第7話 想像の庭

 頭の中の靄が晴れると、すっかり世界は変わっていた。


 俺のやるべきことは、寝ることや、歩くことや、話したり書いたりすることだった。そういうのは手段であって目的にはなりえないんじゃないか、と思う。だが倒れる前、連日ディスプレイにずっと向かっていたのだって、いま考えるとばかばかしいくらいに「手段」でしかない。だから、いざおまえの目的は? と問われても答えられる自信はなかった。


 リハビリも手段、リハビリによって病気から回復するのも、そのあと次の仕事を探すのも、たぶん手段だ。ではいったい何が目的なんだろう。わからない。


 俺は、異動を知った瞬間、辞めることを決めた。休職期間が終わり次第、就職活動だ。それまでに、なんとか身体の回復を間に合わせたい。


 妻は、優しくなった。前から優しかったが、母親のような優しさを見せるようになった。俺の身体には麻痺があるが、不能者じゃないぞ。子供あつかいするな、と言いたい。妻の顔は最初やつれはてていて見るに耐えなかったが、俺の失語が回復しはじめて、リハビリが軌道に乗り出してからは、むしろ昔の溌剌さを取り戻しつつあった。今の俺に何か目的があるとすれば、それは妻とエッチなことをする、だ。それに尽きる。また忙しくならないうちに、今までのブランクを取り戻さなければ。そのために、リハビリを続けなくてはならない。


 記憶が戻るまでの間に鷹崎からのたくさん手紙がきていた。いまや「メンバーの鷹崎」ではなく、名実ともにただの鷹崎だった。鷹崎は、一足早く会社を辞めていた。部長に業務改善の意見書を叩きつけて辞めたのだそうだ。


「ばかやろうが。お前の代わりなんか、いくらでもいるんだ」


 俺は内心で呟いた。

 三流マフィアのようなセリフだ。燃え尽きて干された者の言うことではない。鷹崎は少なくとも、自分の意志を通した。俺とは違うことができるやつだ。


 いま鷹崎は、むかし会社に却下されて俺が封印した企画を、仲間を集めて実現させようとしている。俺はやつの好きにやらせることにした。下手に口を出すより、自由にやらせた方が結果的にスムーズにいく場合というのは多い。生きる楽しみが一つ増えた。


 俺は鷹崎の友人から紹介されたリハビリ専門病院で、三ヶ月のメニューをこなした。あたりまえのことさえ自分ひとりでは出来ない悔しさをかみ締めた三ヶ月。だが同時に、自分の身体は自分で動かさなければならない、俺の意識、「俺」というのは、そのためにあるんだと知った三ヶ月だった。聖なる光は俺を殺すと同時に、甦らせもした。


 リハビリの中心を自宅に移し、そろそろと次の仕事について真剣に考えはじめた頃、遠方から古い友人が訪れた。見舞いに来られなくすまなかったとしきりに詫びる彼を俺は制する。俺こそ、ピアニストである彼の国際コンクール入賞になんの祝いも送ってはいなかったので、謝るなら俺の方が先だった。


「あっちのピアニストはさ、日本とは全然扱いが違うんだ。生まれたときから天才は天才として育てられる。与えられた才能を徹底的に磨くことが神に対する恩返しだって本気で信じていて、かつ周りもそれを百パーセント承知してる。本人がピアノ以外のことには、なにひとつ気を使わなくていいように、全面的にバックアップする。神様に捧げようとしてるんだ。妥協するという考え方がそもそもない。人生とはそういうものっていう了解が出来上がってるから、気負ったり、余計なプレッシャーを受けることもない。それが音楽にも現れてて……簡単に言うと、ものすごくがんばってるのにぜんぜん窮屈な音にならないんだ。敵わないよ。なにもかも敵わない」


 その友人、松岡拓也はそう言って、ふっと息を吐いた。あっち、とはヨーロッパのことだ。彼のワルシャワ暮らしはすでに長い。昔より一段と色素が薄くなった感がある。


「拓也も、あっちの人間なら良かったのにな。生まれる場所を間違えたんじゃないのか」


 すでに俺の失語はだいぶ改善しているが、ややたどたどしい口調になってしまうのは仕方がない。だが拓也はそれに気を止めるそぶりは全く見せない。憎らしいくらいに、外見で人を判断するということがない人間だった。


「いや、どうだろう。僕がヨーロッパ生まれだったら、たぶん埋もれていたからね。日本人でよかったかもしれない。要するに、負けた言い訳を聞いてもらいたいんだ。情けない。でも、こういうことは言える人と言えない人がいるからな」

「俺なら言えるってわけか。別にいいけど。悔しさはないのか?」

「悔しいよ。今だって、暴れだしたいくらいだ」


 たたた、たん。無造作に椅子の端を叩く指が、何か聞いたことのあるフレーズを奏でる。そうだ、ヴェートーヴェンの『運命』っぽく聞こえる。暴れ方まで音楽になってしまうとすると、もはや職業病だ。


「手を傷つけるなよ。国の宝だ。しかし、世界で五本の指に入るっていうのに、やっぱり負けると悔しいんだな。安心した。だけど、もう少しうれしそうな顔をしてもよさそうなもんだ。入賞だって十分すごいことじゃないか。自慢したいって思わないのか? それとも、それも言える人と言えない人がいる?」


 そう言うと、拓也は笑い出した。


「そうそう。僕はそういうことが言ってほしいんだな。君に免じて暴れるのはよそう。本当は自慢もしたいんだ。でも嫉妬しない?」

「嫉妬するよ。ていうか、してるよ。僕だけじゃなくて、みんな。期待と嫉妬はうらはらだからね」

「怖いな。うん、怖いというのが正しい」

「なにがよ。嫉妬が?」

「いや、そうじゃなくて。期待も嫉妬もさ、僕にはもともとなかったものだ。そんなものがなくても、僕はピアノを弾いていたし、弾けるんだと思う。だけど、一度そういうのをエネルギーにしちゃうと、次にそれがなくなったときに、果たして元に戻れるんだろうか。自慢したいっていうのは、他人のエネルギーが欲しいってことだろ。最近まで、自慢したいなんて思ったことなかったからね」

「確かに誉められて育つやつも、反骨精神で育つやつも、他人をエネルギーにしてるという意味では同じだな。自家発電できるやつは、そんなものは必要ないか。てことは、拓也のモチベーションが下がってきてるってことか? そりゃ深刻だ。贅沢な悩みではあるがな」

「うん。今までは、単純に生きるためにピアノを弾いていたと思うんだ。僕にはそれ以外になにもないから。だけど、いつからか、何かが変わった気がする。何が、どう変わったのか、よくわからないけど」

「ヨーロッパの連中が持っていて、拓也が持ってないものならあるな。さっき拓也も言ってたけど、宗教だよ」

「宗教ねえ。そうなのかな。僕にはピアノを弾くのに宗教は必要ないと思うけど。でも、近いかもしれないな。なんでピアノを弾くのか、そのなんでがわからないってことだからね。青いなあ。もう少し僕は大人だと思ってたんだが」

「好きだったり、楽しかったりするだけでは満足できないのかな。それでいいんじゃないか?」

「ああ。たぶん、その結論が楽ちんだよね。そういうことにしておくか」


拓也は椅子から立ち上がり、窓を全開にした。


「いい天気だ」


椅子に腰掛けたまま俺が言うと、拓也は振り返った。


「覚えてるか。あの病院のこと」


 忘れるわけがない。遠い昔、病院の待合室。カメラのおもちゃで遊んでいた俺のところに、拓也がやってきたのだ。


「もっと別のやりかたがあるだろ、だ」


 あの子のことが気になるなら、もっと別のやりかたがあるだろ。その言葉から、俺と拓也のつきあいがはじまった。


 病院に気になる女の子がいた。俺は持っていたカメラのおもちゃでその子をとらえようと必死になったが、かえって避けられた。いま考えれば当たり前だが、俺は子供だった。その子の友達だった拓也は俺の想いに気付き、そのセリフを言ったのだ。


 俺は言われたとおり、一生懸命別のやりかたを考えた。そして、花と、大事にしていたカメラのおもちゃをプレゼントすることにした。小学生にしては洒落たプレゼントだと思った。拓也からその子にふさわしい花も教えてもらった。月桂樹という花を。


 だがその花は、結局渡せなかった。その子に会いに行った先で、別の男の子とけんかになってしまったのだ。カメラのおもちゃを持っていたのがいけなかった。その男の子はたまたまひとりで泣いていて、泣いているところをカメラで撮られると思ったようだった。普段は子供のそばを離れないという病院の先生も、泣きやまなくなった男の子のために精神科の先生を呼びに行っていて、いなかった。


「あいつ、むちゃくちゃ強かった。声も出さずに、泣きながらぶんぶん殴ってくるんだぜ」


 カメラは潰され、花はむしられてしまった。俺は気が付いたら、ベッドの上で寝かされて治療を受けていたのだ。


「その男の子、声の病気がなかなか治らなくて、追い詰められていたんだよ。追い詰められたやつっていうのは強いんだ」


 拓也は、はたして自分もそうであるかのような口ぶりで言った。


「だまされた。なんだよ、別のやりかたって」

「知らないよ、僕に聞くな」

「お前だって似たようなもんだったんだ。ピアノのジュニアコンクールで優勝するまでひと言も喋らない、って自分で決めてたんだからな。根を上げないように。周りの大人はいい迷惑だったろうよ」

「昔のことだよ」


 拓也が苦笑する。

 俺が横たわるベッドの脇で、ひたすら頭を垂れていた小さな拓也を思い出す。その後しばらく、拓也は悲しい印象の曲ばかり弾いていたという。


「あのとき確か」


 拓也が懐から写真を取り出し、こちらによこした。


「枝を持ってただろ」

「ん?」


 見ると、ブラインドを背景に花瓶に生けられた枝が一本だけ映っている、寂しげな写真だった。見覚えがある。どこかで見た。どこだ。


「けんかの後、治療を受けてベッドに寝てるあいだも、葉っぱも花も落ちたその枝だけをずっと握り締めていたんだ。覚えてない? 先生が取ろうとしても、握る力がきつくてぜんぜん取れなかったって」

「そんなことが……」


 あった、かもしれない。よく思い出せない。写真を見る。枝は、あのときの枝なのか。渡そうとして果たせなかった、敗北の象徴。


「ほら、あのとき僕と一緒に、年上のお姉さんがいただろ」


 いたような、いなかったような。拓也が言っているのだから、いたのだろう。それも、よく思い出せない。


「あの人がね、これはぜったいに撮っておかなきゃいけない気がする、って。お前が寝てた病室にカメラ持ってきて、撮ったんだよ。それがその写真」


 何か、足りない。いや、むしろ余計なのか? 違和感がつのった。この写真のあるべき姿は、このままではない。


「あのカメラのおもちゃってさ、まだあるの?」


 拓也が窓の外を眺めながら問う。家の前の桜のつぼみが膨らんでいた。


「ある」


 あるはずだ。なぜか、最近見たような気がする。杖を取り、立ち上がる。


「カナエ、きせかえカメラはどこに置いたっけ?」


 妻を呼ぶ。

 妻はなぜか恥ずかしそうに微笑しながら、それを持ってきた。


「ああ、これだ」


 セロテープでべたべたに補強された部分は黄ばみ、その後の年月がすでに外観をぼろぼろにしているが、まだカメラの原型をとどめていた。自分のデザインした服を着せたい人にすぐ着せられるという、ドラえもんの秘密道具。カメラ上部のスロットに入るはずの付属の洋服カードは、あっというまになくしてしまっていた。病院の待合室を思い出す。自分で洋服の絵を描いてカードを自作しては、あの子に着せようとしていた。


 ファインダーを覗く。向こう側が見えない。スロットに、何か入っていた。

 取り出してみる。折れ目がつき、穴の開いた写真だった。拓也にもらった写真と同じもの。穴は、歯で噛み千切ってあけたようだった。きっと俺がやったんだ。


「なんでお前がその写真を持ってるんだ?」


 拓也は目を丸くしていた。彼が驚く顔なんて、数えるくらいしか見たことがない。


「主人のお見舞いにそれを持ってきてくれた人がいました」


 妻はその破れた写真を受け取り、穴の開いた部分を見つめた。


「覚えてないかもしれないけど、あなた、その写真を入れたカメラでいろんなものを撮ろうとしていたのよ」


 俺は、何をしようとしていたんだろう。記憶が曖昧だった間、俺は夢の中にいたような気がする。でもこれではっきりした。この写真は、こうやって使うべきものなんだ。確信があった。


 机の引き出しを開け、カッターを取り出す。妻があわてて駆け寄る。俺は拓也から貰った方の写真を感覚の鈍い右手でおさえ、左手のカッターでブラインドの部分をそっくり切り取った。それを、きせかえカメラにセットする。


「拓也」


 それを拓也に渡す。


「お前のだ」

「僕の?」


 拓也は訝しげな目でそれを受け取った。カメラの裏に書かれた「たくや」の文字は、目を凝らさなければほとんど見えないほどかすれていた。水滴が乾いたような滲みのあとだけが、やけにくっきりと残っていた。


「どうして?」

「あの子は、お前のことばかり見ていたからな。あの子のほんとうに欲しいものは、俺にはあげられない。それが俺の考えた、別のやりかた、だ。名前だけ貸してもらった」

「ほんとかよ」


 拓也は苦笑した。


「ませた子供だ」

「失敗したんだ。許せ」


 俺は杖を持ち直し、窓辺へと歩く。


「のぞいてみろ」

「ああ」


 拓也の細く長い指がきせかえカメラを構える。


「こういう使い方があったとはね。冬枯れた小枝が、春の夢を見ている。そんな感じだよ。枝が生き返った」


 窓の外では、春を待つ桜が身をよじるように、風を受けていた。


「拓也さん、ギリシャの音楽の神様の話はご存知ですか?」


 妻がいつの間にか俺の隣に立っていた。妻の歩みというのは、ほとんど足音を立てない。いつもこうやって、知らないうちにそばにいて、俺を支えているのだ。


「いえ……カナエさん、ひょっとして宗教のところから話を聞いていたんですか? 油断ならないひとだ」


 拓也がカメラを手にしたまま、カラカラと笑う。拓也は笑い方もどこか音楽的だ。


「音楽の神アポロンは、愛の神をからかった仕返しに、愛を芽生えさせる矢で撃たれてしまいます。同時に愛の神は、愛を拒絶させる矢でダフネという河の神の娘を撃ちます。アポロンはダフネに求愛をするのですが、もちろん拒絶されます。ダフネはアポロンから逃れるために、最後には樹に変身してしまいます」

「ひどい話だな。それじゃダフネは完全にとばっちりじゃないか」


 その音楽の神様にしても、敬うべきところが見当たらない。だが妻はその返答を待っていたように続けた。


「その話には続きがあって、樹になってしまったダフネの姿にアポロンは悲しみ、その樹の葉をずっと身につけるようにしました。音楽を奏でるときも、竪琴を葉で飾り、ダフネに届くことを祈り続けて……私は、少しうらやましいと思いました」

「そうか……宗教っていう言葉を使うからいけないんだな。祈ること、か……ありがとうカナエさん。それを聞いたら、すごくピアノが弾きたくなってきたよ。負け惜しみを言ってる場合じゃないな。僕にも、そんなことができるのだろうか」


 拓也はカメラから目を離し、傷だらけのレンズを自分に向けた。

 きせかえカメラは、生命を想像力で飾るだけではない。想像力に、生命を吹き込む。


 生と死の境で、俺は夢の世界をさまよった。そこにひろがっていたのは、俺自身の想像力の墓場。墓標は一本の枝。だが墓下でまだ動くものがあった。今、ようやく分かった。俺は墓守をやめて死人使いになるために、ここへ戻ってきたのだ。


 ブラインドの外に、何を見るか。俺は目を瞑る。


 想像する。写真を撮った本人にも知り得ない世界が、そこにはひろがっている。


 想像する。幼い頃、果たせなかった夢の続きが、そこにはひろがっている。


 想像する。きっと、そこには美しい庭がある。真ん中に、一本の若樹がそびえている。


 そのとき枯れ枝は、役割を終え、眠りに着くものだけが持ちうる、安らぎに似た表情を浮かび上がらせる。


 俺が思うに、真の勝利者とは、きっとそういう顔をしているのだ。


 ――― 了 ―――


 *    *    *


【きせかえカメラ】

 ドラえもんの秘密道具のひとつ。気に入ったデザインの服を着せたい人にすぐ着せられるカメラ。デザイン画をカメラに入れ、ファインダーを覗きながら位置を合わせ、シャッターを切る。すると、分子分解装置が服を作っている分子をバラバラにし、定着装置(分子再合成装置)がそれを組み立て、別の服にする。絵や写真を入れないでシャッターを押すと、衣服を分解するだけで再構成しないので、裸になってしまう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダフネの祈り エディ・K・C @eddiekc3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ