一章
橘の里にあって真っ先に目につくのは、高い高い、天にまで届くかと思われるようにそそり立つ
里のどこであっても──
その社に、瑠璃の姿があった。
ぴん、と張りつめた朝の空気の中、静けさとともに
派手な動きはない。
しかし、
やがて舞を終え、拝礼した瑠璃は、神前を辞した。
一歩間違えば転げおちそうな階段をゆっくりとおりていく。最後の一歩が地面につくと、我知らずふっと息が
さて、と朝のお役目をすませ、
「おはよ、瑠璃」
ふいに背後からかかった声に、瑠璃は肩を
この声は、と
「
まさか朝一番からこんなところで顔をあわせるとは思っていなかった──というより、特別なことがないかぎり会うこともないと思っていた人物の登場に、さきほどの
「おはようございます、」
「うん?」
皇子、と
「──紫苑さま」
無言の圧力を感じて言い
そんな様子に軽いだけではないなにかを感じるが、父や翡翠にも必要以上に
「昨夜はゆっくりお休みになれましたか」
「うん、おかげさまでね」
「それはようございました。ところで、朝早くからこんなところでなにを?」
瑠璃の問いかけに、ああ、と紫苑は目の前の階を見上げた。
「昨日、とおりがかりに見かけたこれが気になって、散歩がてら見にきたんだ。そしたら瑠璃が舞ってるのが目にはいって──あんまり
「……ここから?」
まっすぐむけられた賛辞に
階下から自分の姿が視認できたというのか。いや、考えるまでもなく、
瑠璃が一人得心すると、
「目はいいんだ」
考えが読まれている上に、先の言葉が口からのでまかせなどではないと言われているようなそれらに、軽く
「それにしても、お一人ですか?」
瑠璃は
見るかぎり、例の従者たちの姿はない。敵地とも言えるような場所で、あの二人が皇子を一人にするだろうか。ついでに、あそこには警護という名の、父のつけた見張りがいたはずなのだが。
「あの二人が
「そう、ですか」
あなた一人で十分めだつ、とか、それは彼らに
そんな瑠璃に
「これが、八百津国命を
「いえ──ぁ」
否定して、しまった、というように小さく声を漏らした瑠璃に、こちらへ首を
「
どうせすぐにいなくなる相手だ、適当に
「……これは
「門?」
「あの山自体が、
説明しながら瑠璃は社のむこうにそびえる山を見やった。
照日大神の子孫の支配を受けるようになった今も、ここ出水ではこの地を守る神として八百津国命を祭っている。今もあの山から我々を見守ってくださるのだと、人々は日々
そんな神の住まう
ついつい口元に皮肉な色が
「あの山がいわばご神体ってわけか。──で、瑠璃はその
「えぇ、まあ」
思った以上に苦みを
「男は
「あぁ、
「だとしたら、わざわざ聞かれるまでもないかと」
舞をしているところを見たというなら、問わずともわかりきったことだ。
瑠璃のそっけない言動に、紫苑は腹をたてるでもなく、にこりと笑った。
「うん、だけど、好きな女の子のことはなんでも知りたいじゃない?」
さらりと言い放たれた
「『好きな女の子』?」
「うん」
「だれのことですか」
「なに言ってるの? 瑠璃しかいないじゃない」
いつのまにか目の前に立っていた紫苑をまじまじと見上げたあと、瑠璃は
「……そうですか」
「あ、信じてないでしょ。ひどいなぁ、昨日お
「……」
出会い
「申しわけありません。やらなければならないことがありますので、わたしはこれで」
これ以上はつきあいきれない、とばかりに背をむけようとした瞬間、パシッと腕をとられた。
「
耳元で
「──って言っても瑠璃は信じないだろうけど、好きっていうのは
それは覚えといて──?
のぞきこんできた
対応の追いつかない頭で半ば
目で追う背中が、
なんだったのかしら、あれ……。
冷静になってみれば、あんな軽々しい言葉のどこを信じろというのか、という気持ちに変わりはない。
しかし一方で、あの時紫苑が見せた
ただ、なにかを思い
「────
静かに息をつくと、瑠璃は座ったままうしろへとむき直った。そこには赤い顔で乱れた呼吸を
「こちらを持ち帰って、
神の
「
「ああ……ありがたいことでございます」
女性が
「巫女さまにご
「いえ」
子どもに笑いかけながら何度も礼を言う母親の姿に、苦いような、うしろめたいような、複雑な感情がこみあげてくる。
瑠璃はそれを顔にださないよう、ことさらに無表情を
母親の方はそんな彼女の様子を気にした風もなく、ぺこぺこと頭をさげながら子どもと榊を手に立ちあがりかけ、あ、と包みに目をやった。
「あぁ、わたしが」
この上、包みをとるのは大変だろうと、瑠璃は代わりに手にして
「ありがとうございます。巫女さまにいただく薬草は、本当に
「……早くよくなるといいですね」
それは薬草の効果であって御利益とは関係ない、と
すると、彼女はなにかを思いだしたようにこちらを見た。
「そういえば……見慣れない
「──都からの客人です。なにかされ……いえ、ありましたか?」
一瞬動きを止めたあと注意深くうかがった瑠璃に、母親は
「あったといいますか……ここへうかがう
「そうでしたか」
「別れ
短い間会っただけだが、あの従者たちがそんな
──まただ。
この手の話を聞かされるのは、実ははじめてではない。先に
家人の中にも、気さくに声をかけてもらえたと、当初の
案の定というか、この母親も「ああいう殿方もいらっしゃるんですね」と彼に対して好感情を
それでは失礼いたします、と去っていった母子を見送って、瑠璃は深く息をついた。
「ずいぶんと好き勝手に出歩いているようだけれど」
ね、と同意を求めるように
そこにソラがいることに慣れてしまって、姿がない時でもついいる気になってしまう。ほとんど
思いだすと小さな
母子の去った場は
困りごとや願いごとに対する祈願もあるにはあるが、主に
だが、神に願ったところで怪我や病が治りはしない──。
瑠璃はだれよりそれを知っていた。
だからこそ、人々に感謝を
瑠璃は胸にわだかまるものを振り
「次の方は?」
「さきほどの者で最後です」
返った応えに、そう、と
「では、わたしはさがります。──そうだ、翡翠兄さまがどこにいらっしゃるか、知っている?」
そそくさと立ち去りかけ、足を止める。
一応、皇子のことを
「翡翠さまでしたら……」
「──私がどうかしたか」
回答がある前に背後から
「翡翠兄さま。すこし、気になる話を耳にしましたので」
「ちょうどいい、私もおまえに話がある」
翡翠がくいっと
うしろについて歩きだしてしばらく、あたりから
「気になる話とは?」
「すでにお聞き
「そうだな、私も聞いた」
おもむろに立ち止まった翡翠が、くるりと瑠璃の方へむき直った。自分を見下ろす双眸がすっと細められる。
「朝、神殿のところでおまえがあの皇子と
「! それ、は……」
瑠璃は思わず目を
「別に、おまえから進んで会っていたとは思わない。だが、どうしてすぐに
「申しわけ、ありません」
昨日同様、わざわざ言うほどのことでもない、と思ったのもたしかだった。が、それ以上に自分でも整理がつかなかったのだ──自身の心も
だったら報告して判断を
はあ、と頭上におちた
「……瑠璃、あの皇子に心を許しているわけではないだろうな?」
「まさかっ」
とっさに顔をあげると、目元を
「昨日も言ったように、大倭の人間は我々にとっては敵、
いいな、と念押しされれば、頷かないわけにはいかない。
「もっと巫女としての
重ねて言い置いてむけられた背を見送りつつ、瑠璃はさきほど溜息がおちたあたりをそろりとなでた。
「あの人のせいで、とんだとばっちりだわ」
昨日はもう
が──。
「おはよ、瑠璃。今日も
──また、いる……。
神殿の
あの日した、『関わらないようにしよう』という決意は、翌朝には
以来毎朝、彼は瑠璃が上からおりてくるのをここで待っているのだ。ほかに行き来する手段がない以上、どうしたって
「またいるんですか。というか、いつまでこの里にいらっしゃるんですか」
いい加減、対応もぞんざいになろうというものだ。──当の紫苑は「よそよそしさがなくなってきた」と喜んでいるが。
ただ、すべてがあの朝と同じ、というわけでもなかった。
「こっちだって、いたくているわけじゃないわよ。あんたの父親が紫苑さまと会おうとしないんじゃないの。のらりくらりと返事をはぐらかしちゃって、まったく。そんなこと言うくらいなら、
そう、最初の日を除いて、必ず珊瑚か琥珀のどちらかがついてくるようになったのだ。
皇子の護衛も
問題は珊瑚だった。
「そもそもあんた、綺麗だとか言われて調子にのってるんじゃないでしょうね? あんた程度の女、都にはごろごろしてるんだから」
こうして毎度食ってかかってくるのだ。
「珊瑚、うるさい」
「そんなっ、ワタシは紫苑さまのためを思って──」
「照日大神じゃないとはいえ、ここが神の
その言い分に、瑠璃は軽く目を見開いた。不承不承口を
──だからこの人は、上にあがってこようとはしないんだ。
いつもいつも階段をおりきってから声をかけてくる彼を、すこし不思議に思っていた。興味にあかせて
そうなればまた
こういう考え方をする人なんだ、と意外な思いで紫苑を見つめると、視線に気づいたのか
──いけない。
うっかり感心しかけていたことに気づいて、さっと目をそらす。翡翠にも軽々しい行動を
瑠璃はそのまま彼らを置いて歩きだした。
彼の
一方で、自分ばかりが
「今日はこれからどうするの?」
「紫苑さまには関係のないことですから」
こちらは急ぎ足なのにもかかわらず、紫苑はゆったりとあとをついてくる。そんなことにも自分と彼の
「関係あるなしじゃなくて、好きな子のことはなんでも知りたいじゃない?」
それに、といたずらめいた表情を
「お
「……っ」
まるで、良くも悪くも
「婿?……って、まさかこの小娘の!? やだっ、
背後で再び珊瑚が
「──婿」
無意識のうちに立ち止まって
「してくれる気になった?」
わくわくとこちらを見つめる彼を、じっと見返す。
真朱の子どもは娘の瑠璃一人だ。
──わたしの婿になるということは、この国の
そして、紫苑は大倭の
──これが、
世間知らずの若い娘なら、甘い言葉を
「……」
瑠璃は
「父にはすでに跡継ぎがいますから」
遠回しに『婿は必要ない』、すなわち『あなたと結婚などしない』と告げた瑠璃に、
「それは……お
「な…っ!?」
予想の
「なぜそうなるんですか!」
「ええー」
自分でも
「まあ、
一転、からりと笑った。
「それはそうと、跡継ぎっていうと、あのキミの
「……はい」
一連のやりとりにどっと
「ってことは、彼が瑠璃の?」
「まだ、正式ではありませんけれど」
だれにしかと言われたわけでもない。しかし、父の跡継ぎと目される翡翠と一人娘である瑠璃との結婚は、里の中では
ふーん、と感情の読めない声で呟いて、紫苑がこちらを
「あんな
無愛想って……と瑠璃は軽く
むしろ翡翠は
「……たしかに厳しい人ですが、わたしや国を思ってのことですから」
その
それを息苦しく感じないわけではないが……。
「それに、
遠い思い出を
「──そう」
「?」
ふとまとう空気が変わった気がして、隣を見る。だが、あったのはいつもの
「じゃあ、オレももっと
「え──」
瑠璃が
はっとした瑠璃はとっさに手を
「待っ……そういうことでは」
ない、と解こうとした誤解は、
瑠璃は宙を
「がんばるって、なにをするつもりなの……」
話が通じない、と頭を
遠回しに
「本当、おかしな人」
疲れたように零すと、瑠璃は
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