生贄少女≪十八歳の少女の体には、五歳の幼い魂が入れられている≫

あおいしょう

序章 魂と器

 人が飛び降りた。

 何階建てなのか、その階数を数えるのも億劫になるほどの高層ビルの屋上から、人が飛び降りた。


 地上にいた野次馬が悲鳴を上げる。重い物が落ちる音がして、悲鳴がさらに声高になる。その中にケイタイのカメラのシャッターを切る音が混じっている。


 恐怖や好奇が入り混じる群集の中に、無表情のままの青年が一人、たたずんでいた。


 耳が隠れるくらいの長さで、寝起きのようなぼさぼさな黒髪。色白で少し整っているが、さして特徴のない顔をしている青年だ。歳は二十歳前後だろうか。

 青年は、肩にかけていた鞄から小瓶を取り出した。小瓶には、模様なのかどこかの国の言葉なのか、筆を使った赤い何かが書かれている。青年の手がその小瓶の蓋を開ける。


 すると野次馬の向こうから――ビルから飛び降りた人間の体から光の玉が出て来て、青年の前まで浮遊していく。青年が光の玉に小瓶を差し出すと、光の玉は小瓶に吸い込まれていく。青年は素早く小瓶の蓋を閉め、肩に掛けていた鞄にしまう。悲鳴のような、歓声のような声が上がる自殺現場を、呆れるような、侮蔑するような表情で眺めていたが、踵をかえしてその場を離れていく。


 野次馬たちは野次馬から離れる青年に注目することはなかった。そして誰一人、奇妙な光の玉が空中を飛んでいたことに気づかなかった。


 光の玉は人間の魂で、青年はそれを集めるのが仕事だった。


 青年の行動を見ていた人間がいれば――その行動の意味を理解すれば、死神だと指をさしたかもしれない。


 奇妙な光に誰も気づかなかったのは、普通の人間の目には見えないものだからだ。だが、青年――高嶺たかみね桜花おうかが注目されなかったのは、単純に野次馬の中に混じった一人だったからだ。


「あ! ごめんなさい……」


 本物の死神でも幽霊でもない、肉体ある人間の桜花にぶつかった女性は、謝罪の言葉を述べる。桜花は会釈だけを返し、人ごみの中を進んでいく。


 死んだ者を生き返らせる方法を探すために。魂の実験をするために。人間の魂を捕獲することを命じられている。そして実験の成果のために、犠牲になっていくたくさんの魂たち。


 膨大な数の魂と、一人の娘を生き返らせること。果たしてどちらの価値が重いのだろうか。


 それを考えると、それに加担している自分が――自分を取り巻く環境が、すべて茶番に思えてくる。

 桜花は歩きながら、そんなことをぼんやりと考える。


「飛び降り自殺だって!」


 桜花の横を、二人の女が走り過ぎていく。いかにも恐ろしいと言ってるような口調の中に、どこか喜色が混じっている。


 茶番だったらどうしたと、桜花は自分自身を嘲笑する。


 いままでも、そして多分これからも、ずっと空虚な自分の人生の方が茶番だ。誰が死のうが生きようが、いまさら関係ない。


 帰路を進む。帰る場所が茶番でも空虚でも、どうでもいい。望むことなんてものは何もない。



    * * * *



 目を見開いた。


 桜花は真っ暗な自室のベッドの上で上半身を起こした。髪の毛をかき回す。心臓の鼓動が早鐘を打っている。盛大に息を吐く。


 夢を見ていた。昔からよく見る、自分を潰そうとする人間たちの夢だった。


 邪険にされ、おまえはいらない存在だと罵られ、暴力を振るわれ、そして、その末に心のタガが外れ、理性を失い、相手に酷い怪我をさせるほどに殴り返した時の、最悪な気分――それらが蘇ってくる夢。


 何度も見ている夢なのに、なぜいつまでも慣れずに心をかき乱され続けているんだ、と桜花は自己嫌悪におちいる。


 苦しみしか与えてこない人間共の夢、過ぎ去った過去。


 そんなものなどすべて無視してしまえばいいと、そう考えているのに、ずっと忘れられずにいる。馬鹿じゃねぇのか、と自分を嘲笑う。


 桜花はぼんやりと自室を見回した。

 部屋には窓がなく、月明かりも入ってこず真っ暗だ。

 暗闇に目が慣れて、うっすらと見える光景は、脱いだ服やら、スナック菓子の袋やら、数冊の漫画本やらが散らばっている部屋だった。桜花が人生を投げやりに過ごしている様が、そのまま具現化したような部屋だ。


 今の状態で寝なおすことはできそうにないと、桜花は脱ぎ散らかしてあった上着を手に取り、自室を出る。

 この建物の中に落ち着く場所などないが、じっとしているよりも歩いた方がマシかもしれないと、転々と常夜灯がつく薄暗い廊下を歩く。


 大富豪の屋敷の地下に隠されるように存在する、世に出ることはない、出せるはずのない実験をしている研究所。それが桜花が寝泊まりしている建物だった。


 魂をモルモットにしている施設……ということはきっと、ここには相当の恨みをつのらせた幽霊がたくさんいる、ということにならないだろうか。と、桜花は考える。

 そんな薄気味悪いはずの施設の廊下を歩いている。だが恐ろしいとは思わない。魂の形を知ってしまっている今、桜花は恐ろしい幽霊の顔など想像できなくなっていた。


 桜花はただただ、苛立ちに任せて歩を進めた。が。

 何か音がしたような気がして、足を止めた。


 ぺた……。ぺた……。ぺた……。


 裸足で廊下を歩くような音がする。研究者たちが仕事を終え、眠りについている静かな夜。そこに響く足音。


 幽霊が出そうなシチュエーションではあるが、桜花にはやはりうまく想像できない。あの球状の魂は足が生えるのかと想像してみるが、滑稽でしかない。


 耳をすませる。誰がなぜこの時間に裸足でこの冷たい廊下を歩いているのか。


 音が近づいている。

 暗闇に目を凝らすと、足音の主の体が、白く浮かび上がった。


 桜花は体を硬直させる。

 そして、頭は混乱し、全身が熱を帯びる。


 少女だった。この体の歳は十八歳に違いない。


 黒髪を背中まで伸ばした、小顔で健康的な肌の色をした少女だ。目が大きく、子猫のような印象を受ける。


 愛らしい顔をしている。反射的に好みの顔だと思った。が、桜花の体を熱くしているのはその愛らしさだけが原因ではない。


 彼女は何も纏っていなかった。美しい裸身をすべてさらけ出していた。


 白くて形のいい鎖骨。その下の、大きな二つのふくらみ。綺麗な曲線でくびれた腰、女性の一番大事な場所であるそこも。一切隠すことなく、彼女は歩いていた。ぺたぺたと、どこか子供っぽい足音を立てながら。


 頭の中が、全身が、熱に侵される。直視してはいけないと思うのに、目をそらすことができない。


 少女が、立ち止まった。彼女もこちらに気づいたようだ。怯えるような、戸惑うような表情をして、手で口を押さえている。隠すべき場所も隠さずに。


 それを見て、我に返った。桜花は着ていた上着を脱いで、彼女に着せようと近づく。そうするべきだと、自分の中の何かが急かした。


「これ、着ろ」


 ぶっきらぼうに吐き捨て、少女に上着を差し出す。

 少女は一瞬、びくりと体を震わすが、拒絶することはなかった。こくりと頷いて受け取り、袖を通す。


 ほっ、と少女が息を吐き出した。怯えていた表情が柔らかくなり、幼い子供のような無邪気な笑顔になった。


「ありがとう」


 心の中で、何かが溶けていくのを感じた。

 少女のその笑顔が、この暗い場所の色を瞬時に明るく変え、その言葉が、この場所の重い空気を軽くする。


 感謝の言葉を告げられるなど、いつ以来だろうか……。


 桜花は自分の心の中のざわめきが凪いで行くのを感じる。苛立ちも、高揚も、すっと消えてなくなった。


「あったかい」


 少女のその言葉で、笑顔で、心の中に小さく、何かが灯った。

 灯ったものは、心の中であたたかさを広げていく。くすぐったいような、心地いいような。今までに体感したことがないようで、遠い昔にそれに包まれていたことがあったような。そんな正体の分からないあたたかさに、心が包まれる。


 そのあたたかさの意味を考える前に、あたたかさは明確な言葉に変わっていく。


 彼女を死なせてはならない。


 この場所に――研究所に、女がいないことは知っている。女がいるとしたら、ひとつの可能性だけ。実験対象である女だけ。


 “保存”されている実験対象がなぜ廊下を歩いているのかは分からない。“保存”された場所から自力で脱出できるものなのか、それもわからない。分からないことはたくさんある。だがその実験対象の女が、殺されるために生まれてきた存在だということは知っている。


 一人の少女を生き返らせるため、生贄にされる存在なのだと。


 目の前の無邪気な顔をした彼女は、放っておけば数日中には殺されてしまう運命にあるのだ。


 桜花はこぶしを握る。

 自分はその計画に加担してきた存在だというのに、今、彼女を死なせてはいけないと感じている。


 その考えだけが頭の中のすべてを占めている。それが心に広がったあたたかさを守ることでもあると、確信する。


 今の生活が壊れる。そんなことを考える隙がなくなっていた。頭の中は彼女を生かさなければ、という考えに埋め尽くされる。

 その《今》が、殺人を犯した自分が手に入れた平穏であるにもかかわらず、頭は少女のことで埋め尽くされていた。


「逃げよう」


 考えるよりも先に言葉が出た。少女はサイズの合わないブカブカな上着の胸の部分を、ぎゅっと握り締めながら聞き返す。


「にげる?」

「うん。じゃなきゃ殺される」

「ころされる?」

「そう」

「しんじゃうって、こと?」

「そう」


 彼女は表情を消し、桜花の顔を大きな瞳でまっすぐに見つめた。


「しんじゃう……。しんじゃう……?」


 知らない言葉のように繰り返して、桜花の顔を見つめ続ける。


 おそらく彼女はまだ《覚醒》したばかりだ。状況や言葉、色々なことがすぐには飲み込めないのだろう。だが彼女の覚醒が研究所の人間にバレれば、逃げる機会はなくなるだろう。そして逃げなければ彼女は生贄として殺される。時間はない。


 短時間で状況を理解させたり、自分のことを信用させたりすることは考えず、とにかく彼女を連れてここを出るべきだろうかと考えたその時。


「いやぁあああああああああああ!」


 少女が頭を抱えて悲鳴を上げた。

 途端、廊下を仄かに照らしていた常夜灯の明かりがすべて消え、辺りは完全な暗闇に包まれた。


 声が、明かりをかき消したような。


 声が、暗闇を連れて来たような。


 そんな感覚に桜花は戸惑い、辺りを見回す。

 やがてうっすらと仄かな明かりが、少女の姿と桜花を照らす。


 上を見ると、満月が浮いている。

 風を感じ、葉が揺れる音が聞こえる。今の現象が理解できず、言葉も失い、また辺りを見回す。

 深い森のようだった。周りは夜の闇でほとんど何も見えないが、少女のすぐ後ろに開けた空間があり、月明かりが入ってくる。

 そしてその開けた空間には、白い洋館が建っていた。



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