三章 本
あの研究所と関わることになったのは、現在から一年ほど前――桜花が十八の頃だった。
荒れた毎日を過ごしていた。小学生の頃からいじめられていたが、高校に入ってからは暴力も振るわれるようになり、その苦痛に耐えられずに反撃をした。そのとき相手に大怪我をさせ、それが学校に一方的な暴力と受け取られ、退学になった。両親は幼い頃に亡くなっていて、預けられていた親戚の家ではもともと迷惑に見られていたところに、蔑みが加わった。
味方のいない、居心地の悪い家に世話にならなくても、自分はもう一人で生きていける。
桜花はそう自分に言い聞かせ、親戚の家を黙って出て行くものの、行き場所はなかった。しかたなくわずかな友人の家を転々とした。
金を稼ぐためにバイトしようとしても、どこもすぐにクビになり――今思えば、高校を退学になった経緯が、人脈をもった誰かによって言いふらされていたのかもしれない――そしていつしか犯罪に手を染めて金を作るようになった。自分を汚してばかりの日々が続いた。
そんなある日だった。引ったくりのカモだと目をつけた女が、目の前で数人の男に囲まれ、目の前で路地に連れ込まれていった。
何もなかったことにして立ち去ろうとしたが、女の悲鳴が聞こえて、なぜか頭に血が上った。そのときなぜそんな行動をとったのか自分でも意味不明だったが、今思い返すと女の声が、亡き母親の声に似ていたのかもしれない。
桜花は路地に足を踏み入れ、警告もなく男たちに殴りかかった。女を逃がすことに成功し、男たちを降伏させた。だが、リーダー格の男が何か訳のわからない言い訳を始め、それにまた頭に血が上り、何度も何度も殴った。気がつけば男の仲間は他には誰もいなくなっており、男も顔面血まみれなっており、まったく動かなくなっていた。
殺してしまったのか。
体が震え出し、頭が真っ白になった。
桜花は逃げ出したいと思ったが、足が動かなかった。今まで犯罪に手を染めてきた経験があるとはいえ、それは冷静な思考あっての行動だった。自分を見失ってここまでしてしまったことが信じられず、恐ろしく、動かない足は、どんなに恐ろしくても自分自身からは逃げられないと言っているようだった。
目の前の死体が自分を責めているようで、吐き気がこみ上げてくる。女に暴行しようとしたこんな腐った人間は死んで当然だと何度も自分に言い聞かせた。
そのときだった。死んだ男の体から、奇妙な丸い光が浮き上がってきたのは。
野球ボールより少し大きいくらいの、その光の玉は浮遊し、桜花の横を通り過ぎていった。
混乱しながらもその玉を目で追うと、路地の入り口に、頬のこけた針金のような男が立っているのを見つけた。頬のこけた男は小瓶のようなものを持っていて、光の玉はそこに吸い込まれていった。
その光景を桜花は呆然として眺めていた。
「おや」
頬のこけた男が声を発したことが、こちらに声をかけてきたのが、異常に恐ろしかったのを覚えている。
和やかな声、柔和な表情。
こいつはこの状況を――人が死んでいるという状況をわかっているのか?
桜花の戸惑いを無視するように、針金男はさらに口から言葉を発した。
「めずらしい。あなたも見えているようですね」
桜花は震えるばかりで何も答えられなかったが、頬のこけた、おそらくは自分よりも年下であろう男は勝手に話を進めていく。
「今あなたが見た光は、魂の光です。わかりますよね、魂。生命ソノモノのようなものです。僕はこれを集めるのが仕事で、予言によると今日ここに死人が出るということだったので参上した次第です」
話を聞いても、うまく意味が飲み込めなかった。こいつに人を殺した現場を見られた。理解できたのはそれだけだった。こいつを殴り倒して……いや、殺してでもこの場から逃げるべきか。
「ああ。僕を殺そうなんて考えてるんなら、やめたほうがいいですよ。生きた人間から魂を取るのも、才能のある者にとっては、そう難しいことではないですから」
そう言うと、頬のこけた男は桜花に向けて、指で何かを弾くような仕草をした。すると、頭から何かが抜け落ちたかのように、一瞬で意識が遠のいていく。思わず膝を突く。
「魂が頭から離れている状態です。魂の糸は体とつながっているのですぐ戻せます。こういうのが僕の能力で、魂を集めるのが仕事なんです。ご理解いただけたでしょうか」
頬のこけた男がまた指を動かすと、遠のいていた意識が戻ってきた。理解はした。だがこいつは何が言いたいのだ。いつでも殺せる能力があるのなら、自分を殺す可能性のある男をさっさと殺すなりなんなりしてしまえばいいのに。
「ただね。こういう魂に関しての才能を持つ者は、本当にごく稀にしかいないんですよ。僕がいる組織の中でも、僕一人しかいない。集めなければいけない魂はたくさんたくさんあるのに。だからね、僕は君をスカウトしたい」
同意してくれれば住む場所も提供できる、と一方的に説明を始める。だがその内容は毎日寝床にも困る桜花にとって好条件とも言える話で……そして。
「断ればこのまま殺人犯として警察に突き出すまでですが、受け入れてくださるのであればこれくらいの事件をもみ消す程度の力、うちの社長は持ち合わせていますよ」
選択の余地のない話をされ、結局、桜花は得体の知れない研究所と関わる道を選んでしまった。
その生活は軟禁に近い状態だったが、衣食住に困ることはなかった。与えられた仕事も、殺しをすることはなく、占いだか予言だかで場所が特定された事故現場で出る死人の魂を回収するというものだった。
魂を用意する桜花は人を殺さずにすんでいたが、肉体を用意する側は傷のない肉体を用意しなければいけないため、殺しは行われていたらしい。女たちが殺されて実験されているという話はあまり気持ちのいいものではなかったが、無視してしまえば特に問題のない生活を送ることができた。
淡々とした生活が続いた。楽しいと思ったことはなかったが、裏切ろうと思ったこともなかった。
それが今は、研究所にとって一番大切なものを盗んで、隠れて生活をしている。
なるべく御影を外に出さないように、人の目に触れないようにして、自分もなるべく目立たないように生活物資を用意する。窮屈だが、御影と一緒にいられることを考えたら些細なことだ。
研究所を裏切ったことに罪悪感はないが、追っ手がいつ自分たちを見つけ、この生活を終わらせられるか分からない、という恐怖はある。それを回避するために何ができるか。
御影を欲しがっているのは、娘を生き返らせたがっている瀬藤であり、瀬藤にとって御影を価値のないものにしてしまえばいいのではないか。
生贄としての条件は十八歳の少女であること。ならば一年間逃げ切って、御影の体を十九歳にしてしまえばいい。だが果たして、一年間も自分は逃げ続けることができるのか。自信はなかった。
ならば瀬藤の娘を生き返らせる方法が、もうひとつ見つかればどうだろうか。あるいはその《神》なる存在を確実に呼び出す方法を見つける。
それで手を切ってくれるのかという確証はないが、取引材料が何もないよりはいいだろうと思っていたところに、その古本屋を見つけた。
昔は賑やかだったのだろうが、現在はシャッターが下りている店ばかりが立ち並ぶ通りに、その店はポツリと明かりをつけて、客を受け入れていた。古めかしい看板に、見たことのない漢字で店名が書かれている店だった。
もしかしたら霊的な書物というのは、こういう所にひっそりとあるのかもしれないと思い、桜花は中に足を踏み入れた。
「やぁ。お客さんなんて久しぶりだ」
古本屋の店主が声をかけてきた。眼鏡をかけていて、髪の毛に白いものがちらほらと見える、初老の店主だ。にこやかに客を迎えた店主は、
「どういったものをお探しで?」
と訊ねてきた。桜花は自分で探すと断ったが、店主は、
「なら、一番左端の棚あたりがお勧めだね」
と指をさした。
一瞬この店主は何かを聞き違ったのか、それとももしかしてすでにボケているのかと疑いつつ、桜花は言われたとおりの棚に向かった。
するとそこにはオーパーツに関する本や、都市伝説や世界の不思議に関してなどの、テレビのミステリー番組で特集が組まれていそうなタイトルの本があった。それと並んで、霊的なことや魂のことを連想させるようなタイトルの本が置かれている。
何も言われずそのタイトルを見れば胡散臭さを感じただろう。だが、あの店主の勧めは何だったのだと思うと、混乱と恐ろしさの中に、真実味が隠れているようなそんな気がした。恐る恐る手にとってみる。
手に取った本は幽霊やら死後の世界の話やら、ありふれたオカルト話が書かれた本だった。すぐに棚に戻し、他のそれらしき本を開くが、自分の知っているあの丸い光の魂に関して書かれているものは見つからない。
「お兄さん。探しているものは見つかりそうかい?」
店主の声に桜花は手に持っていた本を棚に戻しながら「まだ……」と小さく答える。
次に手に取った本に、なぜか何か不思議なものを感じた。開いてみると思わず「これ……」と声を漏らした。自分の知る魂のことが書かれている。
死んだ体に別の人間の魂を入れ生き返らせる方法や、魂が宿りやすい人形に魂を入れ、動く人形を作り出す方法などが書かれている。自分が知りたかったのはこういう類の情報だと――しかし本当にこんな本があったのかと驚きながら、桜花はページをめくった。
肝心の、死んだ体に本人の魂を入れて生き返らせるという、その方法は見つからなかった。しかしそれを見た時ドキリとして手を止めた。
魂を人間の体から引き抜く方法……。
言い換えれば、魂を抜き取り、殺す方法……。
追っ手が自分たちにたどり着いた場合、簡単に殺すことができれば逃げ切ることもたやすくなる。習得しておいて損はないのだろうが……。
その時が来たら、その力を持っていたら、確実にその人間を殺すことになるだろう。そしてその時は確実に来る。そう考えると一瞬、ぞくりと体に怖気が走った。
が、すぐに何をいまさら聖人ぶってるんだと自嘲する。
あの研究所に関わることになったのは、人を殺したからじゃないか。
思い出すとこみ上げてくる吐き気を無視し、桜花はその本を購入することに決める。
気がつけばすでに陽が落ちる時間になっている。御影はすぐに寂しさで泣き出すから、早く帰ってやらねばと思いながら、カウンターに購入することにした本を置く。
すると店主は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そうですか、そうですか。しかしねお兄さん。気をつけたほうがいいよ。闇に捕らわれるとね、闇に自分を奪われることがあるから」
店主はこの本の内容を知っていて、この非科学的な本の内容を信じて言っているのか。ならば人を殺しうる本を購入する人物に、なぜ笑顔を向けているのだ。闇に奪われるとは何だ。見透かすことばかり言うこの初老の店主は何者なのだ。
「……こんな本、本当に信じて実行する奴なんかいるのか? ただの好奇心だよ、実行するわけない」
店主の言葉に戸惑い、桜花は思わずそう口にしていた。すると店主はさらに顔をくしゃくしゃにして、
「そりゃあ、そうですわ。実行するわけがない。普通の人が、実行するわけがない」
と、『普通の人が』をやたら強調して言って、その細い体から出るとは思えない大声で笑った。
会計を済ませて店を出る。
寒気を感じる。鳥肌が立っている。
車に乗り、発進させる。ここを早く離れなければいけないと、何かが急きたてていた。
鳥肌が、なかなか治まらなかった。
* * * *
御影が爆弾の解体作業をしているかのような真剣な表情で、チャーハンからピーマンを箸でつまみ上げ、より分けている。それを見て、桜花は半眼でなんとも言えない苦い表情になる。
「おまえな。量は少なめにして、すっげー細かく刻んで、代わりにお前の好きな肉を増やしたってのに、まだそういうことするか? 一緒に食べれば苦いのなんて消えるだろ」
「ウソだもん。まえにマヨネーズいっぱいかければまずくないっていってたのに、ウソだったもん。こんどもウソだもん」
以前出したブロッコリーの話だ。茹でたブロッコリーをマヨネーズまみれにして食べる。桜花はまずいと思ったことがなく、ずっとそうやって食べるものだと思っていたので、そのまま出したら『おいしくないー』と泣かれてしまった。以来『今回はまずくないから』とどれだけ言おうと信用されなくなってしまった。
「ふあー。やっとぜんぶとれたー。じゃあいただきます」
桜花も溜息をつきながら手を合わせ、食べ始める。御影はにこにことして食べながら「おいしいね」と言う。料理の一部をはしょられて『おいしい』と言われてもあまり嬉しくない。が、御影はそのまま手を止めることなく食を進める。
「あれ?」
御影の皿に微かに見えていた緑、それがなくなっている。
「今ピーマン入ってなかったか?」
「えー? うそだぁ。キレイにぜんぶとったもん」
「いや、入ってたって。わかんなかった?」
「ええー?」
「ほら。やっぱり他のと一緒に食べたら、細かいピーマンなんてわかんないんだって」
「ええーー?」
「ためしにそのよけたピーマン、ちょっとだけ入れて混ぜて食ってみろよ」
「えええーーー?」
少しは説得力があったのだろう。ピーマンを食べていないのに食べたような苦い顔をして「むー」と唸りながらも、御影はよけたピーマンが入った小皿とチャーハンの皿を見比べている。
葛藤を続ける御影の足元で餌を食べ終わったモココが、皿から離れてソファの方に移動する。ソファの上に置かれた、開きっぱなしになっている桜花の鞄に頭を突っ込んで何かを漁りだした。
「こら。そんなとこ漁ったってお前の好きそうなもんは入ってないぞ」
いつもはそんなことをしないモココを妙に感じつつも声をかけた。しかし離れなかったので、椅子から立ち上がり近づく。抱き上げるとくわえていた物が床に落ちた。
本だ。
古本屋で買ってきた例の本だった。
すぐに拾い上げ、鞄に入れる。
床に下ろされたモココが、本の入った鞄を見つめている。
「ちょっと俺、この鞄、部屋に片付けてくるから。ヨダレでびちょびちょにされても困るし」
「うんー……」
上の空の返事をしながら、御影はピーマンが入った小皿を手に取っていた。入れてみようかという思いに傾き始めているようだ。
鞄を肩にかけて廊下に出ようとドアノブにかけた桜花の手は、少し震えている。冷静なフリをして廊下に出る。するとなぜかモココもついてくる。
「なんだよ、食いもんなんて持ってないぞ?」
そう言ったが、桜花の顔を見上げながらずっと後をついてくる。まるで何かを責めるように。
自室の前で「御影のところへ行ってろ。な?」とモココを追い返して中に入った。
ベッドの上に鞄を置いて座る。鞄の中から本を取り出す。パラパラとめくってみる。
モココはこの本に何かを感じているのだろうか。人間には感じ取れない、動物には感じ取れる何かを。
本には、魂が見えない者は、この能力を得ることはできない、とある。生きている人間の魂に干渉するのは、霊力を操らなければならない。操る霊力がそもそもからない人間は、魂に干渉することができない、と。
そして操る能力を得るための、様々な方法が書かれている。
動物などを生贄にし、その動物を使役する方法。自身の体に傷をつけ印を刻み、魂に対して念動力のような力を得る方法。自身の中にある霊力を意識し、練り上げる――すなわち修行によって力を得る方法というのもあった。その場所に足を踏み入れた者の魂が、自動で抜け落ちるというトラップを地面に作れるようになるらしい。
力を得られるなら、御影を守れるなら、多少のことなどないも同然だ。
なのになぜ自分は躊躇っているのだろう。廊下をついて来たモココに責められていると感じたのだろう。
【そんなに人間を殺すことが怖いのか?】
頭の中で声がする。自分が自分を嘲笑っているような声がする。
「そんなことはない。……そんなことはない」
声に出して否定する。目を閉じて、何も考えないようにつとめる。このまま頭を機能停止させて、眠ってしまいたいと思う。
目を開けて、勢いをつけて立ち上がる。御影のところへ戻ってやらなくてはならない。
戻ると、御影の皿が空になっていた。チャーハンの入っていた皿も、よけたピーマンが入っていた皿も。
「おーか……。ピーマンはいったゴハン、ぜんぶたべれたよ」
そう言いつつも御影は浮かない顔をしている。身を縮めていた。体は大人なのに、体まで幼い子供のように見えた。
「おーかがゆったこと、ウソじゃなかったね。ごめんね」
うつむく御影の頭に手を乗せる。
「食べられたんなら、よかった」
浮かない顔をしていた御影が、ほっと息を吐いた。そして誇らしそうに満面に笑顔をはじけさせる。
「うん! ぜんぶたべれた!」
両手で御影の頭をくしゃくしゃになるまで撫で回した。御影は「きゃーっ」と嬉しそうな悲鳴を上げた。
また、頭の中で声が聞こえる。
【彼女を守ってやれるように。それが、何に勝ることのない最優先事項だ】
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