第2話 どんぐり村 恵


 土産物屋とレコード店で時間を潰すとちょうど、三時だった。これから恵の勤める「どんぐり村」へ赴けばほどよい時間になるだろう。健一は菓子の詰め合わせを手に、地下鉄のホームへと向かった。


 行き交う人波の中には、アベックも少なくない。皆、一様に口数が少なく、コートに身を包んだ男女が寄り添って歩く様はフランス映画のようでもあった。


 それにしても、と健一は思った。恵は不思議な女だ。ファッションモデルかと思うほど手足が細長く、今どきの子とはいえ、明らかに目を引く容姿だった。


 恵に関して健一は断片的な知識しか持っていなかった。母子家庭で育ったらしいという事、母親とはあまり仲が良くないこと、学童保育施設で働き始めてからは「どんぐり村」の施設長が親代わりだったことなどだ。

 おそらく十代の時に家出でもして、そのまま家族とは疎遠になっているのだろう。


 恵が働き始めた時、小田切はまだ北大の学生だった。叔父が「どんぐり村」の施設長だったことから、小樽だか函館だかの実家を離れて叔父の家に下宿したらしい。

 「どんぐり村」にもしばしば顔を出し、暇なときは子供たちの相手をしていたというから、恵にしてみれば「お兄さん」のような存在だったのだろう。


 地下街を抜け、地下鉄の駅へと移動すると、開通したての地下鉄が珍しいのだろう、券売機の前には長い列ができていた。切符で自動改札をくぐり、ホームに降りると、ここもまた大勢の人で埋め尽くされていた。


 やがて、緑を基調とした美しい電車が音もなく滑り込んできた。札幌の地下鉄は全国でも珍しいゴム製のタイヤを履いていると聞いたことがある。東京の地下鉄の、やたらとうるさい走行音に慣れた健一の耳には新鮮だった。


 恵の勤務先である「どんぐり村」へ行くには「北二十四条」という駅で降車し、バスに乗り換える必要があった。駅に着くと健一はバスの路線図で恵から聞いた降車駅のある路線を探した。乗り場を探し、乗車待ちの列に並ぶと、自分が地方都市に流れてきた都落ちの若者のように感じられた。


 バスに乗り込むと、足元からディーゼルの振動とヒーターのぬくもりが伝わってきた。

 オリンピックを控えているとはいえ、都心部を離れると地方都市らしくのんびりした風景が広がっていた。この街で恵と小田切が出会ったのか、と健一は感慨にふけった。


 教えられた停留所は住宅地の真ん中で、降車した客は健一のほかは中年の女性が一人きりだった。ふいに子供のころ、買い物に来て親とはぐれた記憶がよみがえった。


 歩き出してほどなく、向こう側からやってきた中年男性に呼び止められた。地下鉄駅までの道を尋ねられ、健一は内心苦笑した。どうやら地元の人間と思われたらしい。駅の方角を伝え、実は観光客なのだと打ち明けた。男性がそうでしたかと笑い、空気が和んだ。


 駅方向に去ってゆく男性の背を見送りながら、健一はふと思った。あの男性くらいの年齢になったら、東京から離れてこのような街で家族と穏やかに暮らすのも悪くないかもしれない。


 健一は胸ポケットから行先を書いた紙片を取り出した。電話で恵に教えられるままに書いたものだ。正確かどうかは全く分からない。とりあえず方角だけをたよりにでこぼこの道を歩き始めた。


 間が悪いことに正面から風が吹き付けてくる。あまりの冷たさに表情筋が強張るのがわかった。まだ百メートルも歩いていないというのに、ブーツの中のつま先がじんじんと痺れてくる。先ほど健一と一緒にバスを降りた中年女性が、いともあっさりと健一を追い越してゆく。これはもう身体の作りが違うのだろうと健一はため息をついた。


 十分ほど歩くと前方に小さな児童公園が見えた。名称を確かめると、恵が「目印」だと言っていた公園に間違いなかった。


 このあたりか。健一は立ち止まり、周囲を見回した。公園の周囲にはアパートが一軒と、個人住宅が数軒、軒を連ねているだけだった。健一は歩調を緩め、一軒一軒、表札を確かめていった。やがて、こじんまりした二階建ての家屋に行きついた。


 玄関の引き戸の脇に「学童保育施設 どんぐり村」と書かれた板が下がっていた。チャイムのようなものはない。健一は意を決して引き戸に手をかけた。そっと開けると、ぎちぎちとレールの軋む音が聞こえた。玄関に人の姿はなく、沓脱には子供の物と思われる長靴が何足かあった。


「ごめんください」


 建物の奥に向かって呼びかけると、ほどなくして「はい」とくぐもった声が聞こえた。


「どちらさまでしょうか」


 姿を現したのは、五十代と思われる小柄な男性だった。


「お忙しいところ突然すいません、……私、刀根崎さんにお会いしたくて伺ったものです」


「恵ちゃんに?失礼ですが、どういったご用件で?」


「私は八坂健一と言います。東京で、恵さんに色々とお世話になっていました」


「八坂さん……もしかして、昭のやっていた団体にいた人かな?」


 男性の眼差しが鋭い光を帯びた。昭と言うのは小田切の名前だ。よく見ると眉のあたりが小田切に似ていた。おそらくここの施設長をしている小田切の叔父だろう。


「たしかに小田切さんの主催していた会に在籍していました。……今は脱会していますが」


「そうか、あなたが八坂さんか。私はここの施設長で小田切豊といいます。恵君は今、買い物に出ているから、戻ってくるまで私がお相手をします」


 健一は「わかりました」と返した。なんだか雲行きがおかしな具合になってきたようだ。


 スリッパを勧められ、健一は促されるまま上がり込んだ。ドアを潜って居間に足を踏み入れると、ダイニングテーブルでパズル遊びをしていた子供が二人、健一の方を見た。


「ヨウコちゃん、タクミくん、こちらは恵さんの東京時代のお友達だそうだ」


 年嵩の方のヨウコという少女が頭を下げた。額を出した髪型が日本的な顔立ちによく似あっていた。つられるようにタクミという少年もお辞儀をした。見たところ、ヨウコが小学校三年くらい、タクミは一年生くらいか。居間にはほかに子供の姿はなかった。


「いつもはうるさいぐらい、子供がいるんですけどね。今日はたまたまこの二人しか来てないんです。……あと、台所で水仕事をしてるのが、ボランティアの中田さん」


 そういうと豊は台所の方を目で示した。縄のれん越しに洗い場で立ち働いている女性の後ろ姿が見えた。豊は戸棚から茶道具を出すとてきぱきと健一の前に並べた。


「お仕事の邪魔ではありませんか?」


「いやいや、ちょっと事務仕事をしていただけで、今日はそれほど忙しくないんです。……それより、昭がお世話になりました」


 丁寧に頭を下げられ、健一は「いえ、僕はそれほど」と言葉を濁した。


「あまり突っ込んだことを聞くのは失礼だと思うのですが、その……向こうではまだ、いろいろ言う人がいるんでしょうか。……恵君の事とか」


「そうですね、ええと……」


 健一が無難な返答を模索していたとき、背後で引き戸の開く音がした。


「ただいま。……あっ」


 振り返った健一の視線と、ドアの手前に立っている恵のそれとがぶつかった。


「けんい……八坂さん。こちらにいらしてたのね」


 恵はどこか不自然な口調で言った。健一は場の空気に合わせるように、頭を下げた。


「すみません、時間を持て余してしまって、ついお邪魔してしまいました」


「いま、八坂さんから東京の話を聞いていたところだよ」


 豊の言葉に、恵は眉を顰めた。東京の話となると自分も無縁ではないと思ったのだろう。


「それほど大したことは話していないよ。お仕事の邪魔をするわけにはいかないからね」


 つい言葉が言い訳がましくなった。同意するように豊が頷き、やっと恵は表情を緩めた。


「私、五時半まで仕事なの。申し訳ないけど、どこかで時間をつぶしてくれると助かるわ」


「恵君、ここで一緒に過ごしたらいいじゃないか。今日は子供の数も少ないし、エミコさんもいるから、君の仕事に差し支えることもないだろう」


 横合いから豊が言葉を挟んだ。恵は困惑顔のまま、健一を見た。健一にとっても特に問題はなかった。


「僕は構いませんが……子供たちにしてみれば招かれざる客じゃないのかな」


「それは大丈夫よ。人見知りする子もいるけど、大人との接し方は心得てる子ばかりだから、気を遣わずに普通にしていれば問題ないわ」


 緊張が解けてきたのか、恵の口調が東京にいた時のようなくだけたものに変わった。


「そうかい。だったら少しの間、お邪魔させてもらおうかな」


 健一は利用者たちの邪魔にならないよう、居間の隅に移動した。


「タクミくん、これお母さんにもっていって」


 縄のれんをかき分け、台所から中年の女性が姿を現した。中田というボランティアだ。声をかけられたタクミという少年は、立ち上がって小さな風呂敷包みを受け取った。


「中にお惣菜が入っているからね、ひっくり返しちゃだめだよ」


 タクミはうなずくと、棚からショルダーバッグを引っ張り出した。惣菜の入った小ぶりの弁当箱をバッグにしまっていると、外でエンジンの止まる音がした。


「あ、お母さんかな?」


 タクミが弾かれたように立ち上がると、玄関に向かった。


「車の音でわかるのかな」


「そういう気がするのよ。あの年頃の子供に母親の占める割合は大きいもの」


「ヨウコちゃんは?」


「六時近くまでいるわ。お母さんの仕事が五時までだから、どうしても遅くなるのよ」


 恵は愁いを帯びた表情を残し、外に出た。忙しい母親なのだな、と健一は思った。


「どうもお客さん、気が付かなくてごめんなさい……わたしはここでまかないのボランティアをさせていただいている、中田笑子えみこといいます」


「八坂と言います。急にお邪魔してしまってすみません」


 健一が頭を下げると、笑子は「いいえ」と笑った。中年とはいっても仕草などにかわいらしさがあり、にこにこと笑っている表情はどこか恵と似ていないでもなかった。


「八坂さん、雪まつりはもうご覧になった?」


「ええ、先ほどさらっと見てきました。凄い迫力ですね。あれがすべて雪とは驚きです」


「辺り一面雪でびっくりしたでしょう。私たちはうんざりするくらい見てるけど」


 施設のまかないをしているだけあって、笑子は人懐っこかった。


「そうだ、お昼の残りを冷蔵してあるんだけど、ホテルででも食べて」


 そういうと笑子は冷蔵庫からスーパーの惣菜容器に入った餃子を出してきた。


「でも、ホテルには調理器がありませんし……」


「ああそうだわね、ごめんなさい。じゃあ、サラダはどうかしら」


 切れ目なく喋る笑子にまいったなと思いかけた時、ヨウコがふいに「帰る」と口にした。


「だって、まだお母さんが来てないでしょ」


「いいの。駅で待ってる。もうお店は出てると思うから、すぐ来る」


 引き留めようとする笑子を尻目に、ヨウコは素早く身支度をして裏口から姿を消した。


 閉ざされた扉をぼんやり眺めていると、背後から笑子が「気にしないでね」と言った。


「あの子、八坂さんと恵さんが一緒に帰りやすいようにって、気を遣ったみたいね」


 健一はあっと思った。ませた感じの子だとは思ったが、そういう気の回し方をするとは。


「まあ、なんとなく居づらかったんじゃないかしら。こういう時は止めても無駄だから」


 外から戻ってきた恵は室内を見回し、ヨウコがいないことに気づくと、笑子の方を見た。


「ヨウコちゃん、帰ったのかしら」


「そう。あなたたちに気を遣ったみたいね」


「そういうところが、扱いづらいんだなあ」


 恵はため息をつくと、健一の方を見た。健一は肩をすくめて見せるよりほかなかった。


「あの子はね、私の事を恨んでるのよ。小田切さんを取られちゃったから」


 恵が不意に真顔で言った。なるほど、考えてみれば小さい頃から出入りしている子なら、家族も同様の小田切に思慕の念を抱いたとしてもおかしくない。


「不意に現れた見知らぬ女が、憧れのお兄さんを誘惑して東京に攫って行った、そしてあろうことか、死に至らしめてしまった……許せないのも、無理ないわよね」


 健一は言葉がなかった。ただ「そこまでの事はないだろう」と言うしかなかった。


「さあ、私たちも帰りましょうか。ヨウコちゃんの好意を無にしちゃ悪いものね」


「恵ちゃん、昭さんのことは、思い詰めないほうがいいわよ。こういうことは時がちゃんと解決してくれるものよ。……ねえ、八坂さん」


「はあ……確かにそうでしょうね」


「恵ちゃんも、私くらいの年になったらきっとわかるわ。……さあ、もう閉めましょ。八坂さん、またいらしてくださいね」


「そうですね、機会があれば……」


「うふふ、きっとまたいらっしゃるわ。なんだかそういう気がする。『笑子さん、実は恵の気持ちがわからないんです。どうしたらいいでしょう』……なんていいながらね」


 冗談めかしてそう言うと、笑子は豪快に笑って見せた。やがて二階から豊が下りてきて、「自分が施錠するから」と健一たちに先に出るよう促した。外に出ると、真っ暗な空から雪が切れ目なく舞い降りてきていた。


「晩御飯、どうするの?」


「さあ。ジンギスカンでも食べようかと思っていたんだけど」


「いいわね。この近くに、結構おいしいって評判の店があるわ。そこでいい?」


「ああ。案内、よろしく頼む」


 健一が答えると、恵は先に立ってすたすたと歩き始めた。見知らぬ街の雑踏に吸い込まれそうになる背中を、健一は大切なものを眺めるような気持ちで追いかけた。


 恵が恨まれていたという事は、おそらく俺も同罪なのだろうな。


 ヨウコの厳しいまなざしを思い返しながら、健一は雪道をひたすら歩いた。それは、小田切がとうとう一度も帰ることがなかった故郷の風景でもあった。


       〈第三話「恵 告白す」に続く〉

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