第6話 残酷な時のほとりで


 健一は思わず席から立ち上がりそうになった。年相応に老け込んではいるものの、横顔は紛れもなく蓑島のそれだった。


 健一は素早く頭の中で計算した。「飛ばされた」当時、蓑島は自分と同じ二十二歳だった。現在、蓑島が五十代だとしたら「飛ばされなかった」ということだろうか。健一は不審に思われるのも構わず、男性のいる団体に近づいた。


 数メートルほど離れた場所で挙動をうかがっていると、団体は健一たちの場所にごく近いスペースに荷物を置き始めた。この距離だったら、様子を逐一、追うことができる。


「さあ、練習するか」


 団体の中でも比較的大柄の、リーダー格と思われる男性が言った。蓑島らしき男性は疲れたように観客席に腰を据えたまま、さして興味もなさそうに前方を眺めていた。


 これは運命かもしれない。


 健一は、男性が単独行動をとるのを待つことにした。人違いなら人違いで構わなかった。


 やがて、めいめいが席を立ったり雑談を交わしたりし始めた。蓑島らしき男性は、仲間とコミュニケーションをとるでもなく、彫像のようにじっとしていた。


 幸いなことに、健一の視線には全く気付いていないようだった。動きがあったのは、十分ほど経過した時だった。のっそりと立ち上がったかと思うと、階段の方に向かって移動を始めたのだった。


 チャンスだ、と健一は思った。同時に健一の前に、同じ施設の利用者たちがぞろぞろと到着した。健一は軽く挨拶を交わすと、ごく自然な動作で立ち上がった。蓑島と思しき男性の姿は、階下に消えようとしていた。健一はトイレに行くふりをして男性の後を追った。


 フロアに出ると、男性は健一のほんの少し先をゆっくりした足取りで歩いているところだった。競技場に出るのではなく、トイレに行くらしかった。


 今しかない、そう意を決して、健一は男性との距離を詰めた。そして、周囲に聞こえるか聞こえないかという大きさの声で、男性に向かって呼びかけた。


「蓑島さん」


 反応は鈍いかもしれない。そう思ったのだが、予想に反して男性は素早く反応した。


「……はい」


 振り向いた顔は、年月を経ているとはいえ、まぎれもなく蓑島のそれだった。


「……ご無沙汰しています、八坂です」


 男性を蓑島当人と確信し、健一は賭けに出ることにした。自分の風貌が異様に若く見えるということも踏まえたうえでの発言だった。


「八坂……さん?」


 蓑島の両目が、わずかに見開かれた。予期していた驚愕の表情ではなかった。

「覚えていませんか。三十年前、とある団体でご一緒させてもらっていたものです」


「はて……そんな昔の。失礼ですが、おいくつぐらいの時でしたか」


 蓑島は首をかしげた。とぼけているのか、健一の事を忘れているのか、にわかには判別できなかった。とにかく「飛ばされた」ことを正直に言うしかないと思った。


「信じてもらえないかもしれませんが、僕はあなたと同い年です。小田切という男性が主催していた団体で一緒だったこと、お忘れですか?」


 意識的に健一は蓑島の顔を覗き込んだ。蓑島は、ほとんど表情に変化らしいものを表さなかった。演技ではこういう風にはいかないだろう。健一はわずかに落胆を覚えた。


「……そうですか。私と同学年にしては随分と見た目がお若いですね。うらやましい」


 蓑島はわずかに表情を緩めた。健一はこの時とばかりにたたみかけた。


「それには訳があるのです。聞いていただけませんか。もしかしたら、話を聞いているうちに私の事を思い出すかもしれません」


「そう言われましても……」


 蓑島は困惑したような表情を浮かべた。やはり駄目か、そう思いかけたときだった。少し離れた場所から蓑島の名を呼ぶ声がした。


 声のしたほうを見やった次の瞬間、健一は後頭部をどやされたような衝撃を受けた。そこに立っていたのは何と、三十年前とまったく変わらない姿の恵だったからだ。


 そんなばかな。なぜ、あの時のままなんだ。そしてなぜ、蓑島とこんな形でかかわっているのか。激しく混乱する思考をなだめながら、健一は女性が近づいてくるのを待った。


「あら、蓑島さん、お知り合い?」


 近くで見ても、女性は恵としか思えなかった。しかし、恵の方は健一の事を認識しているようには見えなかった。


「うん……昔どこかで一緒だった人らしいんだけど、よく覚えてないんだ」


「そうなんですか。奇遇ですね。……あ、そうだ、もうすぐ開会式がはじまるみたいですよ。選手の方は競技場に集まってくださいって」


「わかりました。……それじゃ、八坂さん、またどこかで」


 立ち去ろうとする二人に、健一は声をかけた。ここで引き下がるわけにはいかない。


「あの……すみません」


 蓑島が立ちどまった。恵に似た女性はそのまますたすたと歩き去った。やはり、人違いなのか。がっかりしながらも、健一は蓑島に早口で用件を告げた。


「どちらの施設にいらっしゃるんですか?名前をうかがいたいのですが」


「『れいんぼう』という施設です。ここから歩いて行ける距離ですよ」


 蓑島は施設の所在地を簡潔に説明した。健一は礼を言ってその場を立ち去った。もはやスポーツ大会などどうでもよかった。あの女性は絶対に恵と関係がある、そう確信していた。娘か、親戚か、何かわからないがどうしても突き止めたいと思った。


 大会の間にも、何度か蓑島を見かけた。だが、恵に似た女性は常に複数の利用者に囲まれていて、接触する機会が掴めずじまいだった。健一の所属する施設は二回戦で惜敗し、昼食を摂った後、解散という流れになった。


 会場を後にした健一は、その足で『れいんぼう』の所在地に向かった。番地を探すのに手間取り、実際にそれらしい建物を発見した時は体育館を出てから三十分が経過していた。


 ここに来れば、彼女と会えるわけだ。まずは電話番号を調べて問い合わせてみよう。通所希望と言えば、無下にあしらわれることもあるまい。


 中央区にあるアパートに帰宅した健一は早速、インターネットで『れいんぼう』の連絡先を調べた。パソコンとインターネットを始めたのは一年前だった。三十年前にはコンピューターを個人が所有するなどSFのような話だったのになと健一は思った。


 大会が終わるころを見計らい、健一は『れいんぼう』に電話を入れた。応対したのは年配の男性だった。所長と名乗る男性に、健一は見学したい旨を告げた。すると、平日なら作業の終わる三時以降にしてほしいという返答だった。明日の木曜にはどうか、と打診すると男性は結構です、と返した。健一は礼を言って通話を終えた。


 場合によっては、今の所を辞めて、新たに入所してもいいかもしれないな。


健一は恵に似た女性スタッフの顔を思い浮かべた。もし彼女が恵の縁者にすぎなかったとしても、本人を手繰る糸口にはなるはずだった。今日の反応では、二人は健一との関係を認めていなかったが、健一の中ではそれは絶対にあり得ない事だった。


               〈第七話に続く〉

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