五章 唇

 どたたたたたっ。


 廊下から軽快で力強い足音が響く。折り返してまた、どたたたたたっ、と足音が走っていく。


「おーか。ろうか、キレーになったよ」


 キッチンで夕食を作っていた桜花が廊下に顔を出す。

 緑の長袖Tシャツの袖とジーンズの裾をまくった御影が、偉業を達成したかのような得意げな笑顔で立っている。


「お、ご苦労さん。うん。キレイになった。よしじゃあ、雑巾と手、洗ってこい。飯にするからさ」

「はーい。おなかすいたー」


 あの海で出会った男の、かつてはペンションをしていたと言っていた建物は、錆びれきった町の、海の近くにポツリと建っていた。


 あの男にここに泊まれと誘われ、それを受けたあの夜。

 男は桜花達が自分たちの素性をうまく答えられずにいるうちに、勝手に駆け落ち中のカップルだと思い込んだようだった。妙に同情され、涙ぐまれ、住む場所を探していると聞くと、綺麗に管理してくれるのならここに住んでくれていい、と言い出した。


 あまりに都合よく話が転がって、一瞬、目の前の男は奴らの手先なのではと警戒したが、本当に奴らの手先ならば、こんなに長々と話しをせず、とっくに自分たちは捕らえられているはずだと思いなおした。


 信用するとなれば断る理由はないように思えた。ペンションの周辺には人がおらず、人の住む街からは適度に離れていて、人と交流する必要はなさそうだった。

 男が他の人間に自分たちのことを言いふらさないかとも思ったが、駆け落ちしているカップルを匿っているつもりだからか、口止めするとすぐに納得したように深刻な顔でうなずいてくれた。


 そんな風にしてこの元ペンションに住むことになって数日が経つ。客室五部屋の、宿としては小さいが、二人と一匹で住むには少し大きな家だ。御影は掃除することの喜びに目覚めたのか、その少し広い建物の中を楽しそうに綺麗にして回っている。


 桜花は談話室の窓を開ける。秋の心地よく涼しい風と、穏やかな波の音が入ってくる。それらを肌で、耳で感じていると、時間が緩やかになったようなゆったりとした気持ちになる。


 このまま穏やかに日々が過ぎていくような、そんな錯覚が芽生えてくる。


 錯覚。たぶん、やっぱり、錯覚なんだろうと思う。

 色々と恐ろしいことが、思考に絡み付いてくる。


 でも、今は少しでも、この穏やかな日々が続くことを願う。



    * * * *



「こんにちはモココ。あたしジェシカ」


 夕飯を食べた後。談話室の床に寝そべって、御影がモココに向かってぬいぐるみを使い、遊んでいる。

 この建物に元々飾りとして置いてあった、三つ編みをした女の子のぬいぐるみだ。

 モココの前で左右に振ったりジャンプさせてみたりすると、モココは興味を示したように前足で触ろうとする。


「あたしもパパをあいしてるわー! ぎゅううぅぅ」


 最近はまっている親子愛をテーマにした海外のコメディドラマのまねをして、御影は人形をモココに抱きつかせた。モココは首に絡みついて来たそれに、興味深そうにフンフンと鼻を押し付けて匂いをかいでいた。


「なぁ、御影」

「なにー?」


 ふと頭をよぎったことだった。ソファに座った桜花はポツリと質問を投げる。


「もしも、ぬいぐるみが動いて遊び出したら楽しいと思う?」

「え? そんなおもちゃがあるの? おもしろそう! どこどこ?」

「いや。今はないんだけど、作れるかもって……」

「そうなんだー。じゃーあ、できたらすぐにおしえてね」


 そう言って、顔を輝かせながら御影はモココとのごっこ遊びに戻っていく。

 モココと人形と一緒に遊ぶ御影に心を和ませながら、読み込んで内容を覚えてしまったあの本のページを、心の中でめくっていく。


 魂に関することが書かれたその本に載っている、人形やらぬいぐるみやらに魂を入れ、生き物のように動かす方法。

 昔から魂が宿りやすいと言われる人形などには、魂を入れる方法がある。

 人間を生き返らせるのと似た、その方法。


 今度奴らから魂を引き抜く機会があれば、確保してしまおうと思った。

 前回、奴らから魂を引き抜いた時、確保することはなかった。時間的にも精神的にも余裕はなかったし、特に必要だとは思わなかったからだ。


 だが時間が経つにつれて徐々に腹が立ってきていた。

 今までたくさんの魂を実験して弄んできた連中、それに加担してきた連中が、なぜ簡単に安らかに成仏しているのか、と。せめて人形になって御影を楽しませる材料くらいになればよかったんだと。


 それは桜花が初めて抱いた、彼らへの明確な蔑みだった。

 今までは、自分も奴らと大して変わらず、御影という岐路で違う道を選んだだけの、奴らと同じ下劣な人間――そう思っていた。だが今は、自分でも思考が変わったと気づかぬうちに、奴らを見下している。


「あ! ジェシカちゃんが始まる時間!」


 はまっている海外ドラマを見たいがために、最近時計の読み方を覚えた御影が、壁掛け時計を確認してソファに座る桜花の隣に勢いよく座りバウンドする。そんな御影に少し苦笑交じりに頬を緩ませ、桜花がテレビのリモコンを操作して、電源を入れる。


 オープニングで、モコモコの茶色い毛をした大型犬とジェシカちゃんが戯れる映像に、御影が「かわいい」と歓声を上げる。


 桜花は一緒にテレビを見るフリをして、少女の方を盗み見る。本当に御影は可愛いものが好きだよな。隣で無邪気に笑ってテレビを見る少女を見て思う。

 家族愛がコミカルに描かれたそのドラマに、にこにこけらけらと、喜びの表情だけで百面相をしている。桜花はテレビよりもその表情に釘付けになる。毎日一緒に暮らしてるのに、自分もよく飽きないなと少し呆れる。


「あー、すっごいわらった、おなかいたいー」


 と言いつつも、御影はまだオチの余韻で笑いが止まっていない。

 テレビが面白みのないCMを流している。その間にやっと笑いを止めた御影が首を傾げながら言う。


「でもさー、なんでジェシカちゃんのウチはみんな、かぞくでキスしてるのかな? キスって、かぞくとはしないっていってたよね? それともー、ほっぺたとかにするのはキスとはちがうの?」


 まっすぐに疑問の瞳を桜花に向ける。テレビを見ながらも何度もちらちらと御影の方を見ていた桜花はいきなり顔を向けられて「え!」と必要以上に大きな声を出してしまう。

 顔を赤くするも、何も動揺していない風を装い、目を逸らしてテレビの方を見る。そして、またキスの話かよ、と脱力して頭を掻いた。


「あー……。その辺俺もよくわかんないけど……。唇同士は王子様とだけする特別なものだけど、外国の人は家族同士で大好きって気持ちを、ほっぺたとかおでことかへのキスで伝えるとかあるんだって」

「……へぇー、そうなんだぁー。じゃあ、にっぽんじんはしちゃいけないの?」

「いや、しちゃいけないわけじゃないけど……」

「じゃあ、おーかにするー」


 ――は?


 と、発言の意味が分からないという声を上げる暇もない内に、御影の顔は桜花の頬に近づいていた。意味が分からない、という思いが、嘘だろ、という思いに変わった瞬間、頬にやわらかく温かいものが触れていた。

 御影にキスされた、と認識した途端、頭が、全身が、熱くなる。雄たけびを上げたくなるくらい、喜びがあふれてくる。心地よく、しかし狂おしいほどに胸が締めつけられる。


「ね、おーかもして?」


 ソファに膝立ちしている御影。まだ顔はすぐ近くにあった。目を期待で輝かせた、無邪気なのにどこか色気を感じる顔が。

 目を閉じ、頭を引き寄せてキスをした。


 唇に。


 心地よさに頭が痺れる。そこにすべての体温が集まったかのような暖かさを感じる。心に暖かさが満ちていく。唇が自然と唇をなぞっていく。その感触が心を震わせる。それをこじ開けて、もっと深くそれを感じたい衝動に駆られる。


「んー! んー!」


 桜花の目が驚きで見開かれる。慌てて唇を離す。「ぷはーっ」と声を上げ、御影は膝立ちからソファに倒れこんで、何度も深呼吸をする。


「はあぁー、くうき、すえなくて、しんじゃうか、とおもったよー」

「わ、悪い……」


 桜花は御影から目を逸らして、手で唇を覆う。完全に我を失っていた、と愕然とする。


「けど、おーかはくるしそうじゃないー。なんでー?」

「いや、鼻でも息ってできるし……」


 つっこむとこそこかよ。とつっこみたくなる。


「んー、でも、くちびるどうしは、おうじさまとおひめさまのだいじなキスだ、ってゆってたよね?」

「……そう……だよな。ごめんな」


 やっぱりそこもつっこむよな。と何を言えばいいかわからなくなる。

 それは特別な行為だと自分で言っておいて、自分でしている。しかも勝手に。混乱するに決まっている。どう説明するべきだろう。筋の通った答え。そんなものあるわけがない。ただ欲情に負けてした行為に、筋があるわけがない。


「でもねー、なんかうれしかった」


 倒れこんでいた御影が、起き上がって笑顔を見せた。


「キスってうれしいね」


 そして、胸に飛び込んできた。


「ぎゅーってしたくなった。ぎゅーってしてほしくなった」


 背中に腕が回って強く抱きしめられる。

 桜花の口から安堵の息が漏れる。受け入れられた。嫌われなかった。自分も同じ気持ちだと、御影が求めるのに答え、彼女の体に腕を回して、抱きしめようとした。


「え?」


 次の瞬間に、御影の体を引き剥がしていた。桜花は顔を歪め、唇を噛んでいた。顔をうつむけて、どこか怯えた表情をしている。

 疑問符を浮かべた表情の御影は、頬を少し赤く染めていて、どこか艶めいていた。そんな御影に一瞬、目が吸い寄せられるが、すぐに目線を引き剥がす。


「おーか? どうしたの?」

「いや、もう寝る時間だし……」


 少し震えた声で、言い訳にもならない言い訳を口にする。


「えー?」


 御影が不満の声を上げるが、


「俺、もう寝るから。お前ももう寝ろ」


 それだけ言って、桜花は御影の顔も見ずに部屋を出る。

 足早に部屋を離れる。御影から離れなければならない。己自身を遠ざけねばならない。


「くそ……」


 桜花は廊下を歩きながら頭を抱える。頭を激しく掻きむしる。頭の中の思考をすべてかき出そうとするかのように。

 脳が勘違いを始めている。御影を恋人として見ている。御影を恋人として抱きしめようとした。


 勝手にキスをして、受け入れられて、抱きしめたいと言われて、抱きしめられたいと言われて――そうしたら一瞬、欲望が恐ろしいほどに大きくなった。


「くそっ……!」


 恋心を理解して受け入れたわけじゃない。彼女が求めているのは恋愛の愛情じゃない。まして、男の勝手な欲情なんて、求めているわけがない。

 罪悪感があるのに――唇の感触が、抱きしめられた感触が、忘れられない。またもう一度、と頭のどこかが思っている。それがまた罪悪感を生む。


「くそっ、くそっ!」


 拳を握る。壁に叩きつけたくなるが大きな音を出して、御影を怯えさせたくない。ただ拳を強く握る。皮膚に爪が食い込むほどに強く握る。

 彼女を大切にしたいのに、彼女を傷つける行為ばかりしたいと思っている。


「畜生……」


 今日のことは忘れろ。何もなかった。喜んだことも、気持ちよかったことも、全部、夢だ。妄想だ。

 口の中で何度も繰り返す。繰り返しても、頭からその光景が消えない。体からその感触が消えない。

 何を考えようとしても、消えてくれない。


 そんな自分を、気持ち悪いと思う。



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