最終話 君よ、終わりなき家路を辿れ  



          1972年 2月


「すみません、二十四条駅はここをまっすぐでいいんでしょうか」


「私」は、前方から歩いて来た若い男に尋ねた。


「ええ、そうですね。まっすぐです。ちょうどその二十四駅から歩いてきたところです」


 男性は「東京から昨日着いたばかりなんです」とぎこちなく笑った。寒いのだろう、やたらと足踏みをしている。そうだ、「私」が「彼」が初めて接する地元の人間だったのだ。


「そうですか、初めてですか……私もね、遠いところから来たのですよ。五年ほど前に」


「五年ですか。慣れれば住みやすいのでしょうね」


「もちろんです。私も若くはないですが、第二の人生を送るにはふさわしい場所ですよ」


「その意気ですよ。なんとなく、年を取ったら僕もあなたのような落ち着いた人間になるような気がします。すれ違っただけのよそ者ですが、心から応援しています」


 青年は屈託なく笑い、握手を求めてきた。「私」は彼の弾力のある手を力強く握り返した。


 去ってゆく青年の後ろ姿を眺めながら「私」は思った。私にもああいう時代があったのだ。あの頃にはもう戻れないが、私にもまだ何かできることがあるに違いない。


 「私」は行きつけの喫茶店で時間をつぶした。新聞や雑誌を眺めているうちに、日が傾いてきた。「私」には行くべき場所があった。「どんぐり村」だ。


 歩きはじめてすぐ、小さな二つの人影とすれ違った。「私」の記憶が反応した。


 ヨウコ……それから……そうだ、タクミ君とかいう男の子だ。年上のヨウコに向かってタクミは背伸びした口調でしきりに話しかけていた。どうやら先に帰ったタクミ君がお母さんと会えず、それならヨウコちゃんのボディガードをしてやろうと戻ってきたらしい。


「大丈夫って言ったのに。私、こう見えても用心深いんだよ」


「だめだよ。だって最近、この辺に怖い男の人が出るってお母さんが言ってたんだ。……でも、今日は僕と一緒だから大丈夫。僕がヨウコちゃんを守ってやるよ」


「本当?お願いね、タクミ君」


 ヨウコはタクミにそっと寄り添い、タクミの手を両手で包み込んだ。「私」はヨウコに色々と問いただしたい気分になるのをかろうじて堪え、そのまま二人をやり過ごした。


「どんぐり村」の一つ手前の交差点で信号待ちをしていると、手前から若い男女が歩いてくるのが見えた。男性は昼間の青年、女性は恵だった。「私」の中に不意に二人に向かって叫びたい衝動が沸き起こった。


 「健一」よ。今夜が二十歳の恵と過ごせる最後のチャンスなのだ。小田切の話などいいから、抱いてしまえ。でないと後悔する羽目になるぞ。


 二人の背中に「私」は胸の内で叫んだ。やがて二人は降りしきる雪の中に消えていった。


 「私」はゆっくりと信号を渡りきると、「どんぐり村」を目指した。中にはまだ「エミコさん」がいるはずだった。「私」はここに飛ばされてからの五年間を思った。


 2002年の世界でヨウコが「私」を飛ばしたのはなぜだろう。残された時間をなじみ深い時代で過ごさせようとの「温情」だったのだろうか。


 再び飛ばされたのは小田切の事件から五年ほど遡る1967年だった。あれから五年。肉体年齢が四十三になった「私」はもはや昂る情熱もなく、すっかり住み慣れた北海道の地で余生を送る決心をしている。


 「私」は「どんぐり村」の前に立つと、引き戸に手をかけた。


 エミコさんは、恵だ。根拠はないが、確信があった。記憶では四十くらいだった。今の「私」とほぼ同世代に違いない。ヨウコがそのように配慮したのかどうかはわからないが。


 いつからかはわからないが、おそらく彼女は自分よりもずっと以前にここに飛ばされ、長い時を過ごしてきたのだろう。そんな気がする。それは自分や蓑島よりも長い「刑期」だったのではないか。つまり、ヨウコは小田切を殺した真犯人を恵と断定した事になる。


 「私」は引き戸を引いた。ちょうど正面に、洗い物をしているエミコの背中があった。


エミコはゆっくりと振り向いた。そして「私」に気づくと柔らかな笑みを浮かべた。


 「私たち」はこれから、残された時間を共に過ごすに違いない。「私」はそう思った。


         2002年 10月


 快速列車の車窓から見える灯りが次第にまばらになっていった。


 わたしは、どうかしているだろうか。恵はぼんやりと思った。


 一緒に帰ろうという母を「買い物があるから」と振り切り、札幌駅である程度の金額を下ろすと、そのまま千歳空港行きの快速列車に乗り込んだのだった。


 ほんの少し前、「れいんぼう」のリビングで健一が「消えた」。少しぼうっとしてきたなと思い、次にはっとして健一の方を見るともう姿がなかったのだ。


 おそらく健一のいた世界と、健一が消えた世界との間には違いがあるのだろう。だから私の脳は世界の違いを一つにできなくて、一度意識のスイッチを切って入れ直したのだ。


 健一が「消えた」直後に母の洋子が入ってきた。恵は思わず問いただしていた。


「健一を『飛ばし』たのね?」


 何の事?と洋子はしらっぱぐれた。なぜ健一は「飛ばされ」たのだろう。いくら小田切を見殺しにしたからといって、二度も「処刑」されるとは考えにくい。あるいは「処刑」ではないのか……そこまで考えて、恵ははっとした。


 健一はもともと、三十年前に青春を送っていた「あの時代」の人間だ。「刑期」が終わり、残りの人生にせめてもの「温情」を示すとすれば、あの時代にもう一度戻し、そこで余生を送らせるというのが妥当だろう。


「健一は、元いた場所に戻ったのね」


 洋子からの返答はなかった。恐ろしい人だ、と恵は思った。「処刑」であれ「温情」であれ、常にためらうということがない。恵が本能的に身の危険を感じたのは、その直後だ。


 あの人ならば、埋もれていた記憶に気づくときが来るかもしれない。


 恵の脳裏に小田切が死んだ日の事が甦った。あの日、小田切と二度目の会話を交わした時、恵は自分の部屋でなく「どんぐり村」の事務室にいた。小田切が煩わしく、アパートを出ていたのだ。小田切はアパートに電話が繋がらないので「どんぐり村」に電話をかけた。その時の会話が小田切の死を決めた「じゃあ、いっそ死んでみたら」だったのだ。


 もし、あの時の小田切との会話を、母さんが少しでも聞いていたとしたら。通話の後、階下に降りようとした恵は、一階から上がってきたヨウコと階段ですれ違ったのだった。


 二階に誰かいる?とヨウコに聞かれ、恵は「誰も」と答えたが、もしかしたら会話のようなものを小耳に挟んでいたかもしれない。もしその時の記憶が現在の母の脳裏に甦ったとしたら、小田切を死に追いやった原因は恵にあると気付くだろう。


 そうなれば、もっとも罪が重いのは自分だ。いったいどのくらい、飛ばされるだろう。


 健一が十四年。自分が「処刑」されるとすればそれ以上だろう。


 二十年では済まないかもしれないな。恵は窓の外の闇を見つめながら、密かに覚悟した。


 できるだけ、母から離れなければ。あるいは、離れていても、母の力は私に及ぶのかもしれない。だとしたら逃げても無駄だろう。刑が「執行」されるまでの猶予にすぎない。……まあいい。飛ばされたら、飛ばされた先での人生を全うするだけだ。


 車窓の外の闇が、次第に濃密さを増していった。遠くに行くつもりでも、結局は同じ場所に戻ろうとしているのかもしれない。


 どこから来てどこへ行くのか、結局、人は選ぶことはできないのだ。

 恵は座席の背もたれに体を預けると、ゆっくりと瞳を閉じた。


                〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虹と雪の跳躍 五速 梁 @run_doc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ