二章_三
──この男…っ
言動の軽さから頭の方も軽い男かと思いきや、とんだ食わせ者だったか、と笑っているようで笑っていない目の奥に、翡翠は
『この里は、なぜ、橘の里と言うんです?』
たった今、眼前の男から投げかけられた問いに、適当にあしらって追い返そうとしていたのが裏目にでたことを、翡翠は
──なにを知っている……?
ここまでくると、皇子直々に出水まできた目的にも疑念が生じる。
本当に、
ひょっとして、と翡翠の
君立ちて 花
この歌には里の名の由来とともに、ある秘密が
もしかしてこの男は、それを
だとしたら、
見張りはつけてあるが、相手が相手なだけに出歩かないようになどと強くは言えない。また、まかれることもしばしばだった。
余計な言葉を
「……」
──瑠璃が、あんな顔をみせるなど。
物見
物見櫓にいたのはたまたまだった。
いくら
変わりはないか報告を受けがてら、自身の目でも不備がないか
そこへ目に飛びこんできたのが、野から戻ってくる瑠璃と皇子の姿だった。
皇子が瑠璃につきまとっている、という報告は受けていた。瑠璃自身から聞いてもいた。
二人の距離が気にはなったものの、なるほど事実らしい、と見下ろしていた時、その
二人が顔を見合わせたかと思うと、瑠璃の顔が楽しげに
ひさしく──すくなくとも、彼女の母親が
なぜ……という思いが、いらだちに変わるのに時間はかからなかった。
「──なにをしている、あれは。皇子に心を許すなど言語道断…っ」
そう、
長いような短い
「そのようなこと、考えてみたこともなかったものですから」
暗に答える気はないと告げ、踵を返す。
「いくぞ、瑠璃」
「はい」
目を伏せて
先の騒動から三日後、瑠璃は紫苑たち三人を半月前とは逆の道のりを案内して歩いていた。
「ようやく……っていうか、ここへきてから半月も
声を
もはや耳に慣れたそれにうるさいという感覚も湧かず、よくこうもしゃべり続けられるものだと感心する。
真朱から紫苑へ「会ってやってもいい」という
「そもそも紫苑さまのお立場をかんがみても、あっちから出向いてくるのが常識でしょう? ほんと、これだから
「──そんなに文句ばっかり言ってたら
ここへきて紫苑がどこかうんざりしたように口を開いた。
背中で聞いている瑠璃にもわかったが、当の珊瑚は
「まあっ、紫苑さまに
「ちょっと
感動に打ち
「なんて冷たいお言葉……でもそういう紫苑さまも
声の大きさはおちたものの、黙れと言われて
「──それに、主従の
口の中で
部屋を訪れてからこちら、琥珀の視線は片時も
あの馬の暴走以後、顔をあわせるとこの調子だった。──いや、あわせなくても時折こちらを見つめていることがあった。
まるで
──
とはいえ、あそこにいたのが自分でなくとも……例えばあの転んだ男の子だったとしても、紫苑は身を
──……そう、違うはず。
瑠璃だけ、と彼は言った。
どんな自分も『瑠璃』なのだと認めてくれた。
八百津国命の
それらは自分には特別だ。ともすれば、ずっと
だが、彼は違う。
きっとだれに対してもああなのだ。
瑠璃はそう、変わりはじめている自分の心に言い聞かせた。警戒心が
それに……となでつけるように頭に
「──り、ルーリ?」
「え? は──」
耳に届いた呼びかけに返事をしようとして、ぎょっとする。うしろからのぞきこんできた紫苑の顔が肩のすぐ横にあったのだ。
「ちょっと、さっきからずっと紫苑さまが呼んでるじゃない。さっさと返事しなさいよね、
「珊瑚は黙ってて。──どうかした、上の空だね?」
「あ、いえ」
あなたのことを考えていた、とは言えず
「それより、お呼びとは? なにか、ありましたか」
まもなくつきますが、と
紫苑がつられるようにしてそちらを
「あー、うん、真朱どのはどうして急に会う気になったのかなぁって」
なにか聞いてる? と小首を
「……いえ、申しわけありませんが」
心あたりがないか、と問われたらそうではなかったが。
『あの
あの日、紫苑と別れたあと、
──目的……。
彼が目的のためにこちらを利用しようとしているのなら、自分が特別なのかもしれない、と思えてしまうのも
一方で、あの
「まいりましょう」
からまりあう糸のような感情を
翡翠が言っていたように彼らが都へ帰るなら、その方がいい。彼らさえ──紫苑さえいなくなれば、もとどおりの生活に戻るだけだ。
三人三様の視線を背中に感じながら、瑠璃は正殿へとむかう足どりを速めた。
「皇子さま方をお連れしました」
開け放たれていた戸の前で瑠璃は
会談の場はすでに整っていた。むかって正面には真朱が座し、
「うむ、おとおししろ」
「どうぞ、おはいり──」
ください、と頭をさげようとして、ふと動きを止める。
紫苑たちが座る場所として上等の
だが、仮にも皇子を
「なにをしておる、瑠璃」
「申しわけありません。少々お待ちください」
不調法を
皺を
触れる寸前、キキッ、と
「──!?」
思わぬ出来事に
「ちょっ、ソラ」
いち早く我に返った瑠璃がソラを押さえようとした時、もぞり……と皺が動いた。
「──え?」
視界の端に
「
鋭い制止が耳を打つ。と同時に、さっと瑠璃の前へ立ち
彼は
「紫苑さま!?」
「瑠璃、皇子、一体なにを…っ」
珊瑚と真朱の
一体なにがあったのか、こちらが聞きたいくらいだ。
「今の、は……、ツッ」
なんだったのかと
「血……?」
そう、鞘が突き立てられた部分から、じわり、と
「動かないで」
低い声で言い置き、剣をはずした紫苑が腰をおとす。敷物の端を
やがて現れたソレに、瑠璃は大きく目を見開いて口元を手で
「毒ヘビ……!」
頭は
そんな毒を持つヘビが、頭を潰されてなお床の上でのたうっている。
その姿に瑠璃は青ざめた。
──どうしてこんなものが……。
大きさはさほどではないとはいえ、子どもでもない。まかり間違って踏んづけでもしていたら、どうなっていたかと思うとぞっとする。
よかった……と危険を
──あの状態で、的確に頭を潰すだなんて。
「触るな」という叫びからして、紫苑はヘビだと気づいていた可能性は高い。が、駆けつけてくるまでのわずかな時間で頭の向きを見定め、なおかつ迷いなく振りおろされた鞘の先が
──とても見えないけれど、相当の使い手ということ?
そういえば彼の手も
そんな瑠璃をよそに、男たちは険しい顔つきで毒ヘビの
「──こんなものが、いつのまに」
半ば
「──白々しい」
入り口近くから返った
意外さに軽く目を
「なに……?」
聞き捨てならないとばかりに翡翠が
「それも、紫苑さまを
「我々がわざと敷物の下に
「ならば『たまたまだ』とでも言うつもりか? 一度ならまだしも二度ともなれば疑うのが当然だろう」
「ちょっ……待って待って!」
琥珀と翡翠の口論に、珊瑚が割ってはいった。こめかみを押さえ、眉をよせる姿からはいつになく冷静になろうとしている様子が見てとれた。
「今の、二度ってどういう意味なの? ほかにもこんなことがあったってわけ?」
「──珊瑚だとて三日前のことは聞き
真朱たちから目を
なにが言いたいのか
「琥珀……あれはこっちが
「いいえっ」
「紫苑さまは知らないでしょうが、俺は見たんです。あの時、紫苑さまの馬にむかってなにかが飛んでくるのを」
「! それって……」
琥珀の告白に、珊瑚の表情が険を帯びる。彼の言わんとするところを理解したのだろう。
馬の件もこの毒ヘビも、何者かが紫苑を狙って意図的に
どちらも『たまたま』という見方もできる。ヘビだって屋内へはいりこむこともないことではない。
しかし、どちらも一歩間違えば紫苑の身が危なかった。これを『たまたま』だと言うことは彼を守る身としては、できないだろう。
──そうか……だから、あの一件以来見られてたんだ。
琥珀はまさしく疑っていたのだ。出水側の人間が紫苑に害をなすのではないかと。
「そんなもの、そちらの勝手な想像にすぎん」
ばかばかしい、と荒く息を吐いた真朱に、琥珀、珊瑚の二人がいきりたつ。
その重い
「なにか、って?」
「──え?」
なんのことかと
「なにかって、なんだったわけ?」
再度投げかけられた問いに、ようやく
「それ、は……」
琥珀が目に見えて
「わからないの?」
「……あの時は、それどころではなかったので」
それももっともなことだろう。主の危機を前にしたら『なにか』をたしかめる
傷など馬自身に
その返答に紫苑は、そらみたことか、と言わんばかりに息をついた。
「だったら、虫かなにかだったんでしょ」
「しかしっ……では、このヘビはどう説明するのですか」
「偶然」
言下に退けた紫苑に、琥珀が言葉を失う。
「そもそも、だよ。真朱どのたちがほんとにオレを狙うつもりなら、こんなあからさまなことすると思う?」
ですよね、というように正面へ顔を巡らせた紫苑に、翡翠が重々しく
「これでは、疑ってくれ、と言っているようなものだ。──とはいえ、こちらの
ヘビに気づかなかったことを
──こちらのせいではない、とかもっと
琥珀や珊瑚にしてもそういう態度にでられてしまうと、
「いいえ、瑠璃どののおかげでなにごともなくすみましたし。とはいえ……」
こうなった以上、今日の会談は無理だろう。
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