一章 少女

 どこまでも高い青空に、白い雲が流れている。緑を茂らせた小高い丘に、太陽の光が降り注いでいる。草花がくるぶしまで生い茂る斜面を、白いワンピースを着た少女が駆け上がる。


「モココー、まってよー!」

「いや、お前が待てって」


 白い毛がモコモコと生えている子犬を、少女は追いかけていた。子犬――モココは、普段リードでつながれているからか、たまの自由を満喫するため、全力で草原を駆けている。

 その子犬を少女が追いかけ、少女を桜花が追いかけていた。


「たぁーー!」


 少女がモココにダイブする。


「モココつかまえたー」


 と、そのまま草の上に寝転がり、モココをくしゃくしゃと撫で回し、胸の中でぎゅっと抱きしめる。


 胸の中で尻尾をフル回転させてじゃれるモココに「くすぐったいよー」と笑いながら草原の上をころころと転がる。長い手足を使って、全身でモココを包む。体にふわふわな心地よさを感じると、少女は自身の体を実感する。


 自分についている長い腕に長い脚。体を動かすと揺れる胸や、なぜだか高いと感じる視界。


 あの暗くて寂しい場所で初めて目覚めた時、すべてが自分の体ではないようで、すべてに違和感があった。けれど今はすっかり慣れたもので、走り回るのも転がり回るのも何も違和感がない。動き回れることがとても楽しい。


「あんまり……勝手に、遠くに行くなって……言ってんだろうが、よ」


 何とか搾り出したような声が、坂の少し下から聞こえた。ゼイゼイと息を吐く桜花が、よろよろとした足取りでやってきた。必死になって少女を追いかけたのだろう。少女の姿を確認すると、手を膝につき何度も深呼吸をしている。


「おーか、おそーい」


 起き上がって、少女は抱っこしたモココの前足を使って桜花を指差す。何とか息を整えた桜花は、それに苦い表情で答える。


「お前が速すぎるんだって」


 すると少女はにこー、と笑った。足が速いと言われて嬉しくて、困る桜花の表情が可笑しくて……無邪気でありながら、小さく可憐な花が開いたような笑顔を咲かせる。

 桜花はかすかに頬を染め、乱れた髪の毛を書き上げて、その手で額を押さえる。


「あー……」


 と何か言いたそうに声を出すのだが、結局口を閉ざしてしまう。

 風が流れて草原をなでていき、草たちがさわさわと囁く。


「かぜがきもちいいね。ね、モココ」


 そう言うと少女は、モココを高い高いの要領で頭上に持ち上げ、くるくると踊るように回り出した。白い蝶が自由に舞うように、白いスカートをひらめかせながら草原を動き回る。


「あ、おい!」


 桜花の声に驚いたが、くるくる回る勢いは止まらず、二、三歩よろけた瞬間、腰を引き寄せられ「きゃっ!」と驚いた瞬間には桜花の胸に顔をうずめていた。驚いた拍子に落としてしまったモココは、草原に華麗に着地し、きょとんとして二人を見ている。


「そこ崖になってる」

「へ?」

「って、下は見るなよ。お前高いとこダメなんだから」

「は……! わわわわ……!」

「何で言ってるそばから見てるんだよ」


 怖くて怖くて震えが止まらず、桜花の胸にしがみつく。すぐにその場を離れたいのに足が動かない少女を、桜花は肩を抱きながら、ゆっくりと崖から遠ざけていく。

 崖からずいぶん離れた後、少女は、


「はーっ、こわかったぁー」


 と、草の上に座り込んだ。モココが近寄ってきて、盛大に深呼吸する少女を不思議そうに見上げている。


「だから勝手に先に行くなって言っただろ」


 腰を落とし、呆れ顔で少女の顔を覗き込む桜花を、彼女は苦手なピーマンを食べた時のようなしかめっ面で見返す。


「……ごめんなさい」


 桜花はため息をつきながら、ぶっきらぼうな声で言う。


「分かればよし。じゃあ、そろそろ帰るか御影みかげ


 少し落ち込んだようにうつむいていた少女だったが、桜花がモココを抱き上げて立ち上がると「うん!」と、元気よく返事をしてぴょこりと弾むように立ち上がった。


 少女が桜花の手に手を伸ばす。


 パパともママとも兄弟とも違うけれど、大好きな人。あの暗くて寂しい場所を出てから、ずっと側にいてくれる人。

 パパやママがいなくても大丈夫。桜花がいてくれて、嬉しい。


 桜花は少女が差し出した手を、ぎこちなく握り返した。

 二人は手をつないで歩き出す。



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