第十三話
少女は布団から勢いよく抜け出して、部屋中を見回します。そして、口を開いています。きっと何か喋っているのだと思います。音声は全て景壱君のヘッドフォンに流れているので、私には映像情報しか与えられていません。彼は喉の奥で笑った後に言います。
「俺の姿はあなたには見えないけれど、あなたは俺の声を聞くことができる。同時に、俺はあなたの姿を見ることも、声を聞くこともできる。さて、あなたはどうして欲しい? 助けて欲しい? それとも――」
少女は必死の形相で口を動かしています。きっと耳が痛くなるほどの音量で話しているのでしょう。彼のパソコンの左端の音量をあらわす棒が下がったことを私は見逃しませんでした。少女の訴えは心からのように思いました。ひたすらに口を動かし続けています。嗚呼。私が読唇術を学んでいれば、少しは彼女の訴えを理解することができたのではないでしょうか。これは少し勿体無いことをしています。私は、自身で真実を知ることができないのです。少女がどうして他人にメールを転送できないかをはっきりと知ることができないのです。もちろん、景壱君に尋ねれば、教えてくれます。でも、それは、彼が、彼の意志により、彼にとって真実として解釈されたもの。そこにあることが嘘偽りでないとしても、直接知る事と他人から知る事では、内容の意味が異なることもあります。嗚呼。だからこそ、私は今とても勿体無いことをしているのです。未だに血の滲んだままのシャツを着たままなことも、私には不可解なのです。血は赤黒く変色しています。傷口の手当てもまだなのです。もしかしたら、彼は怪我をしていない。そのような可能性も考えられます。私は彼のシャツの袖を引っ張ります。
「何?」
「腕の傷の手当てをするのです。殺人鬼にやられていたでしょう」
「ああ」
プチプチッと袖についたボタンを外し、袖を捲りあげると、切り傷がありました。血の香りもします。嗚呼。興奮してしまいます。私は舌先で傷をなぞります。血の味がします。もう片方の手で頭を軽く叩かれたので、やめます。救急箱を引っ張り出してきて、消毒液をコットンに浸し、傷口を拭ってあげます。シュワシュワ、気泡が出てきました。私が舐めたのに、まだこんなにバイキンさんがいるのでしょうか。もしかして、私が舐めたから、シュワシュワしたのでしょうか。シュワシュワがおさまるまで待って、傷薬を塗り付け、ガーゼを貼りつけました。これでよし。私は満足しました。再び彼の腕に抱き着いて、ノートパソコンを覗き込みます。そういえば、景壱君は声を発していません。少女と会話していないのです。と思っていると、口を開きました。
「自分のメールアドレスと電話番号を確認できる画面にして、右上に向けて」
少女は、景壱君に言われたとおりにメールアドレスと電話番号が確認できる画面を表示して、右上に向かって画面を見せるようにしました。景壱君はキーボードを叩きます。液晶画面にもう1つ四角い画面が表示されました。メモのようです。無機物の音が響き、少女の名前、メールアドレス、電話番号がメモに記されました。なるほど。少女の名前は、細川アスカというそうです。
「うん。それじゃあ、アスカ。俺が今から言う事をしっかり聞いて、その通りに動いて。俺を信じて。あなたを絶対に助けてあげる」
どの口が言うんだか。話しながらも景壱君はキーボードの操作を続けています。彼女のメールアドレスを使って、メールを送っているようでした。相変わらず行動が速いです。これでアスカは化け物に殺されることは無くなりました。景壱君が作成したメールはそのまま放置しているようです。フム。珍しく、きちんと助けていますね。でも、このまま終わってしまうような方ではないでしょう。私は知っています。彼の内面に潜む美しい狂気を。知識欲に駆られた――嗚呼、そういうことでしたか。
「メールをコピーしてグループ会話にでも貼ってしまえば良い。これであなたは助かる。良かったね」
アスカは彼に言われたとおりにして、何度も頭を下げています。右上の方を向いて何度も何度も。どうして姿も見えない声の言うことを信じて行動に移すのでしょう。嗚呼。これが人間が時に言う「天の声」の正体なのだとしたら、彼の影響力は凄まじいものです。と、彼はヘッドフォンを外しました。
「もう終わりですか?」
「これで、アスカは完全に自分が助かったと思い込んでいる」
「思い込んでいる……?」
碧い瞳の透明度が更に上がり、凍てついた視線が私を貫きます。何処までも内面を透通すような瞳に、動きが止まってしまいます。もちろん、彼は心まで読むことはできません。ある程度の推測はできるのでしょうが、完全に心中を把握することはできないのです。だから、私の心を読まれることはありませんし、今読まれたところで私は特に何も考えていないのです。お夕飯が楽しみってくらいなのです。
「一度絶望の淵に追い込まれて、いや、これでは正しくないな。勝手に追い込まれていると思い込んでいた。これが正しい。絶望の淵に追い込まれていると思い込んでいたアスカは、俺が助けた。これで希望が見えた、助かる。もう化け物に襲われることはない。殺されない。死なない。自分は助かった。そう思い込んでいる」
「助けていないのですか?」
「メールはきっちりと10人に転送した。全てデタラメなアドレスだから、彼女の元に戻って来るけれど、勝手に迷惑メールフィルタに引っかかって、彼女は知ることができない。残念なことやね」
「それでは、あの子は化け物に襲われるのですか?」
「いいや。それはない。10人に転送はした。それが届いていなくても、10人に転送したという事実だけは残る。位置情報のシステムも作動していない」
「だとしたら、思い込んでいると言うのは?」
「あっはっはっはっは」
突然景壱君は狂人めいたように笑うのです。細まった目の奥を覗き見ることはできません。私の頬を手の甲で撫でた後、触れるだけの口付けを交わしました。まったくもってどういう意味があるのかがわかりません。それでも少しだけ触れた彼の唇は薄くて、ひんやりとしていたのでした。
「アスカは俺の言う通りに行動した。グループトークに送信された本文を見て、友達はどう思うやろね? 『何でこんなの送って来るの』とかなるやろね。でもきっと誰も信じない。あのまま会話は終了する。だから、あのメールの話はここでおしまい」
「でも、それを送られた友達が化け物に――」
「それは無い。だって、システムが違う。あのメールは、メールだからこそ、動く。アプリに切り替わった時点で、全てのシステムは無意味になる。あるのは、ただのちょっと怖いかなって文字の羅列。そして、アスカは俺がメールを転送しているから、化け物に襲われることは無い」
「だとしたら、助かっているのではありませんか?」
景壱君の言う事が難しくてわからなくなってきました。つまり、ちょっと友好関係に響いたかもしれないけれど、彼女自身は助かったことになります。だとしたら、思い込みではないのです。助かっているのです。
「ククッ。俺は知りたい。助かったと思った途端に、一気に絶望に突き落とされて、死んでいく時の反応。ああ。想像するに、とても無様なんやろな。目に余る酷なんやろな。良いな。知りたい。俺は知りたい。死ぬ心地ってどんなもの? 気持ち良い? それとも気持ち悪い? 苦しい? 想像すれば想像するほど、胸が苦しくなる。これが恋ってやつなんかな。これほど甘美な悩みは無い。俺はまだまだ知らないことが多い。知らないことに溢れている。あれやこれやもっと知りたい。知りたい。これは夢? それとも現のまぼろし?」
まるで演劇でも見ているかのような光景が、そこにはありました。景壱君は饒舌に言葉を紡いでいくのです。朗々とした発声と、興奮からか段々と大きくなっていく身振り手振り。嗚呼。私はどうして良いのかわかりません。こうしている間の彼に関わると、とても面倒なことになるということは記憶にあるのですが、関わらないままでいられる訳もないのです。
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