七章 生き返る
朝、目覚めると、自己嫌悪で体が重かった。
御影の泣き声が、いまだに頭の中に響いている気がする。
もっと冷静に対処できれば、ちゃんと話を聞き出せたのではないだろうか。泣かせることもなかったのではないだろうか。キスのことなんか考えなければ、なだめてやることもできたのではないだろうか。
桜花の頭の中で、そんな思考が際限なく回る。
自己嫌悪に苛まれながらも、重い体に鞭を打ち、朝食を作った。準備が終わり、御影を呼びに行かなければと、御影の部屋の前まで行く。が、顔を合わせづらく、ノックするのを躊躇する。
一晩たって落ち着いただろうか。まだ自分のことを怒ってはいないだろうか。
そう心配しながら御影の顔を思い浮かべる。すると途端にイメージが纏わりついてくる。
現実に御影に抱きしめられたときの体の感触、唇の感触。そして御影の瞳が潤んで、自分を求めてくる、そんな妄想……。
苛立ちながら桜花は自らの頬を平手で殴る。高い音が鳴り、イメージを霧散してくれたが、心には焦燥が残る。
自分はまた、御影の顔を見ていやらしいことを考えないだろうか。昨日のように御影を傷つけないだろうか。普通に接することができるだろうか――
目の前の扉が勢いよく開いた。
「おわあっ!」
今まさに悩みながら思い浮かべていた御影が、突然扉から飛び出してきて、桜花は思わず情けない悲鳴を上げる。御影は体当たりするように桜花の胸に飛び込んで来た。桜花が耳まで赤面する。
――何でいまさら赤面してんだ、アホか俺は!
己の反応に自身でツッコミを入れる。だが――
「おーか! モココが! モココがうごかなくなっちゃった!」
「は?」
瞬時に顔の火照りが引いていく。御影が一生懸命「モココが! モココが!」と震える指で部屋の中を差している。
御影が指差す部屋の中を覗くが、廊下からではモココの姿は見えない。
桜花は御影の肩を押して、ゆっくりと体を離す。部屋に注意深く足を踏み入れる。
ペンションの中に飾ってあったぬいぐるみをほとんど集めた、ぬいぐるみだらけの部屋。棚の上や床にたくさん並べられている。その中の、ぬいぐるみのように動かない白いモコモコに近づいていく。
モココが目をつむって寝転んでいる。桜花が触って、揺り動かしても反応がない。調べてもどこにも傷らしきものがなかったが、息をしていなかった。犬の脈の計り方は知らないが、体のどこにも、魂の気配が無かった。
「ねぇ。モココ、なんでうごかないの?」
御影がドアの所で恐る恐るという風に声をかけてくる。
原因は分からないが、確実にモココは死んでいる。
今までそんなそぶりは見られなかったが、病気か何かだったのだろうか。
「なんで、うごかないの?」
御影がもう一度、涙声で訊いてくる。何かを懇願するような声だった。何を懇願しているのか。それはおそらく、思い浮かべている結果を、桜花が否定すること。けれど事実は変えられない。
「……死んでる……」
「ウソ!」
御影が部屋に飛び込んでくる。
「ウソウソウソウソ、ウソウソウソッッ!」
御影は桜花を押しのけて、モココの亡骸に覆いかぶさる。
「いきてるもんいきてるもんいきてるもんいきてるもん!」
悲鳴のような声で何度も同じ言葉を繰り返した。
泣きそうになりながらも決して泣かずに、全身でモココの死を否定している。
モココに覆いかぶさっている御影の背中を、桜花はそっと撫でる。
大丈夫か? と訊きかけて、口をつぐむ。訊くまでもなく大丈夫なわけがない。だが御影は桜花が言いかけた言葉を察したのか、また悲鳴のような声を上げる。
「だいじょうぶだもん。だいじょうぶにきまってるもん! モココはいきてるんだから!」
桜花は御影の背中から手を離す。
桜花自身、モココに愛着があったか、と問われれば肯定はしづらい。
御影ばかりを見ていて、御影が可愛がっていたから世話をして、御影が側にいたいと言ったから、ここまで行動を共にして来た。
モココがいたから御影がよく笑ってくれ、はしゃいでくれた。モココがいたおかげで幸せがたくさん増えた。そのことではモココの存在には感謝している。
しかしいま、御影の深い悲しみに共感してやることはできない。一緒に涙を流してやることができない。下手な慰めの言葉は安易になり、余計に傷つけてしまうだろう。
「落ち着いたら、俺の部屋に来て。モココ、埋めてやらなきゃ……」
「うめないもん。モココいきてるもん」
その言葉を聞いて、桜花は立ち上がり部屋を出る。自室に戻り、ベッドに腰掛けて目をつむる。
どうしたら御影がモココの死を受け入れてくれるのか。わからない。そっとしておけばいいものなのかもわからない。
御影は《死》に、どこか過剰な反応を示すときがある。それは、彼女が一度死んだ魂だからなのだろうか。
とにかく今は、様子を見ることしかできない。御影に、無理矢理にモココの死を突きつけることは、自分にはできない。
昨日御影が出会った人物が、本当に瀬藤の部下で、ここへの襲撃をもくろんでいるのなら、この場所をすぐに離れた方がいいのは分かっている。しかし、混乱したままの御影を無理矢理に連れて行くことはできない。心も守れなければ意味がない。
それで奴らが来たとしたら、己の全身全霊をかければいい。
なぜ奴らを初めて殺したとき、あそこまで動揺したのかが分からないほどに、今は何の躊躇いもない。
* * * *
一日たったが、御影はまだモココの側を離れなかった。その間何も口にしていない。
「モココがたべないんだもん。あたしもたべない」
そんな風に言って。
食べなくても自分は生きている。つまりはモココも生きている、と思いたいのだろうか。
桜花は御影をしばらくそっとしておこうと思っていたが、それを何日も続けることはできない。何も食べずに御影が弱っていくのを放っておけるわけがない。それにモココの体が腐ってしまう。それを御影がどう受け止めるのか。御影の心がさらに歪んでいかないか、と不安になる。
桜花の部屋にある机の引き出し。その奥に入れてある、いくつかの小瓶。桜花はそのひとつを取り出す。模様なのか、言葉なのか、言葉だとしたらどこの国の言葉なのか、よく分からないものが赤い色で書かれている小瓶。それを持って御影の部屋に行く。
ノックをして「モココを治す方法が見つかった」と告げる。
「ホント?」
何十時間ぶりに聞く、御影の弾んだ声と共にドアが開かれる。顔色が悪く、目の下にクマができている御影が顔を出す。やつれた顔に、希望に満ちた表情を浮かべている。
「ホントだ」
モココを抱いている御影を別の客室へ連れて行く。入ると、その部屋の床や壁に、小瓶に書かれているものと同じような赤い模様が部屋中にいくつも書かれていた。
「なに? このへや、どうしたの?」
御影が戸惑いの声を上げたが、桜花はそれには応えず、床の円を指差した。
「ここにモココを寝かせるんだ」
「う、うん」
戸惑ったままだが、御影は桜花の言うとおりの場所にモココを寝かせる。
桜花は持っていた小瓶の蓋を開ける。小さな丸い光の球が浮かび出て来た。それを手に取り、自らの唇に寄せる。小さな声で光の球に語りかける。白い犬の体に入れ、と。
手を開き、光の球を開放する。光の球は空中を飛び、しばらくクルクルと飛び回っていたが、やがて犬の体に近づいていき、犬の口から体内へと入っていった。
「え、うそっ」
おそらくは光の球が見えていなかっただろう御影が、声を上げる。犬の目が開いたのだ。
御影が近づくと、犬はゆっくりと立ち上がる。御影が喜びの悲鳴を上げて抱きついた。
「おーか! モココ、げんきになった!」
やつれた顔を笑顔で輝かせた御影に、桜花は安堵して頷いてみせる。
「うん。じゃあ、モココも一緒に三人で飯にしよう」
「そーしよー。そーしよー!」
御影が笑顔で白い犬を抱えて食堂に向かう。
以前、魂を入れて動く人形を作る、という約束をした。が、それを叶えるよりも先にこんなことが起こり、御影の中にある生物の死という概念をむちゃくちゃにしたのはよかったのかどうかと、少し迷う。
だが御影に笑顔が戻った。犬の中身が、魂が、モココのものと違っていようが、それが生への冒涜だろうがどうだっていい。御影の笑顔の価値はそんなものとは比べ物にならない。
自分のしていることが、狂っていると思っていた瀬藤と同じことをしていようが、どうだっていい。
御影の笑顔があれば、それでいい。
* * * *
犬の魂が完全に定着するまで、もう何日かあの部屋を使わなければならない。まだこの家を出ることはできない。
笑顔で夕食を食べ、モココだった犬と笑顔でじゃれる御影を見て、幸せを感じる。
それを噛み締めながら床に就いた。
その夜、いやらしい夢を見た。
自分の欲望を御影に叩きつけるような、理性を飛ばしたような夢。異常に気持ちよく、異常に気持ち悪い夢。
夢の中の御影は嬉しそうだったが、現実でそんなことをしてそんな反応が返ってくるわけがない。
やはりそれが自分の願望なのだ。御影に向けているのは、愛ではなく汚らわしい欲望なのだ。
そんな男を御影に近づけてはいけない。理性を保てるか自信のない男など、御影に近づけてはいけない。
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