最終話


 突然、部屋中を響いていた景壱君の笑い声が止まりました。欲望と妄想が揺れる彼の笑い声が止まったのです。彼はパソコンに接続していたスマートフォンを外し、立ち上がると、私の頭をぽんぽんと軽く撫でた後、ドアノブに手をかけました。

「こやけ。俺、史子さんの所に行ってから、少し寄り道して帰るから」

「わかりました」

「留守番よろしくな。今から雨やから夕焼け見られへんやろ」

 そう言い残すと、景壱君は楽しそうに歌いながら部屋を出て行きました。史子さんの所に行くなら、血の付いたシャツから着替えて行った方が良いと思ったのですが、出て行ってしまいましたし、良しとしましょう。私は居間のカーテンを開きます。鼠色をした分厚い雲が空を覆い、しとしと雨が降ってきました。この雨の名前は何でしょう。夕方に突然降る雨だから、夕立でしょうか。しかし、夕立は夏の夕方に降る雨だったような気がします。きっとこれは彼が降らせた雨ですから、考えるだけ無駄でしょうか。私はカーテンを閉じ、ソファに座りなおします。ここで私は不可解な事実に気が付くのです、ノートパソコンが開いたままなのです。景壱君は普段なら出かける時に必ず電源を落とすかスリープモードにしているのです。が、今は開いたままで、アスカの部屋を映したままです。これはいったい何を意味しているのでしょうか。私は何となく、ヘッドフォンをつけます。音が鮮明に聞こえます。マイクのスイッチはオフになっているようでした。きっと、マウスポインタをこの口マークに合わしてクリックすれば、マイクがオンになるのでしょう。だとしても、私は彼女に何か用事がある訳ではありません。私も景壱君のように人間を観察する真似事を始めてみるのでした。しばらくして、アスカは親に呼ばれたらしく、部屋を出て行きましたが、すぐに箱を抱えて戻ってきました。水玉模様の可愛らしい箱です。私には見覚えがあります。あれは、抹茶プリンが入っていた箱です。私はパソコンの液晶画面を突きます。こうすれば、拡大できることを知っているからです。見事に拡大できました。やはり間違いありません。あれは、抹茶プリンが入っていた箱です。しかしながら、よく考えれば箱なんてありふれたものです。もしかしたら、他の店でも使用しているかもしれません。

 アスカは箱を開封しました。中から出てきたのは、碧い目をした猫のぬいぐるみです。とても可愛いです。誰かからの贈り物でしょうか。しかし、アスカの表情はあまり喜ばしいものではないようです。

「わたし、プレゼントなんて応募してたかな」

 ぽつりと彼女は呟きました。どうやら懸賞で当選したようです。が、彼女には記憶が無いようです。この間も彼女のベッドに置かれたスマートフォンがピロンッポロンッと何かを報せています。アプリのようです。開いた画面を拡大すると、悍ましいほどの罵詈雑言が並んでいました。「なんでこのグループにいんの?」「迷惑なメールをアプリに送ってくんなよ」「化け物に殺されたら良かったのに」「生きてる意味ある?」「死ねよバーカ」「消えろ」等。どうも悪口が幼稚です。どうやら友情というものは彼女に元から無かったようです。彼女は紛れもないいじめられっ子というものなのでしょう。だから、あのような化け物のメールが届いたりするのです。このグループ大多数の願いは「アスカに消えて欲しい」でしょう。私なら大多数の願いを叶えることも簡単です。が、子供ガキは嫌いなのです。だから、願いを叶えようとは思いませんし、彼女が死のうとせずに頑張って生きているのです。それなら、そこを高く評価してあげたいです。グループを皆殺しはどうでしょうか。嗚呼。想像するだけで、キュウッと締め付けそうなほど興奮してしまいます。滾ってきてしまいました。

 荒い呼吸を吐きながら、ふと視線を戸棚に移すと、碧い目をした猫のぬいぐるみが置いてありました。先程アスカが貰った物と同じです。まさか。私の予感はきっと的中しているでしょう。アスカはぬいぐるみを机に飾りました。私は恐る恐るエンターキーを押します。すると、画面が切り替わり、先程まで頭上からの視点だった画面が、ほぼ真横からの視点へとなったのです。これは、あの猫の目を通して、見ているのでしょう。よく見ると、天井にはアーティストのポスターが貼られています。嗚呼。なるほど。そういうことでしたか。私は妙に納得しました。彼がどうやって対象の観察をしているかが気になっていたのですが、まさか、こんなに単純な事だったとは、ともすれば、これは更に動く。私はエンターキーを押します。画面が切り替わります。手が見えます。動いています。嗚呼。嗚呼。

「目」

 私は誰に言うでもなく、声に出して納得しました。そして、急に怖くなりました。私はエンターキーを再び押します。画面は初めのように頭上からの視点へと変わりました。

 私には不可解でした。どうしてパソコンを閉じずに出かけたのでしょう。このままにしていたら、私が触ることを彼は知っているはずなのです。少し前に、私が勝手に触って、怒ったくらいなのですから、触られたくないなら、閉じていくはずなのです。それなのに、開いたままにしておくということは、逆に、触って欲しいから、でしょうか。彼は私に何かを見せたいから、そのままにしている? だとするならば、彼は何を私に見せたいのでしょう。あの碧い目の猫でしょうか。イエ。きっと他にあるはずです。彼が、私に、見せたいことが。

「大雨だわ!」

 アスカの声に、私は画面を見ます。窓を開いた彼女の頭の向こう側は雨が降っています。土砂降りの大雨。驟雨しゅううでしょう。私はふと思い出したかのように、ヘッドフォンを外して、カーテンを開きました。雨が止んで、雲が切れています。私は急いでヘッドフォンをつけなおして、画面を見ます。アスカのスマートフォンが鳴っています。開いた画面を拡大すると「たすけて」「ころされる」「あ」「たす」「ばけも」と文字が並んでいました。アスカは気味悪がって、すぐにスマートフォンを投げ捨てて、布団に包まりました。そういえば、アプリにあのメールをコピペしてから1時間経った頃でしょうか。ですが、景壱君はシステムが違うからどうのって話をしていたと思います。

 私はふと頭に過った恐ろしいことに震えました。ぞくぞくと得体の知れない悪寒が足元から頭のてっぺんまで走り抜けていきました。同時に少し後悔したのです。景壱君にメールの話をするべきではなかった。彼は言っていたではありませんか。「少し寄り道してくる」と。彼はきっと、この人間アスカつもりなのでしょう。彼女をいじめていたと思われる人間たちグループの気味悪い投稿は、景壱君がアスカを助けた事を表しているのでしょう。そして、助けたとすると、彼はきっと代価を要求します。「死ぬ心地を教えて欲しい」と。それは誰もが知る事ができないもの。死んだ人間に尋ねても忘れていて真実を知る事はできない。だから、死ぬ瞬間を記録する為に、猫のぬいぐるみをプレゼントしたのでしょう。仕方ないので、私はまんまと彼の計画に引っかかったふりをすることにします。それが、彼に仕える精霊として最善の選択になるでしょうから。なにより、帰って来たらこう言ってやるのです。「貴方もメールを見て殺人衝動に駆られているではありませんか」と笑い飛ばしてやるのです。きっと私は厳しい罰を与えられるでしょうが、後に苦悩している姿を見ることができるので、愉しみです。ザマアミロ。

 私はマイクのスイッチをオンにし、本日幾度となく見た単語を、ドアが開いて青い髪が見えた瞬間に、口にしました。

貴女を助けるヒト化け物が来ました」








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Fw:化け物が来ます。 末千屋 コイメ @kozuku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ