二章_三


 ──この男…っ

 言動の軽さから頭の方も軽い男かと思いきや、とんだ食わせ者だったか、と笑っているようで笑っていない目の奥に、翡翠はひそかに奥歯をめる。

『この里は、なぜ、橘の里と言うんです?』

 たった今、眼前の男から投げかけられた問いに、適当にあしらって追い返そうとしていたのが裏目にでたことを、翡翠はさとった。

 ──なにを知っている……?

 ここまでくると、皇子直々に出水まできた目的にも疑念が生じる。

 本当に、けんちようていけんじようさせるためにきたのか。

 ひょっとして、と翡翠ののうによぎったのは、この里に昔から伝わる歌だった。



 君立ちて 花かぐわしき 泉のほとり その身時じくに 老ゆを知らず 八千代に我らを 守りたまふ



 この歌には里の名の由来とともに、ある秘密がかくされているといわれる。

 もしかしてこの男は、さぐりにきたのではないか。

 だとしたら、たいざいが長引けば長引くほどその機会をあたえることになる。それだけならまだしも、神聖な地をらすきよにもでかねない。

 見張りはつけてあるが、相手が相手なだけに出歩かないようになどと強くは言えない。また、まかれることもしばしばだった。

 余計な言葉をわすなと言いふくめてあるが、瑠璃とのきよが近いことも気になる。

「……」

 たんよみがえったそれに、翡翠はくっと目元に力をこめた。

 ──瑠璃が、あんな顔をみせるなど。

 物見やぐらの上から見た光景に、ふつり、と腹の底からきあがってきたのは、憤りにいろどられたおどろきだった。

 物見櫓にいたのはたまたまだった。

 いくらきんりんの国々は出水に一目置いているとはいえ、現王朝が動きだしたとなればなにがどう転ぶかはわからない。そうでなくとも野山の動物たちが活発になるころだ。けいかいおこたるわけにはいかない。

 変わりはないか報告を受けがてら、自身の目でも不備がないかかくにんしておこうと櫓にあがったのだ。

 そこへ目に飛びこんできたのが、野から戻ってくる瑠璃と皇子の姿だった。

 皇子が瑠璃につきまとっている、という報告は受けていた。瑠璃自身から聞いてもいた。

 二人の距離が気にはなったものの、なるほど事実らしい、と見下ろしていた時、そのしゆんかんおとずれた。

 二人が顔を見合わせたかと思うと、瑠璃の顔が楽しげにほころんだのだ。

 ひさしく──すくなくとも、彼女の母親がくなってからほとんど見た覚えのない、作り笑いでない笑顔を、息を止めてぎようしていたのに気づいたのはしばらくあとだった。

 なぜ……という思いが、いらだちに変わるのに時間はかからなかった。

「──なにをしている、あれは。皇子に心を許すなど言語道断…っ」

 そう、きびすを返して櫓をおりようとした直後、馬が暴走する新たなそうどうが起こったのである。

 長いような短いにらみあいのあと、「──さて」と翡翠は視線を切った。

「そのようなこと、考えてみたこともなかったものですから」

 暗に答える気はないと告げ、踵を返す。

「いくぞ、瑠璃」

「はい」

 目を伏せてこたえる瑠璃に、腹の底がざわめく。

 けんしわを刻みそうになるのをこらえ、翡翠はかたしに皇子へ頭をさげると瑠璃をともなってその場をあとにした。




 先の騒動から三日後、瑠璃は紫苑たち三人を半月前とは逆の道のりを案内して歩いていた。

「ようやく……っていうか、ここへきてから半月もおとなしってどういうことなのかしら? まったく、にするのもいい加減にしてほしいわ。こっちはおおきみつかいなのよ」

 声をおさえようともしない珊瑚の文句だけがとうとうとあたりにひびく。

 もはや耳に慣れたそれにうるさいという感覚も湧かず、よくこうもしゃべり続けられるものだと感心する。

 真朱から紫苑へ「会ってやってもいい」というれんらくがいったのが──むろん、もっとていちような言い回しだが──昨日のことだった。紫苑はすぐさまだくを返し、今日の会談へといたったのである。

「そもそも紫苑さまのお立場をかんがみても、あっちから出向いてくるのが常識でしょう? ほんと、これだから田舎いなかの人間はいやんなるわ」

「──そんなに文句ばっかり言ってたらつかれるんじゃない、珊瑚?」

 ここへきて紫苑がどこかうんざりしたように口を開いた。

 背中で聞いている瑠璃にもわかったが、当の珊瑚はちがったようだ。

「まあっ、紫苑さまにづかっていただけるなんて! なんだかんだ言いながらやっぱり紫苑さまもワタシのこと」

「ちょっとだまったら」

 感動に打ちふるえるようなこわを、紫苑が今度こそばっさりち切る。

「なんて冷たいお言葉……でもそういう紫苑さまもてき!」

 声の大きさはおちたものの、黙れと言われてそく黙らないあたり、彼らの間にある気安さを感じさせた。

「──それに、主従のきずなの強さも」

 口の中でつぶやいて肩越しにちらりと見れば、強すぎるまなざしと目があう。瑠璃はそっと息をきだして前へむき直った。

 部屋を訪れてからこちら、琥珀の視線は片時もはなれることがない。気配にさといわけでもない瑠璃でも、背中に穴が空くのではと思うようなするどさだ。

 あの馬の暴走以後、顔をあわせるとこの調子だった。──いや、あわせなくても時折こちらを見つめていることがあった。

 まるでかんされているようで、少々気がる。

 ──いつしよにいたわたしを紫苑さまがかばったから、存在が彼に害をなすと思われてる、とか?

 とはいえ、あそこにいたのが自分でなくとも……例えばあの転んだ男の子だったとしても、紫苑は身をていしてかばっただろう。なにも自分が特別、というわけではないはずだ。

 ──……そう、違うはず。

 瑠璃だけ、と彼は言った。

 どんな自分も『瑠璃』なのだと認めてくれた。

 八百津国命のすえであることをほこりに思う父や翡翠はもちろんのこと、だれにもうち明けられなかった重苦しい胸のうちを、彼だけが察してくれた。

 それらは自分特別だ。ともすれば、ずっとめていたものがあふれだしてしまいそうになるくらいには。

 だが、彼は違う。

 きっとだれに対してもなのだ。

 瑠璃はそう、変わりはじめている自分の心に言い聞かせた。警戒心がゆるみ、紫苑という人物をもっと知りたいと思いはじめている自分に、くぎす。

 それに……となでつけるように頭にれた瑠璃は、

「──り、ルーリ?」

「え? は──」

 耳に届いた呼びかけに返事をしようとして、ぎょっとする。うしろからのぞきこんできた紫苑の顔が肩のすぐ横にあったのだ。

「ちょっと、さっきからずっと紫苑さまが呼んでるじゃない。さっさと返事しなさいよね、むすめ

「珊瑚は黙ってて。──どうかした、上の空だね?」

「あ、いえ」

 あなたのことを考えていた、とは言えずあいまいすと、瑠璃はいつのまにか止まっていた足を紫苑の方へとむけた。

「それより、お呼びとは? なにか、ありましたか」

 まもなくつきますが、とせい殿でんの方を見やる。

 紫苑がつられるようにしてそちらをいちべつした。

「あー、うん、真朱どのはどうして急に会う気になったのかなぁって」

 なにか聞いてる? と小首をかしげる。そんな紫苑に瑠璃はゆるりと首をった。

「……いえ、申しわけありませんが」

 うそではない。事実、父からなにを聞かされたわけでもない。

 心あたりがないか、と問われたらそうではなかったが。

『あの皇子みこは別の目的で動いている可能性がある。こうなったららされないうちに追い返した方が得策だろう。いいか、それまでくれぐれも警戒を緩めるな。──しよせん、我々とあれは生きる世界が違うのだ』

 あの日、紫苑と別れたあと、しきもどちゆうで翡翠からそう告げられていた。

 ──目的……。

 彼が目的のためにこちらを利用しようとしているのなら、自分が特別なのかもしれない、と思えてしまうのもうなずける。

 やつかいなのは、それに気づかないふりでふたをして『自分が特別なのではない、彼はだれにでもそうなのだ』と思いたがっている自分自身だ。

 一方で、あのがおが特別なものではないと思うたび、胸のあたりにもやもやするものがあった。

「まいりましょう」

 からまりあう糸のような感情をほうりだすようにして、瑠璃は再び先を歩きだした。

 翡翠が言っていたように彼らが都へ帰るなら、その方がいい。彼らさえ──紫苑さえいなくなれば、もとどおりの生活に戻るだけだ。

 三人三様の視線を背中に感じながら、瑠璃は正殿へとむかう足どりを速めた。





「皇子さま方をお連れしました」

 開け放たれていた戸の前で瑠璃はひざを折った。

 会談の場はすでに整っていた。むかって正面には真朱が座し、ななめうしろに翡翠がひかえている。その前には、紫苑たちの席が設けられていた。

「うむ、おとおししろ」

 あごをしゃくった父に、瑠璃はわきへと退く。

「どうぞ、おはいり──」

 ください、と頭をさげようとして、ふと動きを止める。

 紫苑たちが座る場所として上等のおりものかれているのだが、大きくしわがよっているのだ。父たちは敷物にまで気が回っていないのか、気にも留めていないのか、捨て置かれている。

 だが、仮にも皇子をむかえる場でかりがあってはならない。こちら側のはじになるとあってはなおさらだ。

「なにをしておる、瑠璃」

「申しわけありません。少々お待ちください」

 不調法をとがめる父の声に、こちらもまた不思議そうに自分を見下ろす紫苑へびて、すっと立ちあがる。なにごとか、という視線を浴びながら中に足をみいれた瑠璃は、敷物を踏まないよう、ゆかに膝をついた。

 皺をばして整えようと敷布のはしへ手を伸ばす。

 触れる寸前、キキッ、とかんだかい声があがった。かと思うと、ソラがふところから肩へとけのぼってきた。

「──!?」

 思わぬ出来事にあつにとられる一同をよそに、ソラはしっぽをあげ、かくの姿勢をとる。

「ちょっ、ソラ」

 いち早く我に返った瑠璃がソラを押さえようとした時、もぞり……とが動いた。

「──え?」

 視界の端にとらえた光景に目を疑う。反射的に敷物の端をまくろうとして、

さわるな!」

 鋭い制止が耳を打つ。と同時に、さっと瑠璃の前へ立ちふさがった背中があった。紫苑だ。

 彼はさやごとこしけんをひきくと、ダン! と切っ先を敷物へとき立てた。

「紫苑さま!?」

「瑠璃、皇子、一体なにを…っ」

 珊瑚と真朱のさけびがこうさくするのを聞きながら、瑠璃はぼうぜんと突き立てられた鞘の先、ちょうど皺のせんたんにあたる部分を見つめた。

 一体なにがあったのか、こちらが聞きたいくらいだ。

「今の、は……、ツッ」

 なんだったのかとのどにからむ声で問いかけた瑠璃は、敷布に起こった変化にひゅっと息をんだ。

「血……?」

 そう、鞘が突き立てられた部分から、じわり、とみだすように赤い色がにじみでてきたのである。

「動かないで」

 低い声で言い置き、剣をはずした紫苑が腰をおとす。敷物の端をつかむと、彼はゆっくりと捲っていく。

 やがて現れたソレに、瑠璃は大きく目を見開いて口元を手でおおった。

「毒ヘビ……!」

 頭はつぶれていてわからないが、この模様はちがいない。まれればまず助からないと言っても過言ではない。

 そんな毒を持つヘビが、頭を潰されてなお床の上でのたうっている。

 その姿に瑠璃は青ざめた。

 ──どうしてこんなものが……。

 大きさはさほどではないとはいえ、子どもでもない。まかり間違って踏んづけでもしていたら、どうなっていたかと思うとぞっとする。

 よかった……と危険をしらせてくれたソラへのろのろと手を伸ばし、包みこむようになでる。一方で、たかぶっていた感情がしずまってくるにつれ、別のことに目がいった。

 ──あの状態で、的確に頭を潰すだなんて。

「触るな」という叫びからして、紫苑はヘビだと気づいていた可能性は高い。が、駆けつけてくるまでのわずかな時間で頭の向きを見定め、なおかつ迷いなく振りおろされた鞘の先がいちげきで仕留めたことを思うと、さんたんせざるを得ない。

 ──とても見えないけれど、相当の使い手ということ?

 そういえば彼の手も身体からだつきもきたえている者のそれだった、と今さらながらに思い至る。

 そんな瑠璃をよそに、男たちは険しい顔つきで毒ヘビのざんがいを見下ろしていた。

「──こんなものが、いつのまに」

 半ばかせていた腰を重くおろした真朱が、たんそく混じりにつぶやく。

「──白々しい」

 入り口近くから返ったき捨てるような声に首をめぐらせる。そこには眼光するどく父をねめつけている琥珀の姿があった。

 意外さに軽く目をみはる。食ってかかってくるなら珊瑚の方だと思っていた。

「なに……?」

 聞き捨てならないとばかりに翡翠がまゆをあげた。

「それ、紫苑さまをねらってそちらが仕組んだことだろう…っ」

「我々がわざと敷物の下にしのばせたとでも言うのか!」

「ならば『たまたまだ』とでも言うつもりか? 一度ならまだしも二度ともなれば疑うのが当然だろう」

「ちょっ……待って待って!」

 琥珀と翡翠の口論に、珊瑚が割ってはいった。こめかみを押さえ、眉をよせる姿からはいつになく冷静になろうとしている様子が見てとれた。

「今の、二度ってどういう意味なの? ほかにもこんなことがあったってわけ?」

「──珊瑚だとて三日前のことは聞きおよんでいるだろう」

 真朱たちから目をはなさず、琥珀がうなるように告げる。

 なにが言いたいのかさとったのか、紫苑がつかれた声をあげた。

「琥珀……あれはこっちがめいわくをかけたんだから」

「いいえっ」

 あるじかいにゆうに、今までおさえこまれていた声調がねあがる。

「紫苑さまは知らないでしょうが、俺は見たんです。あの時、紫苑さまの馬にむかってなにかが飛んでくるのを」

「! それって……」

 琥珀の告白に、珊瑚の表情が険を帯びる。彼の言わんとするところを理解したのだろう。

 馬の件もこの毒ヘビも、何者かが紫苑を狙って意図的にけたものだ、と。

 どちらも『たまたま』という見方もできる。ヘビだって屋内へはいりこむこともないことではない。

 しかし、どちらも一歩間違えば紫苑の身が危なかった。これを『たまたま』だと言うことは彼を守る身としては、できないだろう。

 ──そうか……だから、あの一件以来見られてたんだ。

 ぐうぜんか、あるいは故意か。故意なら、だれのわざなのか。──にわかにきあがったわくに表情をかたくしながら、瑠璃は得心した。

 琥珀はまさしく疑っていたのだ。出水側の人間が紫苑に害をなすのではないかと。

「そんなもの、そちらの勝手な想像にすぎん」

 ばかばかしい、と荒く息を吐いた真朱に、琥珀、珊瑚の二人がいきりたつ。

 いつしよくそくはつにらみあいに、空気がぴんと張りつめる。

 その重いちんもくを破ったのは、場違いなほど軽い声だった。

「なにか、って?」

「──え?」

 なんのことかとまたたいて、瑠璃はおもむろに立ちあがった紫苑につられる形で顔をあげた。彼はじっと琥珀に視線を注いでいる。

「なにかって、なんだったわけ?」

 再度投げかけられた問いに、ようやくてんする。彼は馬にむかって飛んできたものはなんだったのか、と聞いているのだ。

「それ、は……」

 琥珀が目に見えてらいだ。それの意味するところは、つきあいの浅い自分にもあきらかだった。

「わからないの?」

「……あの時は、それどころではなかったので」

 それももっともなことだろう。主の危機を前にしたら『なにか』をたしかめるゆうなどあるはずがない。

 傷など馬自身にこんせきがあるなら別だが、石程度だとあとから調べるのは困難だ。

 その返答に紫苑は、そらみたことか、と言わんばかりに息をついた。

「だったら、虫かなにかだったんでしょ」

「しかしっ……では、このヘビはどう説明するのですか」

「偶然」

 言下に退けた紫苑に、琥珀が言葉を失う。なつとくのいっていないぜんとした表情に、やれやれと紫苑は苦笑いだ。

「そもそも、だよ。真朱どのたちがほんとにオレを狙うつもりなら、こんなあからさまなことすると思う?」

 ですよね、というように正面へ顔を巡らせた紫苑に、翡翠が重々しくあごをひいた。

「これでは、疑ってくれ、と言っているようなものだ。──とはいえ、こちらのぎわは認めよう」

 ヘビに気づかなかったことをびた彼を、瑠璃は意外な思いで見つめた。

 ──こちらのせいではない、とかもっときようこうな態度をとるかと思ってた……。

 琥珀や珊瑚にしてもそういう態度にでられてしまうと、ごういんついきゆうはできないようで、納得がいかない様子ながら口をざす。ただ、こちら側を見る目つきだけは険しさを増していた。

「いいえ、瑠璃どののおかげでなにごともなくすみましたし。とはいえ……」

 こうなった以上、今日の会談は無理だろう。

 そうほういつした意見により、居合わせた者たちの胸にしんあんを植えつけて、なにもはじまらないままにこの場はお開きとなった。





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