第5話 望まざる跳躍の果て
2002年 10月
五つの輪を模った紋章が、強い日差しを受けて鈍く光っていた。
健一は階段の手前で足を止め、尖塔の黒ずんだタイルを見上げた。
あれからもう三十年も経つのか。
三十年前の冬、この同じ場所でにわかには信じられないような体験をした。そのことを思い返すと、再び足を踏み入れることに対し、禁忌に触れるような恐ろしさがこみあげてくるのだった。
まあ、これも運命だな。
健一は階段を上り始めた。すぐ隣を男女取り混ぜた人影が通り過ぎて行った。皆、一様に表情に乏しく、足取りもどこかおぼつかない感じだった。
単独で訪れているものもいれば、十名以上の団体でやってきている者もいる。彼等は皆、ここで行われる障がい回復者スポーツ大会の参加者とその世話人なのだ。
健一は自分の所属する施設の人間を探した。『まいぺーす』という名の作業所だ。
仕事中の怪我で脳内出血を起こし、その後も頭痛と抑うつ症状に悩まされていた健一は、主治医の紹介でリハビリを兼ねた通所を始めたのだった。
比較的活動的とみなされた健一は、スポーツ大会への参加を勧められ、返事を保留していた。気持ちが大きく動いたのは、開催場所を知った時だった。
M体育館。健一が三十年前に「飛ばされた」場所だった。
三十年前の冬、M体育館の前で議論していた健一は、議論の最中に突然、意識を失った。再び意識を取り戻した時、健一は驚くべき所にいたのだった。
現実を飲み込むまで、何年かかったことか。
健一が目覚めたのは、1986年の札幌だった。どことも知れぬ街中に倒れていたのだ。
服装は「飛ばされる」前と同じもので、外見上の年齢も1972年の時とほぼ同じだった。時間を超えてしまったという事を知ったのは、目覚めてから数時間後のことだった。
おぼつかない足取りでさ迷い歩く男を不審に思った警官に職務質問をかけられたのだ。
交番で保護された健一は、意識を失ってから十四年が経過していることを知り、大いに動揺した。警察は一種の記憶障害と結論付けたが、健一はそうではないことを確信していた。肉体年齢が意識を失った時と全く変わっていなかったからだ。
その後も、十四年分の自分の「痕跡」を探してみたが、両親はすでに他界しており、「八坂健一」の十四年間を知る者に出会うことはなかった。福祉の助けを借りつつ何とか日々をやりくりしているうちに、いつしか健一の中で「時を超えた」という認識が自明のことになっていった。
なんだかわからないが、俺はこの時代で生きてゆくしかないのだ。
いったん割り切ると不思議なもので振る舞いも変わっていった。履歴を問わない職を探し「飛ぶ」以前と同様、ありふれた若者として社会に違和感なく馴染んでいった。
「飛ばされて」からもう十六年か。いまとなってはあの頃が夢みたいだ。
健一は目覚めてからの日々をしみじみと反芻しながら、体育館に入場した。
結局、なぜ時間を飛び越えたのかはわからずじまいだった。
このままこの時代で家庭でも作り、平穏に過ごせれば過去などどうでも良くなるかもしれない。
そう思い始めた矢先、勤務中の事故で頭部を強打して救急車で救急病院に搬送される事態になったのだった。
観客席が中心の二階スペースは、参加者でごった返していた。主に病院のデイケアと施設、作業所の通所者たちだった。すでにジャージ姿に着替えている者も多く、比較的明るい表情で付き添いとみられる女性に盛んに話しかけていたり、仲間同士でなにやら盛り上がったりしていた。
これといって親しい人間のいない健一はすみやかに観戦スペースへと移動した。元々冬季オリンピックの氷上競技のために作られたM体育館は通常の市民体育館ほど多くの競技フロアがあるわけではない。
健一は一階の巨大な競技スペースでバレーボールの練習をする参加者を眺めながら、自分の所属する施設の顔ぶれを探した。
知った顔になかなか出くわさず、通路の途中で移動をやめて手すりにもたれていると、不意に横合いから健一の名を呼ぶ声がした。首を曲げて声のしたほうを見ると、健一が所属する施設の女性スタッフがスポーツバッグを手に近づいてくるところだった。
「早いんですね。ほかのみんなは?」
髪を後ろで束ねた童顔のスタッフは、張り切った口調で言った。
「まだ、見かけてないです。どこか決まった場所で固まってるんでしょうか」
「さあ……私も来たばかりだから。探してみましょうか。八坂さんが一番のりだったら、私たちで場所を決めちゃっていいんじゃないかな」
スタッフに促され、健一は再び観戦スペースの中を移動し始めた。こうして障がい者の立場になってみると、医療従事者や福祉関係者が相当、気を遣っていることが感じられた。
健一は退職した職場でも、現在の施設でも三十代と言っており、実際、「飛ばされて」以降の十六年をそれ以前の二十二年に加算して、現在の肉体年齢は三十八歳だった。
病院や施設で出会った「同い年」の人々は現在、五十二歳になっているはずで、そのギャップも健一を混乱させた。健一の前を歩いている女性スタッフは健一が「飛ばされてきた」年のわずか数年前に生まれており、本来なら子供でもおかしくない年齢だった。
一体なぜ、あのような長い時間を俺は「跳躍」したのだろう。蓑島や恵はどうなってしまったのだろう。そして飛ばされる直前、なぜ恵は「飛ばされる」とわかったのだろう。
「飛ばされて」以降、健一は蓑島とも恵とも連絡を取っていなかった。これだけ時間が経っていれば彼らの身の上に相当の変化があって当然と思っていたし、それを知ることはある種の恐怖でもあった。もし彼らが存在していなかったら?あるいは健一のように「飛ばされて」いなかったら?
「このあたりにしましょうか」
三列ほどの空きスペースを前に、スタッフが言った。健一は「そうですね」と気のない言葉を返した。健一も一応、バレーボールの補欠選手に登録されている。
練習に二度ほど参加したが、ボレーするのがこれほど痛いとは思わなかった、というのが正直なところだった。とにかく、いまだに施設の仲間とうまくコミュニケーションが取れない健一にとって、積極的に参加するというよりは端っこにお邪魔させてもらっているという感じだった。
「私、ちょっと受付に行ってきますね」
スタッフはそういうと健一を残し、姿を消した。健一はぼんやりと階下の競技スペースを眺めていた。オリンピックの時は全面がスケートリンクで、その後、夏場は温水プールになったらしい。
聞くところによるとプールはすでに機能しておらず、フローリングに改装された時点で普通の屋内競技場になったのだという。当時を知る利用者が「昔はよく泳ぎに行ったよ」と目を細めるのを見て、自分はそれよりさらに昔の世界から来たのだと思わず教えたくなったことがあった。
階段に続く出入口から数人の男女が姿を現した。見るともなしに眺めていた健一の視線が、ふいにそのうちのある人物に吸い寄せられた。人物は、年配の男性だった。やや猫背気味で、頭髪に白いものが混じっており、健一よりも十ぐらいは上に見えた。
蓑島。
〈第六話に続く〉
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