二章 逃亡生活
御影と手をつないで丘を下り、今、自分たちが住んでいる建物に向かう。
何年も放置されている様子の、山奥にあるどこかの誰かの別荘らしき建物に。桜花と御影はそこに身を隠していた。
桜花が御影に『逃げよう』と言った後に起こった不思議な現象。その後現れた建物。
あれは一種の瞬間移動だったのだろうか、と桜花は考える。
なぜあの時あの状況で起こったのかはわからない。御影が起こした現象にも見えたが、御影は知らないと言う。もしかすると自覚なく引き起こした現象だったのだろうか。本当に彼女が瞬間移動を使えるのなら、“保存”されていた場所から抜け出すことも、確かに可能だったかもしれない。
彼女の能力がどれだけ珍しいものかは分からない。だが桜花自身、魂が見える霊力、という非科学的な能力を持っていたので、他の人間が奇妙な能力を持っていても――御影が超能力者でも、桜花はさして驚かなかった。
しかし、研究所は魂のことは調べていても、超能力のことについては詳しくないはずである。現実に存在している力だと認識してるかも怪しい。御影と桜花が研究所からどうやって逃げたのか、奴らも分かっていないだろう。桜花は奴らの動向をそう推察する。
方法自体は謎に包まれているが、自分たちは研究所からの逃亡に成功したのだ。
あの研究所から、御影を――実験が成功した完成体をつれて逃げた。やはり彼らは血眼になってこちらを探しているだろうか。
研究所側が御影を諦めて、別の実験体を用意するのならばいい。自分は正義の味方ではない。女子供を実験体にする悪の施設をぶち壊すとか、被害者をすべて救出するとか、そんな気は毛頭ない。波風を立てず、御影と平和に暮らせればそれでいい。
しかしそういうわけにも行かないだろう。施設は裏切り者を許すことはないだろうし、実験を成功させるのには時間も手間もかかる。一刻も早く目的を達成したがっている《奴》が、見逃してくれるとは思えない。
嬉しそうに自分と手をつないで歩く少女を見る。あの時は条件反射のように彼女と逃げようと思った。あの時灯った感情が、そうするべきだと強く訴えかけてきた。追われるリスクは考えてもいなかった。
だが、冷静になって考えると、命を賭けなければいけないのならば、手放してしまうべきだろう。リスクの方が確実に大きい。そう思う。
けれど、なぜ彼女は自分なんかと手をつないでくれるのだろう。誰にも必要とされてこなかった自分に、どうして無邪気な笑顔を向けてくれるのだろうかと思うと、やはり彼女は死なせてはならない、と思う。
いつ御影を奪い返しにこられるのか。御影が敵の手に落ちた後、自分はどうなるのか。考えると、怯えてしまう自分がいる。けれど――
「よーし、おーか。イエまできょーそーしよう! よーいドン!」
「え、ちょ、だから! 勝手に先に行くなって、転ぶぞ! つかお前、俺が勝てねぇのわかってて言ってるだろ!」
少し急な下り坂を、転ぶことなく、器用に華麗に走り降りる御影を追いかけるため、桜花はモココを抱えたまま渋々走り出す。
こんな風な御影の無邪気な行動に付き合っていると、面倒くさいガキだと思うこともある。同時に、喜びを感じている自分が居る。
この感情を与えてくれるのは、今までの人生で彼女しかいない。
* * * *
今二人が生活している、そのどこかの誰かの別荘は、電気や水道などが問題なく使え、テレビもついた。家具なども色々とそろっていて、生活に大きな不自由を感じずに暮らすことができた。
煌びやかな置時計や、難解ゆえに高価そうだと思える絵画が飾られていたりと、ところどころで、この家の持ち主はかなりの資産家なのだろうかと思わせられるが、ソファやベッドなどの家具には派手さはなく、全体的にはアットホームな雰囲気をかもし出している家だった。
そろそろ夕食を作らなければいけないという時間、御影は大人しくリビングのソファでお絵かきをしていた。
「うごいちゃダメだよモココ。いまはね、モココはモデルさんなんだから」
そんな御影を横目に桜花はキッチンに向かう。
今まで料理はほとんどしたことがなかったが、なぜか御影にはちゃんとしたものを作って食べさせてやりたいと強く思った。それに今のところ苦に思うことは特にない。
何かを作って誰かの反応が返ってくる。今までにあまりなかったこと。どこか新鮮に感じていた。
しかし桜花にとって経験値の少ない事柄であることは変わりない。
包丁で指を切りそうになり、食材を焦がしそうになり、火傷しそうになったりと、毎日てんてこ舞いになりながら料理をしている。御影に聞かせられる悲鳴ではないと、唇をかみ締めながら。
いつも大人しくお絵かきに没頭してくれる御影がありがたいと思う。無様な自分を見せないですむから。
何とか問題なく作ることができたカレーを二皿持ち、ダイニングのテーブルへと持っていく。
「ごはんできた?」
御影を呼ぶとすぐに顔を出してきた。
「またカレーでごめんな」
料理のレパートリーが少なく、メニューがヘビーローテーションなのを申し訳なく思いながら、桜花はテーブルにできたカレーを並べる。
「なんであやまるのー? あたしカレーだいすき! まいにちカレーでもいいくらいだよぉ」
笑顔で御影はそう言い「みてみてっ」と弾んだ声で、先ほどまで没頭していたお絵かき用の紙を広げる。
そこには薄橙色の丸の上部を黒く塗りつぶしたものと、薄橙色の丸の上部と横の部分を黒で塗りつぶしたものと。おそらく白い紙の上に白だけを使って塗ったのだろう、うっすらとしか見えない綿飴のようなものが描かれていた。
「おーかと、あたしと、モココー」
言われて初めてそうだとわかる幼稚園児並みのお絵かき。だが桜花は心を温かくしながら絵をしげしげと眺める。
「おっ。俺も描いてくれたのか。なかなかうまく描けてるんじゃないか?」
褒められた御影は、照れながらも満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、飯食うから、ちゃんと手ぇ洗ってこいよ」
「はーい」
と元気よく返事した御影は、パタパタとスリッパの音を立てながら洗面所に向かって行った。
御影は十八歳の少女の体に、五歳ほどの子供の魂を入れられた《実験体》である。
あの研究所を作り、魂の実験を始めさせた富豪の
その娘を生き返らせたいと願い、有り余る金で研究所を作り、霊的な知識を集め、肉体に魂を戻す研究を進めさせた。
魂と、死んだ人間の肉体を集めて実験しているうち、魂を他人の体の中に入れて生命活動をさせることに成功した。肉体に他人の心を入れて生き返らせることができた。
だが、なぜか本人の体に本人の魂を入れても魂が定着することはなかった。娘の体に娘の心を持たせて生き返らせることはできなかった。
瀬藤は嘆いたが、そこにある情報が入ってくる。
本人の体に本人の心を持たせて生き返らせる力のある、神を呼び出す方法。
儀式を行い、生贄を捧げる。それを聞いて瀬藤はすぐに生贄の準備に動いた。
清い心を持った十八歳の少女……というのが生贄の条件だった。
部下に命令をして何人かの十八歳の少女を拉致し、生贄として捧げたが、神は現れなかった。
生贄に捧げた少女たちは、神が満足するほどの清い心を持っていなかったのだと考えた瀬藤は、再び魂の研究を開始する。十八歳の少女の肉体に、心に穢れのない幼い子供の魂を入れる。そうして生贄を造りだす。
そんな狂った願いの果てに生まれたのが御影だった。
肉体年齢と魂の年齢が離れていたせいか、十八歳の少女の肉体に幼い魂はなかなか定着しなかった。そしてやっとのことで魂が定着して、瀬藤が思う理想の生贄ができあがった。それが御影だった。奴にとって御影は貴重でないはずがない。
手を洗った御影が戻ってきた。テーブルの椅子に座り、手を合わせて元気よく「いただきまーす」をする。桜花も御影にならって「いただきます」と呟く。御影に出会う前までは、ほとんどしたことがない習慣だ。
別の魂を入れられた体の身体能力は元のままらしく、御影の足はとても速い。
その一方、他人の体に入れられた魂は、それ以前の記憶をほとんどなくしてしまうらしい。しかし言葉や習慣などの、染み付いている記憶は覚えているらしかった。そこから来ているのだろう仕草や習慣などを見ていると、彼女はとても大切に育てられたように見える。
「おいおい。顔にカレー、すげーついてる」
「うそー? あたしじょうずにたべてるよ?」
「嘘じゃねぇよ。ちょっとじっとしてろ」
「はーい……」
ティッシュで顔を拭こうとすると、気持ちよくブラッシングされる犬のように、御影はじっとして桜花に顔を預けてくる。その顔の汚れを綺麗に拭ってやる。
カレーのついたティッシュを見て「ホントだぁ」と感心したような声を上げた後、御影はきょとんとした顔で桜花の顔をじっと眺めた。
「おーかもほっぺにゴハンついてるー!」
手で口を隠しながらも御影は、大きな口で大声で楽しそうにきゃらきゃらと笑う。
「マジか……」
呟いて、桜花は苦い顔をして、親指で拭う。恥のせいで汗をかく。
にこにこしながら、御影は食事を再開する。たまに足元で餌を食べてるモココに話しかけたり、ふにゃりとした笑顔で眺めたりしている。
そんな御影の姿を見ていると、思い切り笑われたことは恥ではなく、ただ彼女を笑顔にしたのだと思いなおした。
一度死んだはずの御影。その魂を他人の体に入れて、もう一度生を与える。自然の摂理として、それが許されることなのか……などということは今さらどうでもいい。
ただ、魂という存在は、死んだ後何を思うのだろうか。家族を側で見守っていたいなどと思うのだろうか。もしもそんなことを、死の直後の御影が思っていたのだとしたら。
そんな彼女を捕まえて、他の体に縛りつけるのは酷いことだと思う。その酷いことに加担していた自分も、酷い奴だと思う。
酷いことをしたのに、その相手に喜びを感じてしまう。
馬鹿じゃねぇのか、と自分を自分で嘲笑う。
* * * *
「おーか! ホンよんで! ホン!」
風呂から上がり、これから寝ようというところを、廊下でパジャマ姿の御影に呼び止められた。
御影は頭の上に絵本を掲げており、その掲げられている本は、すでに読んだことがある《白雪姫》だった。
この建物を使用していた家族には小さな子供がいたのか、絵本がいくつか残されていた。それを片っ端から御影が桜花に読ませるのが日課のようになっている。
桜花は「ん?」と口の中で呟いて、御影の頭の上に掲げられてる本を指さした。
「昨日も読んだだろ?」
「うん! だから読んで?」
「『だから』ってなんだよ」
「またこびとさんたちにあいたいのー」
小さい子供は何度同じものを読み聞かせても飽きない、というのは聞いたことがあるが、自分も好きな漫画は何度だって読みなおすので、何度でも読みたがる彼女を責めることはできない。
が、そんなことを考えた桜花が一瞬沈黙したせいだろうか、御影の瞳がうるうると潤んでいく。
「よんで……くれないの?」
「いやいや、読むから! 泣くな!」
言うと、涙をにじませた目は笑みになった。桜花の手を取り「やったぁ!」とはしゃぎ声を上げながら彼女自身の部屋へと向かう。
部屋に入ると御影はベッドの上に飛び込み、気持ちよさそうに手足を伸ばした後、ころりと猫のように丸まって転がり、ベッドのスペースを半分開ける。
「しょうがねぇな」
と言いつつも、桜花はどこか喜色を混じらせた表情で、御影が空けたベッドのスペースに腰を下ろす。
御影は白雪姫を囲む七人の小人が本当にお気に入りらしく、七人の小人が出てくるイラストが出てくると、特に嬉しそうな反応をする。
しかし最後に出てくる王子様にはあまり興味はない様で、以前もそうだったが微妙な反応をする。恋や結婚の概念をよく理解していないので、素敵な王子様と出会って結婚イコールハッピーエンドという図式が飲み込めないようだ。
キスの概念もさっぱり分からなかったようで、以前読み聞かせをしたときは『きすってなぁに?』『なんでクチビルとクチビルをくっつけあうの?』と質問していた。
「ねぇねぇ。キスってダイスキなヒトどうしがするものだって、こないだおしえてくれたよねぇ?」
「おー」
「じゃあ、おーかはあたしにしてくれないの?」
「……は?」
御影の質問が異国の呪文のように意味が分からなかった。
「だからー、あたしはおーかがダイスキなのに、おーかがあたしにキスしないのは、あたしのことがスキじゃないから?」
予想の斜め上、いや全方位から襲い掛かられたような、どう対処すればいいのかまったく分からない質問だった。桜花は思わず「あー……」と頭を抱える。御影はどこか不安そうな顔をして、頭を抱える桜花を見ている。桜花は考え考え、返事を搾り出す。
「そうじゃなくって……キスっていうのは、家族とはしないもんなんだよ。家族以外の……大切だって思える男とするもんなんだよ」
「でも、おーかは、パパとかおにいちゃんとかとはちがうよ?」
「でも、パパみたいな人だとは思ってるだろ?」
「う? うーんん? ……うん」
「キスする好きっていうのは、そういう好きじゃないんだ。まぁまだ難しいかもしれないけど」
「……そうなんだぁ」
なんとなくだろうが分かってくれてほっとする。
こういうものは誰かに質問するんじゃなくて、時間をかけて自然に理解していってほしいものだと思う。とても難関な質問だ。まぁまだ『赤ちゃんはどこからくるの?』と聞かれるよりはマシだろうと思いつつも、頭の片隅で、でもできれば早く理解してほしい……と思ってしまい、いやいやいや、と考えを打ち消しながら「じゃあ、そろそろ寝ような」と、桜花は本日の読み聞かせ会をお開きにしようとする。
しかし御影は、
「まってまって、もういっこ!」
と桜花を引き止める。《ぶんぷくちゃがま》だった。タヌキがお気に入りらしい。
読んでいる途中、かすかな寝息が聞こえてきた。やっと寝てくれたとほっとしながら、腰の辺りまでしかかかっていないタオルケットをなおそうとして、ドキリとした。
今夜は少し暑かった。そのせいだろうか、御影のパジャマのボタンがいくつか外されていた。胸元が大きく開いている。二つの白いふくらみがつくる谷間が目に入る。「んん……」と小さく息を吐き、寝返りを打つ。まるで開いた胸元を見せ付けるかのように、こちらを向いた。
幼い心が入った、女の体が、無防備にベッドに寝転がっている。
桜花は苛立ったように顔を引きつらせる。
――なんだよ。『桜花があたしにキスしないのは、あたしのことが好きじゃないから?』だと? ふざけんなよ、したいに決まってんじゃねぇか。したいよ、めちゃくちゃしたいよ、キスも、それ以上のこともめちゃくちゃしたいよ、キスなんかしちまったら余計に色々したくなるじゃねーかよ、何でそんな無駄に胸がでかいんだよ、綺麗に腰がくびれてて色っぽいんだよ、色っぽい寝息立ててんじゃねぇよ、なに隙だらけで寝てやがんだよふざけんなコラァ!
御影から目をそらして再び頭を抱える。目をつぶったが、焼きついたものは消えてくれない。むしろ色っぽい寝息に耳が集中する。
今、彼女の体に触れることは容易だ。少し手を伸ばせば、その柔らかい体に手が届く。
――するかボケ。
少し掠めた考えを、一刀両断切り捨てる。この感情は、恋心からくるものなのか、それともただの欲情なのか。
どちらにしろ、この気持ちを開放しても一時の快楽を得られるだけで、御影を傷つけて彼女は二度と自分に笑顔を向けてくれなくなるだろう。そんなものが欲しいわけじゃない。そんなものが欲しくてあの研究所から御影と逃げてるわけじゃない。
乱れたタオルケットを素早くなおすと、桜花はベッドから立ち上がった。部屋を出て自室に向かう。
彼女の精神年齢を考えるなら、一緒に寝てやる方がいいのだろうが、沸いてくる衝動を毎日抑えきる自信はなかった。
洗濯は彼女のものを含めてやっているが、徐々に慣れて下着などにも動揺しなくなり“ただの布”と、自分に言い聞かせることができるようになり、淡々とこなすことができるようになっている。
だが、彼女自身の体には無様なほどに動揺する。風呂には彼女一人で入れるようなので、ものすごく助かったと思っている。
果たして自分は彼女に何を欲して、研究所から逃げているのか。
恋仲になりたいと思っても、今の彼女が恋を理解できるわけもないのに。
自室のベッドに身を投げる。体が火照っている。彼女の唇はどんな感触がするのだろう。そんな考えが頭から離れない。
無理矢理に目を瞑るが、眠りはすぐには訪れてくれそうになかった。
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