272:生涯最悪の日に

272:生涯最悪の日に


 生涯最悪の日……いや、二度目に訪れた同等の最悪とすべきか。

 そんな日でも顔色一つ変えぬシェル=フノズールは、イグリス軍本陣内、宰相ビッグバーグの天幕にいた。老騎士の予想よりも一日遅かった呼び出しは、宰相が届け物を待っていたためらしい。


「ベルダラスを斬れ」

「かしこまりました」


 短い言葉に、やはり短く答えるフノズール。

 彼への修辞も彼からの修辞も、今更無用である。飼い主もそのことはよく心得ており、ただ一度頷くことで飼い犬を送り出していた。


「……む」


 天幕から退出した老騎士が明暗差に目を細め、咄嗟に掌で陽を遮る。腕を動かした拍子に懐から一通の書状がぽすりと落ち、彼は屈んでそれを拾い直す。


「ふむ」


 そして思いついたようにその手紙を破り捨てようとした時、天幕の中から追いかけるように【若禿】が歩み出てきたではないか。


「待て、待つんだフノズール」

「いかがしました? ガルブラウ卿」

「う、うむ」


 呼び止めたはずの当人は何故か一瞬困惑した表情を見せたものの……しばらく躊躇った後に背筋をぐっとのばし、会話を再開させる。


「この戦いが終わっても、平和はまだ先のことだ。王領(ミッドランド)は改めてイグリス国内を安定させねばならんし、何よりグランツやフルリールという敵国、ひいては通商連合の強突く張りや聖人教の穢れ坊主どもを相手にすることにもなるだろう」

「でしょうな」


 無感動に頷く、白髪の騎士。


「俺は次期ムーフィールド公爵、イグリス王国の名門貴族としてその先陣に立ちこれからも戦い抜かねばならん。今回の苦戦、その汚名をそそぐためにも」

「私は宰相閣下に、返しきれぬ義理があります。その甥であるガルブラウ卿のご活躍も、勿論本心から願っておりますよ」


 フノズールは無表情のまま、そう返すが。


「伯父貴ではない」

「ふむ?」

「この先は俺が、お前を使ってやる。役目と道を与えてやる。だからベルダラスを討ち取って、見事戻ってこい」


 フノズールは珍しく、少し驚いたように眉を上げ……そしてそれ以上に珍しいことに、「ふっ」と小さく微笑んだのであった。


「……考えておきましょう」



 砂の路面に轍を作りながら枯れ川を遡っていく、一台の幌馬車。イグリス軍司令部が、フノズールを前線へ送るために用意した足だ。

 四頭立てのそれは板バネなどを用いた良品であるものの、荷馬車を急遽人員輸送に用いた趣は払拭しきれない。だが乗客を見れば、納得もするだろう。


「寝ちまったか」


 最大の理由たる、巨体の乗客が口を開く。天使化した元冒険者、チャスである。

 彼の視線の先では、雇い主たる特務騎士ビクトリア=ギナが黒猪戦士団員ヘティーと互いにもたれかかるように眠っていた。

 若い女兵士が寝ぼけて抱きついているため、女騎士は時折うなされるように眉を顰めている。が、近日酒量の増えがちなビクトリアはやはり乗車前にも深酒しており、これでも目を覚まさない様子。


「悪いなチャス君。ウチのヘティーが失礼して」


 溜め息交じりに部下の無礼を詫びるのは、【跳ね豚】ジョン=ピックルズだ。元冒険者と豚子爵は本陣内で何度も顔を合わせているため、既に親交があった。感性的に、気も合ったのだろう。


「コイツはここ最近ずっとこんな感じだから、酒控えろって再三言ってんですけどね」

「確かにこの嬢ちゃん、無理して飲んでる感じがするな」

「……人間ならば仕方あるまい。何かに縋らねば、ヒトの形を保てぬこともある」


 ぼそりと吐かれた、労り。

 その言葉の意外な主に、二人が驚いて視線を向ける。


「なんだ貴様ら、その顔は」


 不快気に眉を顰める老騎士、シェル=フノズール。そう。チャスとピックルズは、彼が討ち入りのため選んだ手練れであった。

 イグリス軍の選抜剣士隊すら容易く屠った【王の丘】へ、いくら一般兵を送り込んだところで意味は無い。あそこで意味を成すのは量ではなく質……それも、群を抜いた質だけなのだから。質を伴わぬ数は、むしろ丘の主を利するのみ。

 それ故に単独でガイウス=ベルダラスに対抗しうるこの二名を手勢としたことは理にかなっており、そして、唯一の手立てと言えただろう。


「いや……何でも無いです。フノズールだんちょ……卿」


 鉄鎖騎士団時代の鬼上司に未だ遠慮のある【跳ね豚】が、言葉を濁す。だが近日特訓で絞られ続けたチャスは遠慮無く、


「無愛想が服着たジジイがそんな優しげな言葉を吐きやがるから、ビックリしたんだよ」


 と切り返していた。

 不機嫌に「フン」と一度だけ鼻を鳴らして返す、老騎士。やりこめたとばかりに、チャスはほくそ笑んでいる。


「へえ……」


 豚子爵は昔の印象とは異なる面を見せる元上官に戸惑いを浮かべたが……丁度寝ぼけたヘティーがビクトリアの軍服に手を差し込み始めたため、慌てて引き剥がしにいくことで誤魔化していた。


「コイツ、どういう寝相してんだ……すまんな、ウチの姪が度々」

「構いませんよ、豚の旦那。人肌があるせいか、ビクトリアも寝心地がいいみたいでさぁ」

「これで普段より、よく眠れてるのか……」


 苦しげに唸るビクトリアを、呆れたように眺めるピックルズ。しかししばらくしてふと気付いたらしく、首を傾げる。


「ん? 何だチャス君、ビクトリア嬢と付き合っているんじゃないのか」

「は!!?? いやいや違いますよ!」


 仰天した顔で目を白黒させ、手を振るチャス。異形らしからぬ人間くさい仕草だが、それは人格と理性がはっきりヒトのそれを維持している証明でもあるだろう。


「いやだって、寝泊まりの天幕もお前たち一緒だろ。俺はてっきり……」

「あー、そういうんじゃあ、ありませんて」

「何だ、違うのか」


 肥満子爵が、またその首を傾げた。


「コイツはその……そ、何というかホラ、放っておけない親戚の子みたいなモンですか。それでついつい、とね」


 チャスはそう言って話を濁したが、年配者相手には有耶無耶にしきれなかったらしい。


「いいじゃねえかチャス君。俺たちはこれから一緒に命を賭ける運命共同体なんだ。そういう話の一つや二つ、してくれてもよ」

「じゃあかく言う豚の旦那は、どうして最前線で出張ってるんで? 都市一つ預かる子爵様が、わざわざ兵士と一緒に魔杖や剣を振り回す必要は無いでしょうに。それに聞いた話ですが、【イグリスの黒薔薇】は旦那の友達なんでしょ? やりにくくないんですか?」


 貴族は武門である。とはいえピックルズの立場で一兵卒よろしく最前線に身を置くのは蛮勇が過ぎるだろう。討ち入りとなれば、なおさらだ。


「うちの街ってのは、港町なんだけどな。まあ海運だの漁業ってのは何かと危険も多くて、親を亡くして経済的に困る子供が出たりするんだよ。船一つまるごと帰らねえなんて、海だとままあるからさ」


 ぶひぃ、という音の吐息。


「加えて港町の人間ってのは基本的に気が荒くて、まあグレたりする若者も多いんでな。そういうはみ出し者とか困ってる奴の居場所を用意しようとしたのが、俺の黒猪戦士団の始まりなんだ。だから維持するためには中央への体面も取り繕わなきゃいけないし、おいそれ他人に押しつけもできないのさ」


 この肥満貴族が、団員から「おやっさん」「オヤジ」と慕われる所以であった。


「ガイウスにしても古い付き合いだ。思うところが無いと言えば嘘だが、街や部下のためにもイグリス王国には安定して貰わんといかんからな。あいつを斬るには、十分な理由よ」


 ピックルズはやれやれという顔で首をすくめるが、チャスは肩を落として頷いていた。


「……ご立派じゃないですか。ご立派ですよ、旦那。見た目に寄らず」

「見た目は余計だ」


 笑った拍子にぶひっ、と息が漏れる。


「じゃ! 今度はお前さんのほうだな」

「うぐ」


 真っ正面から語られてしまっては、今更逃げられない。

 チャスはしばらく躊躇した後にビクトリアへ顔を向けると、彼女が眠ったままなのを確認してから、諦めたように息を吐いた。


「俺のはそんな、大したモンじゃあないんですよ」


 四本腕の右上腕が、気まずげに後頭部を掻く。


「……俺の実家は王領の百姓で、五人兄弟でしてね。一番下だけが妹だったんです」

「チャス君、イグリス人なのか!? 他の奴の話じゃあ、西方諸国群の巨体種族だって聞いてたが。じゃあその身体は……?」

「まあ……これは最近、色々ありましてね」

「公儀の魔法研究だ。それ以上は触れるなピックルズ」


 反論を許さぬ口調で、フノズールが元部下を制した。そのため豚子爵は戸惑いで眉を上げたものの、小さく唸ることで話を戻す。


「すまんな、続けてくれ」

「いえいえ。で、妹は小さい頃から嘘吐きでだらしなくて、頭も悪けりゃ素行も悪くてね。言うことは聞かないし無駄に強がりで……まあ兄の目から見ても顔しか取り柄がない、問題児でした」


 ひでえ兄貴だという豚貴族の相槌に、天使化剣士は頷きつつ言葉を続ける。


「俺は道場で剣の筋が良かったこともあって、イーグルスクロウで衛兵の仕事に就いたんですが……そう、よくある話でしょうよ。都会に出た兄を頼ってお上りしてくる、舞台女優志望の小娘なんて」


 苦笑い。


「今じゃあこんな冒険者崩れですけどね。地元が結構因習臭い村だったり、俺も長男だったこともあって、まあ結構偏屈だったんです。仕事のせいもあったのかな、はは……だから『お前に舞台女優なんか無理だ。夢なんか見てないで、田舎に帰ってまっとうに暮らせ』って追い返したんですよ。当然、大喧嘩ですわ」

「妹さんはそれで、家に帰ったのかい」

「いいえ。アイツはその後、ツテもないのに自分で働き口と住処を見つけて、その後も王都に残ったんです。俺には頼らず、自分で夢を追うために。実家には適当な手紙を送り続けて、誤魔化していたらしいです」


 遠い目。


「でも一年くらいした時ですかね。妹がまた下宿を尋ねてきたのは。要件はこれまたありがちな、金の無心です。俺はそれみたことかと思いましたよ。『だから自堕落なお前に都会暮らしや舞台女優なんか無理だったんだ』と説教してまた追い返しました。『村へ帰れ、帰るならその金だけは出してやる』って」


 昏い瞳。


「俺はその時そんな説教じゃなくて、妹がどうして苦しんでいるのかを聞くべきでした。いや、聞くまでもなく察してやるべきでした。兄貴なんですから。他の奴には分からなくても、あの睨み顔が泣きそうな面だってのは……兄貴の俺には分かってたんですから」


 瞼を閉じ、頭を微かに左右へ振る。


「……で、妹さんはどうしたんだい」

「あれは当時もう、質の悪い男に取り込まれてましてね。まあ、やくざ者ですよ。お上りの田舎娘なんか、いいカモだったんでしょう。暴力で縛られ身体を売らされ、酒と薬と病気でボロボロになって……それからまた半年もたたないうちに、妹は水路に浮かんでいるのを発見されましたよ。はは」


 車輪が砂を踏み締める音に混じる、チャスの乾いた自嘲。ピックルズは腕を組んで目を閉じ、唸りながらそれを聞く。

 そこへまた老騎士が、ぽつりと口を挟んだ。


「なるほど。それで、ポッツ一家の事件か」

「え!? 嘘だろ爺さん、知ってやがるのか」

「ポッツ一家は戦後の混乱期、王都の裏社会で急速に勢力を伸ばした集団だ。しかしそれだけに敵も多く、対立組織の襲撃で短期間に全員が殺されたとされている。だがあれは小僧、やはりお前の仕事だったのだな」

「……ああそうだよ。それで王都からノースプレイン領へ高飛びして、俺は冒険者になったんだ。ただどうも手配は出なかったらしく、実家に累は及ばなかったが……」

「当時は戦後の混乱期。公安院も治安組織もやくざ者の抗争ごときにまともな捜査はせぬ。放っておいても貴様に手配書が出ることはなかっただろうな」

「ああそうかい、物知り爺さん」


 その師弟のやりとりを聞きつつ、首を傾げる豚子爵。


「しかしチャス。それがそのビクトリア=ギナ嬢と、どう関係があるんだ?」

「ああいや……」


 言葉を濁し、少々の間が置かれる。


「……死んだ妹の名前もね、ビクトリアだったんです。それだけの気まぐれなんですよ、本当に、それだけ」


 馬鹿みたいでしょう? と言わんばかりに首をすくめる巨躯。

 だが。


「いいじゃねえか、むしろいい。男が命を張る理由なんか、それでいいんだよ」

「見直したぞ小僧」


 一回り以上年上の子爵も、三回り年上の老騎士も……元冒険者の感傷を呆れもしなければ、馬鹿にもしなかったのだ。むしろ彼らは揃って、感じ入ったように深く頷いているではないか。


「や、やめてくださいよ豚の旦那! それにフノズール爺さんまで……まったく、あんたが俺を褒めるなんて、どういう風の吹き回しだよ」

「何を言う。貴様に初めて見所を見出したから、褒めてやっているのだ」

「こ、このクソジジイ……」


 異形の頬を気まずさで染めつつ、持ち上げた拳を震わすチャス。

 元冒険者はその姿勢のまま何か言い返そうと必死に考えていたようだが、しばらくして妙案を思いついたらしい。


「なあ爺さん」

「何だ」

「俺と豚の旦那は、どうして戦うかをちゃーんと話したんだぞ? 今度は当然、爺さんの番だぜ。何でそんな老体に鞭打って、元部下を斬る命令を受けたのか、なんてよ」

「ふむ?」


 問われたフノズールが、顎に手を当て考え込む。


「俺たちは運命共同体って奴だろ? だったら爺さんの昔話ぐらい、聞かせてくれよ」

「いやチャス君。フノズール卿って昔から、あまりご自身の話はされないん……」


 ピックルズは割って入ろうとしたが。


「小僧の言い分も、もっともか」

「フノズール卿!?」


 目を点にして、豚子爵が老騎士を見る。元部下からして、意外な反応だったらしい。しかしそれもあって話は、一気にチャスから逸れたようだ。


「何、私の場合は単純な話だ。このシェル=フノズールは宰相閣下に義理がある。だから請われれば、断れぬ」

「いや……その義理ってのを話せよ爺さん」

「ふむ、確かにな」


 頷く老騎士。彼はしばらく顎をさすり黙っていたが。


「……妻が居る」


 表情を変えぬままチャスやピックルズから視線を外し、言葉を吐く。


「特段華々しい恋愛沙汰の結果では無い。出世と世間体のために身を固めておいたほうがいいこともあり、よくある貴族間の紹介で迎えた妻だ」


 ぼそり、ぼそりと。


「私は武しか知らなかった。だから武で働くことしかできなかった。だが妻は家庭をまるで顧みぬ年の離れた夫に愚痴一つ言うこともなく、私が職務や戦で不在の間、ずっとフノズールの家を守り続けてくれた。いや……私が妻を残したのは家ではない、家屋に過ぎぬか」


 呟くように続けられる言葉。


「ようやく息子ができたのは、大分後年になってからであった。五年戦争の数年前だな。高齢出産で色々と危ぶまれもしたが、それでも彼女は産み、育てた」

「お、爺さん、息子がいるのか」

「いた」


 過去形。


「子供というものは、とにかくすぐに死ぬ。貴様の村でも数年に一度は、子供が川なり池で溺れる事故はあっただろう?」

「あ、ああ。六つのころ、近所のダチが淵にはまって死んじまったことがあったよ」

「私の息子もそれだ」


 眉一つ動かさぬ老騎士の微かな溜め息を、元冒険者は聞き取った気がした。

 傍らの豚子爵はこの件を知っているのだろう。黙ったまま俯いている。


「知らせを受けても、私は戦地から帰らなかった。そのまま五年戦争終結まで戦場に残り、戦い続けた」

「ま、まあ戦争中の軍人だし。しかも爺さんは最前線の騎士団長だったんだろ? 仕方ねえよ」

「理由を付ければそうだな。だが彼女にそんなことは関係あるまい。遅くして授かった一人息子を失い、夫も支えには来ず……戦争終結後に私が戻った時には、もう彼女の心は壊れていた」


 とん、とん。と指が膝を叩く音。

 車とそれを引く四頭の馬が出す雑音の中だというのに、それはやたらとはっきり聞こえていた。


「小僧。貴様は衛兵を辞めてからノースプレインへ逃げるまで、裏社会の用心棒をしていたのだろう」

「え!? あ、ああ。そうだよ。妹の仇を討つために、色々調べる必要があったからな」

「ならば【聖者の涙】というものも知っているな」

「ああ。戦後の一時期、聖人教圏から流れてきてた魔法麻薬だろ。教団が異端者を屈服させるために使ってたっていう、効果も副作用もキツめのやつだ。まあえらく高いんで、俺の妹が嗅がされていたのは違う薬だったらしいが……」

「妻はその中毒になっていた」

「えっ」

「なっ」


 絶句するチャス。横のピックルズも、驚いた顔を見せている。どうもこれ以降の話は、この元部下も知らなかったらしい。


「心の壊れた妻は、薬物でどうにか人の精神を保っていた。もっともその間に、フノズール家の財産は全て奪われていたがな。それでも私は妻が人間の形を取り繕っていられるように、薬を手に入れる金を用意し続けねばならなかった」

「じゃ、じゃあフノズール卿。横領で鉄鎖騎士団長の職を追われたっていうのは」


 豚子爵の問いに老騎士は答えなかった。だが、それが答えであろう。


「……知りませんでした」

「当然だ。貴様ら部下には知られぬよう、当時の陛下がご配慮下さったのだからな。真相はごく内々で処理され、表向きは稚拙な不祥事ということになっている」


 王室直属の騎士団長が、国庫の金を裏社会へ流していたのだ。確かに、到底公にできることではあるまい。だからそう望んだのだ、国も、本人も。

 同時にそれは、この老騎士が周囲に頼るような器用さを持ち合わせていないことを、元部下に思い出させていた。だからピックルズは、「どうして当時に話してくれなかったのですか」とは言わぬし、言えぬ。


「その後王都を離れた私に手を差し伸べ、ある監獄長の座を用意して下さったのが……ムーフィールド公爵エグバード=ビッグバーグ。今の宰相閣下なのだ」


 知己よりも、無縁な相手のほうがむしろ頼りやすかったのだろう。この場合、いや、この男の場合。聞き手二人も、それが分からぬ若輩ではない。


「なあ爺さん。その、奥さんはどうなったんだ……?」


 恐る恐る尋ねるチャス。


「薬が失われたことで、妻の心は本当に壊れてしまった。その後は監獄病棟の一角で、息子を模した人形に話しかけ続ける、虚ろな日々を送っている。ただ……」

「ただ?」

「……私が部屋に入った時だけは、正気に戻るらしい」

「そ、そうなのか」

「だからまるで怨霊のような形相で罵り、恨み言を浴びせてくる。私はそれを聞きに行くことだけが、生きている理由なのだ」


 フノズールは小さく嗤った後に無表情へ戻り、それきり黙りこんでしまう。

 チャスとピックルズも最早それ以上話を続けることはできず……止むなく目を閉じて、休むことを強いられたのであった。

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