巫女華伝 恋の舞とまほろばの君/岐川新

角川ビーンズ文庫

登場人物紹介/序章

◆登場人物紹介


瑠璃(るり)

出水国を守る巫女。しかし幼い時に母を亡くして以来、神さまを信じられない。


紫苑(しおん)

見目麗しき大倭王朝の皇子。

ノリは軽いが、剣術の腕は一流。


翡翠(ひすい)

出水国の跡取りで、瑠璃の従兄弟。

自分にも他人にも厳しい。


ソラ

もふもふのももんが(♂)瑠璃が大好き!


琥珀(こはく)

紫苑の従者で、疾風の一族の出。

無愛想。


珊瑚(さんご)

紫苑の従者で、大友氏の出。

派手なおねぇの見た目。






◆◆◆






 君立ちて 花かぐわしき 泉のほとり

 その身時じくに 老ゆを知らず

 八千代に我らを 守りたまふ



 ふと風がさわいだ気がして、は薬草をんでいた手を止め、顔をあげた。

「なに──?」

 しかし、そこにはゆうゆうと春の野が広がる、いつもの風景があるだけだ。

 草原をわたってきた風がたわむれるようにきつけ、ひとつにわえていたかみもてあそぶ。気のせいか、と軽く息をついて、乱れた髪に手をやった時だった。

 もぞり、とふところがうごめいた。

「ソラ?」

 気づいた動きに、瑠璃はむなもとへ視線をおとした。ころものあわせから、昼間は人の懐をどこにしてねむっているモモンガのソラが顔をだす。

「どうしたの?」

 こちらが動き回っていても多少のことでは動じないの、めずらしい行動に首をかしげる。

 ソラは問いかけに反応することなく鼻をひくつかせて、さっと瑠璃のかたへとけあがった。

「ソラ!?」

 とつぜんなにごとかと、小さな姿を追ってめぐらせた視界がかげる。

「え……、っ」

 反射的に頭上をあおいだ瑠璃は短く息をんだ。逆光になって見えないが、何者かがかがんだこちらをのぞきこむようにして立っていたのだ。

 ──……いつのまに?

 こんな間近に立っているのに、まったく近づいてくる気配を感じなかった。

 おどろきに固まった瑠璃の肩で、ソラがしっぽを逆立てかく音をあげる。

 その音にはっと我に返った。

 瑠璃はのどを上下させると、ひとかげから視線をはずさないまま、そろりと立ちあがった。近すぎるきよに二、三歩足をひく。それでも見上げなければならないほど、人影──男は大きかった。

「……どちらさま、でしょう」

 かたこわで問いかけながら、瑠璃は男の全身へと視線を走らせた。

 年のころは、今年十六の自分よりいくつか上といったところだろうか。

 やや色素のうすやわらかそうな髪は、その短さもあいまって陽光に明るくきらめいている。

 そんな春風のような印象とは裏腹に、まばたきもせずこちらを見下ろす顔はてつく冬空の月のように、えとした冷たさを感じさせた。すっととおった鼻筋に、切れ長のそうぼう、形のいい薄いくちびる、といった整った造作がなおさらそうした思いをいだかせる。

 しかし、瑠璃が注目したのは彼の格好だった。

 男のまとうしようには、あさ木綿ゆうなど植物でできた布とはちがう、なめらかなこうたくがある。

 ──これは……もしかして、絹?

 海のむこうから伝わり、都の有力氏族の間で広まっている新しい素材があると、小耳にはさんだことがある。その布のとくちようが、ちょうど目の前の青年が身につけているものといつする。

 さらに目をひくのが、こしにあるけんだ。無造作に帯にさしこまれているが、ある程度の権力がなければ持って歩くどころか、手にいれることもできないだろう。

 ──この衣裳に、剣……都の、しかも相当身分のある人物ということ?

 そんな青年が、都から遠くはなれた出水いずみの地に一体なんの用だというのだ。

「あの──?」

 こちらを見つめるばかりの相手に、れた瑠璃が再び口を開く。と、青年は無言のままふいに手をばしてきた。

 男の予想外の反応に、びくりと身をらす。頭にむかって伸びてきた大きなてのひらに、されるようにあと退ずさろうとした瑠璃は、

 ──あ、れ……?

 みようかんを覚えて動きを止めた。

 そのすきくようにして、しなやかな指がれるか触れないかの手つきで額におちかかった乱れた髪をはらう。


 いつしゆんあつにとられたあと、瑠璃はさっと目元を染めた。

「! な、にを…っ」

 目つきをきつくして相手をにらみあげるが、すぐにその双眸を見開くことになった。

 ふわり、と青年が笑ったのだ。

 あたかも、こおりついていた大地にいっせいに花がほこったような、劇的な変化に目がくぎづけになる。髪を払った手がそのままほおえられたことも、ほとんど意識の外だった。

「──ねえ」

 ここへきてはじめて開かれた青年の唇から、甘やかな声がこぼれる。



「オレのこと、お婿むこさんにしてくれる?」



 だが次の時、その声がつむいだ言葉に、瑠璃は耳を疑った。

 いち時におそってきた驚きの数々に頭が混乱する。かろうじて彼女の口から返ったのは、

「…………は、い?」

 そんな一言だけだった。





 出水いずみのくにたちばなの里。

 遠い昔、島国であるこのなかノ《の》くにを支配した神・くにのみこときゆう殿でんがあったとされる場所であり、今はその子孫がごうぞくとして治める地を、珍しい客人がおとずれていた。

「遠い大倭やまとの地よりはるばる、ようこそまいられました。出水を代表してかんげいいたします、皇子みこ

「歓迎する」と口では言いつつ、まったくその気のない父そおの声を部屋の外で聞きながら、瑠璃はさきほどの出来事を思いだしていた。

「まさか、皇子だっただなんて」

 そう、出会いがしらに「婿にしてくれ」などと意味不明なことをのたまった青年は、今のおおきみの──本人いわく、五番目の──皇子だったのだ。

 身分のある人物だろうとは思ったが、皇子というのはさすがに予想外だった。

 中の様子をうかがうように耳をそばだてれば、かべしにもぴりぴりとした気配が伝わってくる。その空気の大本は、瑠璃たち一族と皇子たち一族のいにしえからのいんねんにあった。

 征服され《王》た征服した《王》──という因縁は、今も深いみぞとして両者の間に横たわっている。特に前者の側にそれはけんちよだ。

 現に、今は出水国のくにのみやつことして、大倭に都を置くちようていに代わりこの地の統治を任されている真朱だが、もとより中ノ国ここは自分たちの国であるという自負が、言動のはしばしに見えかくれしている。

 だが──

「──ばかばかしい」

 気がつくと、ぽつり、と口から零れおちていた。

 旧王朝の人間だから……八百津国命の血をひくから、一体なんだというのか。

「神さまが、なにをしてくれるっていうの」

 冷ややかな声が耳に届き、その冷たさに自らはっとする。

 あわててあたりを見回した瑠璃は、自分以外の人影がないことに胸をなでおろした。がこんなことを言えば、問題になるのは目に見えている。

「気をつけないとね」

 ゆいいつ聞いていただろうソラにささやいて、瑠璃は室内へと意識をもどした。

「長旅でおつかれでしょう、今日のところはゆっくりとお休みください」

「真朱どの、まだこちらの話が──」

 例の皇子ではない、第三者の声がとがめるようにさし挟まれる。

「今、案内の者を呼びましょう」

「真朱どの!」

 だが、意にかいした様子もなく続けた父に、再び険を帯びた声があがった。

「──さん

 それを制するようにかかった柔らかな呼びかけに、ぴくりと瑠璃の肩が揺らぐ。

 皇子──あの青年だ。

「今日のところは真朱どのの厚意に甘えるとしよう。──大王より出水国造へ剣をほうぜよとの命が下っているが、その話はまたの機会に」

「──っ」

 言い分に従うと見せかけて、言わせないようにしていた内容をさらりと告げた皇子に、父がみしたのがわかった。

 張りつめたちんもくがおちたのち、

「瑠璃!」

 壁のむこうからするどい呼び声があがる。

 きた、と瑠璃は驚くでもなく立ちあがると静かに歩を進めた。戸口のわきでいったん足を止め、奥へと声をかける。

「お呼びでしょうか」

「こちらの方々を部屋へご案内しろ。都からの客人だ、くれぐれもていちようにな」

「かしこまりました」

 口先ばかりの言葉に従って、瑠璃は室内へと足をみいれた。たん、こちらを見た皇子の顔がにこりとむ。

 内心まどいつつも表情にはださず、瑠璃はその場にひざを折ると頭をさげた。

むすめです、この者が案内いたします。──瑠璃」

「瑠璃と申します。よろしくお願いいたします」

 低いうながしを受け、あいさつする。皇子をふくめた客人たちの視線がさるのを感じつつ、

「どうぞ、こちらへ。ご案内いたします」

 瑠璃は立ちあがってきびすを返した。

「では」という言葉とともに皇子が腰をあげたのを合図に、ひかえていた従者の二人も立ちあがる。それを横目でうかがいつつ、先に立って部屋をでた。

 ひたひたとゆかろうを歩く人数分の足音ときぬれだけが、彼らとの間におちる。

 ──それにしても……。

 べつむねへと案内しながら、瑠璃はそっと背後を見た。すると、ずっとこちらを見ていたらしい皇子と目があい、再び微笑ほほえまれる。

 ぎくりとしつつ、瑠璃はなにげないりで視線を前へと戻した。

 ──おかしな三人連れ。

 皇子を筆頭に、彼のうしろを並んで続く従者たちも変わっているとしか言いようがない。

 そもそも皇子が皇子らしくないのだ。いや、ふうていや身なりはだまっていたらいかにもそれらしいが……なぜ、目があうたびに笑いかけてくるのだろうか。

 身近な男性といえば、父か従兄いとこ、よくて里の男たちくらいだが、彼らがあんな風に笑うさまなど見たことがない。いかめしい顔をしていることがほとんどだ。だからこそ戸惑うし、なにをたくらんでいるのかとさんくさく思えてしまう。

 ──思えるんじゃなくて、胡散臭い、が正しいのか。初対面であんなことを言ってくるような人。

 思いだして、瑠璃はついっとまゆひそめた。

 ──そもそも、女連れで大王の使いにくるような人だもの。

 大王の使いが──しかも五番目とはいえ仮にも皇子が、従者を二人しか連れていないのは意外だったが、もっとおどろきなのはそのうちの一人が女性だということだ。

「女性、よね?」

 口の中でつぶやいて、瑠璃は再度うしろへと目をやった。

 一瞬判断に迷うのは、皇子やもう一人の従者と変わらないその長身だ。

 女性というにはおおがら身体からだしんしようで包み、長くつややかなかみを頭の高い位置でいあげている。そうしてあらわになった首元をとりどりの石が連なったくびかざりがいろどり、耳にはかん、手首にはくしろうで)と、全身をそうしよく品が飾りたてていた。こしおびはさまれたけんが、唯一護衛らしいといえば護衛らしい。

 そんな格好も派手なら、負けずおとらずはなやかな顔立ちに口元のほくろが艶をえる美女が、ふんまんやるかたない様子で皇子の左うしろに続いている。

 ──ということは、さっき声をあらげていたのは……。

 おこっていても美人は美人だとそのはくりよくされつつ、瑠璃は彼女のとなり──皇子の右うしろへ視線を移した。

 こちらは色んな意味で美女とは対照的だった。

 短くりこまれた髪に、りの飾り気のない衣裳。腰にさされた無骨な剣も、まさに実用いつぺんとうという感じだ。くちびるを固くひき結び、目つきも鋭くあたりの様子をうかがい、こちらも別の意味であつ的な空気を隠そうともしていない。

 そんな異色の二人を従えた笑顔の皇子、というのは、やはり胡散臭いと言うよりほかはなかった。

 ──あまりかかわらない方が身のためね。

 そう心に刻みつつ、瑠璃は三人を用意した客室へと導いた。

たいざい中はこちらをご自由にお使いください。ただいま手水ちようずをお持ちいたします」

 必要最低限のことを告げ、旅のよごれをおとすための水と布を用意しようと踵を返す。と──

「なぁにあれ、あいそうな娘ね。親が親なら子も子だわ!」

 背後から聞こえてきたみように高い声に、足が止まった。

「──え?」

「なによ、文句でもあるの?」

 思わずり返った瑠璃を、美女がきつい目つきですごんでくる。

「珊瑚」

 咎め声をあげた皇子みこに、まさか、と瑠璃は目の前の人物をぎようした。

「だっておんさまぁ、ここの連中ときたら、てんでれいがなってないんですもの」

「……お、とこ?」

 あきらかに作った、女性にしては重いひびきのあるこわいろに、信じられない呟きがこぼれる。

 途端、むけられた三ついのまなざしに、瑠璃ははっとおもてせた。

「申しわけございません。てっきり、その、女性の方だとばかり」

 口調は女性だが、この声は女性のものではありえない。

 さらに、皇子が『珊瑚』と呼びかけたことからしてもちがいない。てっきりもう一人の方だと思っていた、父にこうしていた声が彼女……いや、彼のものなら、この『美女』は男以外のなにものでもなかった。

 失礼な! というしつせきかくして頭をさげた瑠璃の耳に、

「──やだっ、小娘、かわいいこと言ってくれるじゃない」

 高くはしゃいだ声と、はあ……と重たいためいきがふたつ届く。

「……?」

 予想外の反応におそる恐る顔をあげると、しらけた目をした皇子が気づいて、からりと笑った。

「あぁ、アレのことは気にしなくていいよ」

「ですが、皇子さま」

 紫苑さまったらひどい! とさわぐ『美女』──珊瑚をかんぺきに無視して、彼はこんわくする瑠璃へとむき直った。

「紫苑」

「──はい?」

「オレのことは紫苑って呼んで? 都には『皇子』なんていて捨てるほどいるし。瑠璃にそんな風に呼ばれたくない」

「それは……」

 えんりよしたい、という躊躇ためらいを見てとったのだろう。紫苑はにっこりと笑うと、瑠璃の腰へとうでを回してきた。

「!」

 そのすばやさにける間もなく、間近へせまった笑顔にこうちよくする。

「紫苑──ね?」

 皇子が小首をかしげるようにしてこちらをのぞきこみ、促してくる。

「あの、放し」

「ん?」

 近すぎるきよじろぐものの、を言わさぬ笑みが逆らうことを許さない。呼ぶまで放す気がないのだとさとって、瑠璃は細く息をついた。

「──紫苑、さま」

「うん、どうしたの?」

 いやいやながらも口にすれば、紫苑はうれしげに目を細めた。

 どうしたの、じゃなくて…っ、と知らずにぎりこんでいた手をふるわせた時、瑠璃のふところからさっと飛びだしてきたかげがあった。

「おわっ、と」

 紫苑が目を丸くして軽く身をひいたのに、「紫苑さま!」とするどさけび声があがる。

「ソラ!?」

 影の正体に気づいた瑠璃がみぎかたを見やると、そこにはけいかいもあらわに紫苑をにらみつける小さな姿があった。

「これは……モモンガ?」

「申しわけありません。わたしが世話をしている子で」

 なにかをとどめるように片手をあげてソラをのぞきこんだ紫苑に謝罪しつつ、視界のはしに映った珊瑚ともう一人の従者の様子に顔をこわばらせる。

 二人とも剣に手をかけ、今にもかんばかりの様相だ。実際、紫苑が止めなければこちらへけよっていたに違いない。

 そんな三人の間に走ったきんちようなど知らぬげに、紫苑は「ふぅん」とソラへ顔をよせた。

「紫苑さま…っ」

 さすがに瑠璃もそれにはあせる。

 をしたらソラが彼にみつきかねない。かんげいしていないとはいえ、皇子にをさせるのはまずい。

 内心はらはらしていると、紫苑はふっと笑って腕を解くと瑠璃から身をはなした。

「残念だけど、かわいい護衛がこわいしね。──おまえたちもいいよ」

「紫苑さま! そんな小ネズミ──」

 けがらわしいものでも見るように瑠璃の肩口をねめつける珊瑚を、紫苑がいちべつした。

「いいって言ってるのが、聞こえない?」

 ひやり、とするような色のない声に、珊瑚がはっと身をらしたのがわかった。

「──申しわけありません」

 剣から手を離した彼に、紫苑はわかればいいのだというようにうなずく。その顔がこちらへむき直った時には、さきほどと変わらぬみがかんでいた。

「ああ、そうだ。一応うちの護衛もしようかいしとくよ」

 別に覚えなくてもいいけど、と気軽に告げながら、紫苑は珊瑚へ目をむけた。

「さっきから騒がしいアレが珊瑚。格好もしゃべり方もあんなだけど、立派な男だよ」

「やだぁ、紫苑さまったら! ワタシは心は女の子なんだって、何度言ったら──」

「こんなでも一応おおとも氏の出で、腕はそれなりかなぁ」

 すこし前のしおらしさはどこへやら、しなを作って文句をつける珊瑚を、紫苑はまるっと無視して続ける。

 瑠璃はそうっと肩に手をばしてソラをなだめるようになでて懐へともどしながら、二人をこうに見やった。

「大友氏……」

 今のちようていが大倭に都を築く前から彼らに従う一族で、軍事面においては一、二を争う有力氏族だ。

 だからさっきの反応か、と得心すると同時に、その氏族のむすがこれか……となんとも言えない気分になる。

「で、こっちの無愛想なのがはく

「……」

 自らがいかに『女』であるかを説き続ける珊瑚の声など聞こえないとでもいうように、紫苑がもう一人の従者の方へ身体からだをむけた。

 紹介された側もこんな騒ぎには慣れているのか、気にするりもなくこちらへ軽く頭をさげた。が、くようなそうぼうは片時も瑠璃からはずれることがない。

「琥珀は疾風はやての一族でって──こらこら、女の子にそんな怖い目むけてちゃだめでしょ」

 ごめんね、こういうヤツだから気にしないで、としようする紫苑に、瑠璃は小さくあごをひいた。だが、その目は琥珀にむけられたままだ。

 ──これが、疾風。

 疾風の一族は大友氏とは違い、現王朝にせいふくされ、服従をちかった一族だ。以来、反発する瑠璃たち一族とは逆にけんしん的に仕えていると聞いていたが、なるほど、となつとくさせられる姿だ。

 そう思って見ていると、間にはいった紫苑に視界がさえぎられる。ひとつまたたいて彼に意識を戻すと、にこりと微笑ほほえまれた。

「まあ、二人とも従者とはいっても、幼いころからのかおみで遠慮がないんだ。なにか失礼なことがあったら、すぐ言って? しかっておくから」

「かしこまりました。……紫苑さま方もなにかございましたらお言いつけください。それでは失礼します」

 思わぬことに時間を食ったがここが退き時だろう、と瑠璃は今度こそ紫苑たちの前から辞した。

 とおりがかった家人に手水ちようずの用意を申しつけ、自身はせい殿でんへと戻るべく歩きはじめる。十分距離が空いたところで、ふうっとちようたんそくが口をいた。

 気づかない間にずいぶんと気を張りつめていたらしい。

「本当に、おかしな人たち」

 こぼしたつぶやきに、キュッ、とソラがあわせから顔をだした。まるで同意するような、心配するようなそれに、自然と口元がほころぶ。

「さっきは助けてくれて、ありがとう」

 指先で頭をなでれば、ソラは気持ちよさそうに目を細めた。

 そのさまに、ふふっと笑みが零れる。

「でも、あんまり危ないはしないで? ソラになにかあったら、そっちの方が心配だもの」

 のぞきこむようにして告げた瑠璃に、通じているのかいないのか、ソラが鳴き声をあげて再び懐へともぐりこむ。

 わかってるのかしら、と笑みを苦笑に変えながら、「それにしても」とあわせの上から小さな体をぽんぽんとなでた。

「ソラのこと、ネズミだなんて」

 失礼な、と不満がりつつ、正殿とべつむねを仕切るいたべいを抜け──瑠璃はぎくりと足を止めた。出入り口のすぐわきへいによりかかるようにして立っていたひとかげがあったのだ。

「──おそい」

すい兄さま……」

 低いしつせきに身がすくむ。

 いつからいたのか、そこにあったのは従兄いとこの翡翠の姿だった。

「申しわけありません。従者の方々を紹介いただいておりました」

「余計な言葉はわすな。あれらと我々はあいれない存在だということを、ゆめゆめ忘れるな」

「はい」

 静かにしゆこうした瑠璃に、翡翠は小さく息をついて背をむけた。首のうしろでひとつにくくられたかみがゆらりと揺らぐ。

「いくぞ。おさがお待ちだ」

 先に立って歩きだした広い背中を無言で追う。置いていかれないよう早足で続きながら、瑠璃は足音にまぎれるようにつめていた息をいた。

 額の上をそっとなでる。

 この従兄の前では──いや、父と彼の前では、いつも緊張する。二人のかもあつ的な空気が意識せずともそうさせるのだ。

 幼いころに母をくした瑠璃にほかに兄弟はなく、翡翠が兄代わりといえば兄代わりなのだが、五つ年がはなれているせいか、遊んでもらったおくなどはない。むしろ、物心ついたころにはすでに近寄りがたかった印象がある。そのころから父のあとぎと目されていた分、なおさらだろう。

 ──きらわれてるわけじゃないのは、わかってるんだけど。

 きっと、今だって心配して様子を見にきてくれたのだ。自分にも他人にも厳しい人だから、ああいう言動になっただけで。

 それにやさしい思い出だって、ないわけではない。

 たび息を零した瑠璃ののうに、ふと都からきた三人の姿がよぎる。

「……ああいう男の人も、いるのね」

 さきほどとはちがう気分で独りごちると、翡翠がかたしに視線をよこした。なんでもないというように首を左右にすれば、いつしゆんまゆひそめられたが、特になにを言われることもなかった。

 しかして二人が正殿へと足をみいれると、そこにはいらだちをかくしもしない父真朱が待っていた。

「客人を別棟に案内してまいりました」

 父の正面にこしをおろした翡翠のななめうしろにひかえる形で、命のすいこうを報告する。

 真朱は「うむ」とおざなりにこたえると、「──して」と身をのりだした。

「大倭のわつぱは、なにか言っておったか」

「いえ、特には。ただ……お聞きおよびかもしれませんが、従者のお二人は大友氏と疾風の一族の方だとか」

「ふん、しよせん従者は従者、何者でもいいわ。──そもそも、だッ」

 声もあらく言葉を切って、真朱は脇に置いてあったけんさやごとつかむと、ドン! とゆかへ突きたてるようにしてたたきつけた。

「かつて、中ノ国は八百津国命──我ら一族のものだったのよ。そして、ここ出水こそが国の中心であった」

 それはきるほど聞かされた、まだ中ノ国に多くの神々が住まっていた神話の時代の話だ。

「それを…っ」

 だからこそ、うなる父の口から次にでてくるだろう言葉は簡単に予想がつき、瑠璃はでそうになった嘆息をぐっと押し殺した。

てるひのおおかみが、この地は我らが支配してやらねばならぬなどとほざきよってからに!」

 現王朝の始祖たる照日大神は、空の上にあるというたかノ《の》はらに住まうとされている太陽神だ。その神がなにを思ったのか、自らの子孫を中ノ国の支配者として送りこんできたのである。

 むろん地上の神々は反発した。が、天の神々との力の差はあつとう的で、八百津国命はそれ以上の争いをいとい、国をゆずることを決意。

 こうして、中ノ国の支配権は八百津国命から照日大神の子孫へ、つまり瑠璃たち一族から現王朝へと移った──というのが、神話の伝える話だ。

 とはいえ、地上から神々のぶきうすれ、住まう者が神から人となった今でも、この出水の地には旧王朝としてのほこりが根付いている……というより、しゆうしている。周辺地域へのえいきよう力もにはできない。

「それを、今度はなんだ、大倭の連中に剣をほうぜよだと? ごとは寝て言えというのだ!」

 父の言葉に、たしかに、と瑠璃は内心でうなずいた。まつりごとや軍のことにはくわしくない自分にでもわかる。

 剣──戦うための武器をちようていけんじようする、ということは、争う意志がないのを体現すること。たんてきに言えば、服従の意を示すことだ。

 要するに、いいかげんいにしえの誇りにしがみつくのをめ、自分たちにひれせ、と言ってきているのだ。

 出水が大倭王朝に従えば、影響力があるだけに周辺の国々もそれにならう。朝廷はそう踏んで、おいそれと追い返すことのできない皇子を送りこんできたのだろう。

「大倭の連中め……ついに地方の力を弱めて、権力を中央に集める気か?」

「ほかの国にも同じことを要求しているのならば、その可能性は高いかと」

 朝廷から『くにのみやつこ』という役職をあたえられているとはいえ、実質は肩書きをかんしただけの地方ごうぞくおのおのの権限で国を治めている。せいぜいが決められた税を朝廷に納めているくらいだ。

 その現状を朝廷が作りえようとしているのではないか──というのが、父と翡翠の意見らしい。

 剣を奉ぜよ、の一言でそこまでわかるのか、とえんどおい話を聞くともなしに聞いていた瑠璃の耳に、翡翠の低められた声がはいってきた。

「どう、しますか」

 剣を献上する、ということは、一から剣を打つということだ。

 出水国の首長であると同時に、タタラ場をふくむ鉄器作りのすべてをとり仕切る長でもある真朱は、跡継ぎの問いかけに太い眉をよせて唸った。

「剣はできあがりだい献上する、と口先だけ言って追い返すこともできるが……ここで待つと言われたらやつかいだな」

 なにより口先だけでも従う意志を見せるのはごうはらだ、としぶい表情だ。

「ともかく、まだ耳にいれたわけではない。しばらくは様子見だ」

「わかりました」

「おまえもわかったな、瑠璃」

 とうとつほこさきをむけられ、瑠璃ははっとしながらもそんなりは見せずおもてせた。

「くれぐれも連中につけいられるようなすきを見せるでないぞ」

「かしこまりました」

 頭をさげながら、ふと思いだす。

 ──そういえば、婿むこがどうのと言われたこと、伝えてなかった。

 言った方がいいのだろうか、としゆんじゆんしたあと、まあいいか、と瑠璃は顔をあげた。

 ──きっと、単なるお遊びだろうし。

 女性ぜんぱんにそうなのか、瑠璃を長のむすめだと近くの里人に聞いた上でけてきたのかはわからないが、いかにも軽々しい感じのする男だったのは間違いない。

 気にするほどのことでもない、と判断して、瑠璃は父たちの前をあとにした。──が、それが『気にするほどのこと』だったとわかるのに、さほどの時間はかからなかった。


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