似ている。

「ねぇ、様世」

 僕が恍惚に浸っていると、彼女はほんの少しだけ尊大な顔で僕を見る。

「な、なんだい?」

 少し嫌な予感がして、喉がカラッと渇く。僕はオレンジジュースを口に含んだ。直後、

「…今日は一緒に寝てくれないかな」

 喉を通りかけていた液体が華麗に空に舞い、僕は盛大に咳き込む。な、な、なんだって?

「一緒に…寝るのか…?そんなの出来るのか…?」

 ずっと前から、無理だと思っていた妄言。まさか、彼女の口から飛び出すとは思っていなかった。

「む。何だよその反応。心寂しいのはお互いだと思って、折角提案したのに。私と寝るのは嫌なの?」

 彼女はぷくっと頬を膨らませる。あ、可愛い。いや待て、そんなこと言ってる場合じゃない。このままだと、彼女から受けた千載一遇のチャンスが泡沫へと消えてしまう。

「いやいやいやいや!決してそういうワケじゃ無くて全然大丈夫でむしろその嬉しいとか何とかゴニョゴニョ」

 こういう時に、自分のヘタレっぷりがほとほと嫌になる。

「…あぁもうじれったい。ほら、様世」

「わっ、ちょっ、あぶな」

 ボフッ。

「…………」

「……ねぇ」

 彼女とベッドにもつれ込んだ僕。成り行きでなったとはいえ、僕は彼女にマウントする姿勢になってしまった。

「これは、あれかな?私は今から純潔を奪われるのかな?」

「ち、違う!断じて違う!決してそんなこと思っていない!て、天に!天に誓う!」

「…そこまで否定されるのも逆に悔しいな。ほら。良いから」

 そう言って、およそ拙い手付きで、彼女は自分の服のボタンを一つだけ外す。何処で覚えたんだそんな仕草。…全く、身体はこんなに小さいのに、そちらの方は…その、なかなかどうして…。

「……っ」

 初夜の勇気なんてこのヘタレにはあるわけがないので、ちょっとしたイタズラで終わってしまった。ま、まぁ良いか。こういうことは、急くものではない。…彼女は少し不満げであったけど。



「すみれ。今日は何処に行こうか。といっても、この辺りは既に三周もしてしまったけど」

「そうだね…。今日は何だか、様世とゆっくりしたい気分だよ」

「奇遇だね。誘っておいてなんだけど、僕も今日は君とゆっくりしたいと思ってたんだ」

 そんな会話をしたあと、僕らはベッドに入る。こういう、ゆっくりしたいなぁなんて時は一緒のベッドに入るのが、あの日からの決まりだ。そう、あの日だよ、あの日。

「何か話す?私は何でも良いけれど。そうだな、この間の中途で頓挫した話はどうかな?」

 いや、今日は。

「今日は、何も喋らずに。ただただ時間を無駄に使ってたいな」

「…様世がそう言うのなら、それで良いのかもしれないね」

 相変わらず、僕は彼女を抱き締められない。くるんと丸まった彼女では、僕が壊してしまいそうだから。けど、

「…おやすみ、すみれ。……と、とても…好きだ…よ」

 こうやって、不器用な気持ちを伝えることくらいは、木偶の坊の僕にだって出来るかな。



 現実は小説より奇なり、とはよく言ったものだと思う。それは、突然。本当に突然だった。

「早く…!早く…!」

 ナースコールのカチカチという音がうるさい。というのも、鳴らしてるのは僕のなのだけど。

「早く来てくれ…!頼む…!」

 もう遅いかもしれない。けど、希望に縋ったって良いじゃないか。さっき。ついさっき、気持ちを伝えたばかりなんだから。



 子宮がんステージ4。聞いたこと無い医者から聞いた病名。彼女は、助からないんだそうだ。

「ホントに悪いよ様世…。もう何日も寝てないんでしょ?」

 死にそうな顔だ。相当無理してる。分かる。分かってしまう。

「君より大事な僕なんてあるか。気なんて遣わなくて良いんだよ」

 僕は必死に言い宥める。かつて、彼女が僕にそうしたように。

「…君には話しておくべきだと思ってたから、もっと早くに言えば良かったんだけど…。ごめんね。どう伝えたって、私も君も傷付いてしまう気がして」

 そんな口火を切って、彼女は過去を明かした。





 彼女が子宮がんを患っていたのは、二年前からだそうだ。その頃はまだ早期の方で、ステージ2の段階だったから、手術をすれば十分助かる可能性がある。正確には覚えてないが、そんな言葉を聞いた記憶があると。もちろん、がんなんて怖いもんだし、身体の震えが止まったワケじゃないが、取り敢えず一安心。一筋の希望が見えた。まだ生きれるんだ!と。


 しかしそれは、束の間の安寧で終わってしまう。


 すみれの父のことだ。彼は異常性癖者というやつで、何でも小さい子供にしか性的な興味が持てないという。言い方が限られるので致し方ないが、まぁロリコンだ。そんなすみれの父にとって、小さくて、可愛くて、最も近くに置けるすみれの存在は、我が子ながらとても無視できるものではなかったのだと言う。



 正直、吐き気のする話だ。我が子を犯して、妊娠させるなんて。正気の沙汰ではない。何とも例え難い、化け物の話を聞いている気分だった。



 結果、子宮内の赤ん坊にがん細胞が転移。赤ん坊は死亡し、活性化した悪性新生物は、母体であるすみれの身体さえも、異常なスピードで蝕んでいった。一時は皮膚にも転移し、彼女の右半身は毒にでも浸かったかのような色をしていたそうだ。彼女の母親は世間体に敏感になり、精神を患った。見た目の影響から、元より自由は無く、さして感情の起伏も無かったすみれだったが、この時ばかりは母親の極端な束縛に辟易としていた。外に出てはいけない。カーテンを開けてはいけない。誰かと話すようなことがあってはいけない。彼女が母親に許されていたのは、トイレと食事と睡眠だけだったそうだ。



「何であんたみたいなのが私の子供なの!!何であんたはそんなに醜いの!!何で!?何でなの!?答えなさいよ!!何でなのって聞いてるでしょ!!…もう、もう嫌!もう疲れたの!!あんたなんて…産まれなければ良かったのに!!」



 彼女の意識は、そこでプツリと途切れた。気が付けば、迷惑そうで不憫そうな叔母の顔が頭上を覆っていた。





「はぁ…!はぁ…!う、え、えぇ、げぇぇぇぇ!」

 嘘だろ?フィクションだろ?どうせ、どっかの猟奇犯が画策した悲劇的なストーリーなんだろ?

 そう思うことでしか、今の僕は自我を保っていることが出来なかった。

「はぁ…。と…取り敢えず戻らないと…」

 一歩二歩三歩と、覚束無い足取りで廊下を辿る。何百回と見たハズの景色が歪んで見えたのは、きっと気のせいでは無いのだろう。



 僕に話をしたっきり、すみれは昏睡状態に陥った。翌日に慌ただしく部屋に入ってきた彼女の母親は、何かヒステリックに喚き散らしていたけれど、誰に何を言ってるのかも分からなかった。もしかすると僕に言っていたのかもしれないけれど、そんなこと心底どうでも良かった。ただただすみれが心配で。それ以外の有象無象に脳みそのメモリを割く余力なんて、今の僕には到底ある訳が無かった。



「…よ…うせ…?」

「……すみれ?すみれ!」

 数日後、すみれは静かに目を覚ました。

「すみれ…!分かるかい?僕だ、様世だよ」

「…分かるよ、さっき名前を呼んだじゃない」

 すみれは微笑む。良かった、この笑顔が生きていてくれて。僕は、フーッと長い溜め息を吐く。身体中がギシギシと音を立てた。

 どうやら相当疲れていたらしい。眠気がどっと襲ってきた。

「…その様子だと、また寝ていなかったんだね。無理はしないでと言ったのに…」

 すみれは、呆れたような、心配そうな目で僕を見詰める。また気苦労を掛けてしまったかな。

「ごめんね…すみれ。身体が悪いのは君なのに、何だか僕の方が支えられている」

「言わないで」

 打って変わって、彼女はじとっとした目付きで僕を見る。こんな表情を見たのは、もしかすると初めてかもしれない。

「そんな野暮なこと、言わないで。私は十分、君という存在に支えられている。君を私が支えるのは、当然のことだよ」

「けど…」

 すると、今度は目尻をとんがらせて眉間にシワを寄せる。

「愛なんて自己犠牲の完全体じゃないか。私たちは、各々のこんな不便な身体にそれを背負って生きていこうとしている。辛いのは当然。他人がみんなそうなのだから、私たちは一層、想い合わないと生きてはいけないんだよ」

 そういうとすみれは、また元の柔和な顔付きに戻った。

「私は君が好き。大好きだ。ただそれだけで、私は今生きている。そんな君が、私が愛している君が、自分を諦めないで。君の意識が消えた時に死んでしまう人間は、もう君一人じゃないんだよ?」

「……」

 僕は俯く。何故なら、僕にはその程度のことしか出来ないから。そんな自分が。自己陶酔に浸った独り善がりの自分が、ひどく情けなく思えてしまった。

「…少し頭を冷やしてくるよ。僕には時間が必要みたいだ」

 そう吐き捨て、フラフラと部屋を出ていく僕を、彼女は「うん、行ってらっしゃい」とだけ言って見守った。…もう今は、何も考えないでおこう。これ以上の屁理屈は、僕をとてもつまらない人間にしそうだから。



「すみれ。ちょっと…良いかな?」

 明くる日、僕は彼女に話し掛けた。この頃には既に彼女の戒厳令は解かれ、いつもの病室へと戻っていた。

「どうしたの様世?急に改まって、何だかお堅い人みたいだよ」

 すみれはクスッと笑ったが、僕は至って真面目だ。その雰囲気を察してか、彼女もスッと真剣な顔になる。

「…君は、過去を語ってくれた。あの辛い中で、自分を伝えようとしてくれた。僕と君は支え合うんだ。それには、お互いを知らないといけないと思う。僕も…僕も、自分を伝える」

 僕は大きく息を吐く。この間みたいな溜め息じゃない。これは……そう、決意だ。





 平成十二年九月九日。この病院、国立宗滝総合病院の産婦人科にて僕は産まれた。出生時の身長は平均的な52cm。この時点では、巨人症の可能性なんて先生も助産婦も、僕の母親ですら疑うことも出来なかった。



 僕の母親が「何かおかしいのでは?」と思い始めたのが小学校入学前後。その時点で既に僕の身長は異常指数だったのだが、それはあくまで常識の範囲の話で、誰も彼も、少し成長が早いだけだと思っていた。



 しかし、それはひどい勘違いだった。



 その後、僕の身長は急速なスピードで成長し、小学校を出る頃には180cm程にまでなっていた。誰が見たって、明らかに異常だった。中学に入学してからもその身長は伸び続け、三年生になる頃には、2mを超えた。身長の関係でいじめにも遭い、それに暴力が伴うようになると、遂に僕は学校に行けなくなった。昼間はひたすら本を読み漁り、夜になるとさっさと布団を被って寝る。少しの外出もせず、家の中でも滅多として動こうとしない。要因は大きく違えど、すみれと同じような生活。いつだって弱かった僕の心は、次第に荒みを増していった。



 ある日、僕は現実に耐えられなくなった。ただひたすらに怨嗟を繰り返す今日が許せなくなった。部屋中を暴れ回った。家中の物を壊し回った。目に映ったもの全てが彼奴の顔に見えて。鏡に映った自分が醜く思えて。泣いて喚いて、綺麗に汚れた手のひらを床に叩き付けていた。血飛沫が飛んだ。怒号も飛んだ。僕の人間部分も飛んでしまっていた。

「何やってんのあんた?バカじゃない?」

 母は冷に徹して言った。僕を、気味の悪い目で見詰めた。

「嫌なんだよ!!もう…もう全部!!消えろよ!!全部消えろよ!!」

 次第に僕は崩折れる。

「消えてくれよ……もう…疲れたよ……」

「じゃあさ」

 母は言った。



「嫌なら、死ねば?誰も困りやしないよ?」



 ガシャ。グチャ。



 僕の心で、僕が壊れた。





「で、完全に心を病んでしまった僕はこの病院に送られて、今に至る。今は面影が無いと思うけれど、当初は大変だったんだ。何せ、ご飯もろくに食べれなかったからね。君と初めて会った時も、たんに心が慣れていたに過ぎない。…まぁ、解離性精神障害はその名残って言ったところかな」

「……そう。君は、そんな過去を背負ってたんだね」

 僕は、なるべく淡々と語るように努めた。そうでないと、気がおかしくなりそうだったから。

「そんな陰鬱な顔をしないでくれよ。僕は、君には笑っていてほしいんだ」

 自分を聖人と取り繕うのはやめた。僕は人間だ。デカくて、野暮で、ちっぽけで。そんでもって、立派な一人の人間だ。自分を辛い方にばかり押し込むのはもうやめたんだ。

「君が笑えば僕も笑える。僕らはきっと、死ぬまで運命共同体だ。だから、君の幸せのためにも、僕の幸せのためにも、僕らは最後まで笑っていたい。だから、小難しい話はこれで最後にしようと思ってさ。だから、」

 だから、僕の過去を君に押し付けたんだ。

「…いや、やっぱり何でもない」

 僕はワンフレーズを呑み込んだ。本心の隅っこまで吐き出してしまえば、また前と同じになると思ったから。



「僕は前を向いて生きていく。君も、笑って逝ってくれないか」



 僕なりの不器用なプロポーズ。彼女は受け取ってくれるだろうか。

「…話の運び方が上手だよ、相変わらず。自分の過去をネタにするなんて。不謹慎だと思わないの?」

 な、何だか怒ってらっしゃる。別に、ネタにしたワケではないんだけど…。

 極めて恐れながら、僕は彼女の方を見る。何だ、そっぽを向いていたのか。自分の無粋な部分に少し呆れる。と、同時に、彼女の方に意識を戻す。

「そんなの」

 一度言葉を途切らせて、彼女は言った。



「そんなの、受け取るしかないじゃない」

 彼女は笑ってくれた。今までに無いくらい最高の笑顔で。僕は彼女を初めて抱き締めた。そうか。彼女は。只巻すみれは、こんなにも小さかったのか。それでいて、こんなにも大きかったのか。



「すみれ」

 僕は彼女の名前を呼ぶ。



「色んな世界を見て回ろう。この病室だけじゃない世界を、色彩が眩しい世界を。一緒に見に行こう」

 我ながらクサイ台詞だ。歯が浮きそうになる。



 それでも。

「…ふふっ。何それ、とっても面白そうだね」

 僕は彼女の手を取った。これから、最期まで旅を続けようと。



終わる世界は美しい。来るかわからない明日なんて、絶するくらいの美景に決まっている。



 それから僕らは、色んな所に行った。山に行った。海に行った。森に行った。河に行った。温泉に行った。観光地に行った。絵画を見にった。滝に行った。世界で有数の遺産を見に行った。花火を見に行った。コンサートに行った。全てが全て、彼女との思い出になった。



「…良いよ、目を開けて」

 僕は彼女に言う。車椅子を押しているから、目を閉じるのはすみれにセルフでやってもらっている。何とも体裁が立たない僕だ。

「…ここって」

 そんな僕が最後に選んだ場所。酒見坂。数少ない、と言うか、一つしかない彼女との思い出の地だ。

「…案外ロマンチックなことをするんだね。もっと現実主義者だと思っていたよ」

 彼女に僕は一体どう映っていたのだろうか。それほどに理屈はこねていないつもりだったのだけど。

「僕だって、こういうことを考えたりもする。今までは下手を打ちたくなかっただけだ」

「分かってるよ。君のことだもん。色んなことを押し込んで来たことくらい、分かってるよ」

 そして彼女は、吐き出した。

「最期に…ここを選ぶってことくらい」

 最期。その言葉が、今になって僕の心臓を急かし始める。

 鼓動がうるさい。いつだって分かっていたことなのに。どうして僕は、こんなにも意気地無しなのか。

「…そんな顔しないで。君は私に言ったじゃないか」

 僕は、

「『僕らは最後まで笑っていたい』んでしょ?」

 僕は、もう泣かないって、

「様世」

 涙と鼻水でグシャグシャになった顔を上げると、



「私…幸せだったよ…!君と過ごした一年が、とっても…!」



 彼女も、おんなじ顔をして。とても綺麗に笑っていた。



「…すみれ?」

 僕の喉から声がせぐり上がった頃には、彼女の身体に力は無かった。

「ッソ…!僕は…最期まで…!」

 自分を殺したくなった。が、ふと彼女の顔を見やると、そんな自己陶酔は砕け散る。あざとく尖った彼女の唇が目を引いた。

「…全く、ちゃっかりしてるなぁ」

 僕は彼女の方へ身を寄せる。これまでにないくらい、精一杯の愛情を込めて。



 そして。



 僕らは。世界から疎まれた僕らは。



 かつて罵られた僕は。かつて嘲られた君は。







 最後の最期に、世界で一番幸せなキスをした。


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