雨の日と透けたブラウス

成瀬なる

夏が来る前の季節。

 六月の中旬。一昨日ほどから梅雨に入ったそうだ。でも、雨が降る様子はなく、空は水彩絵の具で染めたように澄んだ青が広がり、そこに入道雲が聳え立つ。

 僕は、自転車を止め空を見た。綺麗な空だ。あまりに綺麗な空を見ていると、ここが地球ではないと錯覚してしまう。

 本当は、ずっと昔に地球によく似た惑星へたった一人で放り投げられ、今、この美しい空を見ている、と言われても「だろうな」と納得してしまう。それくらい、夏の前の入道雲がかかる空は幻想的で美しい。

 その時、美しい絵を破くようにしてスマホから軽快な電子音が大きくなる。

 あぁ、やっぱり僕は、地球という汚れきった惑星でのうのうと生きているのだ。マニュアル通りの人生を学び、多分、幸せと思われる毎日を死ぬまで続ける。

「もしも、この世界が僕だけだったらいいのに」

 どうせ誰も聞いていないし、見ていないのだ。少しくらい馬鹿げた幻想を口にしてもいいだろう。ラインに送られたメッセージに既読を付けないで削除した。別に、個人的に送られた内容ではない。いわゆる<クラスグループ>というものだ。

 メッセージの内容はこう。

『今日は、文化祭です! がんばりましょう!』

 文化祭をサボることが身勝手で、どれだけクラスメイトに迷惑をかけるのかはわかっている。でも、たまには理由もなく反抗したくなる時がある。別に文化祭でなくてもいい。たまたま、無意味な反抗をしたくなった日が今日というだけだ。

 まだ、蝉の声も聞こえないのに空だけは夏とそう変わりはなかった。


   *


 一時間ほど当てもなくふらふらとしているのも意外と体力を使うものだ。運動量が週二回の体育か登下校だけの僕にはきついものがある。

 少し休憩しようと思い、自転車を止めスマホで近くのコンビニを調べた。硬い電源ボタンを押すと真っ暗だった画面がパッと明るくなる。そして、一時間前に削除したメッセージへの返信やら、クラスメイト同士の文化祭運営に関する連絡がこれでもかというほど並んでいた。

 僕は、それを上へスライドして流し見る。その間も、メッセージの数は伸び続け、気づくと60を越していた。

 でも、60以上のメッセージの中で<僕>の名前は一度も挙がっていなかった。時間通りに集合していないことに対する罵りも自分を心配してくれるような言葉も――スマホの電源を落とす。

 僕は言った「意味もなく反抗したくなるような時がある」と。だが、今、胸の奥で思っている感情は何なんだ。心配されないのなら別にいいじゃないか。

 自分で、自分のことが分からない。

 スマホを開いた理由も忘れ、自転車を漕ぎ出した。


 コンビニで缶コーヒーを買い、店前に置かれているベンチに座ってそれを飲んでいると誰かの怒号が微かに聞こえて来た。僕は、顔を上げあたりを見渡す。土曜日の昼前の時間、人はいない。いるのはベンチに座る僕とコンビニの駐車場で体を舐める猫くらいだ。でも、人の姿が少ない理由はそれだけではないらしい。

 夏を待ちきれない太陽が照り、澄んだ青が続いていた空のずっと奥で灰色が重く混ざっていた。さっき聞こえて来た怒号が、遠雷であったのだと理解する。僕は、灰色から視線を変え、空を見る。入道雲は、依然として聳え立ち、灰色を手招きしているように思えた。

 最後の一口のコーヒーを飲んで自転車にまたがる。

  駐車場に猫はもういない。

  僕は、また目的がなくなってしまった。


 少し判断が遅かったようだ。激しく打ち付ける雨の中を自転車で駆け抜ける。雨音がノイズのように思えた。

 ざまぁみろ、これで文化祭は中止だ。と思ってしまった自分の意地の悪い考えに心底、幻滅した。

 スマホに届くメッセージを見た感情は、僕抜きで楽しむクラスメイトへの嫉妬だというのだろうか。

 それを認めたくはない。だが、文字に起こしてみると嫌でもしっくりきた。

 夏前の雨は止むことを知らない。体に打ち付ける雨は加減を知らない。

 ノイズのように聞こえていた雨音が、今では、自分を罵る言葉に思えた。

 その時、後ろから大きな音でクラクションを鳴らされる。馬鹿な考えに意識を持っていかれていた僕は、その音に驚きスリップした。

 ハンドルを左右にグラグラと動かし、何とかバランスを取ろうと努めたが、濡れた地面に運動不足の僕が太刀打ちできるわけなかった。

 右側から激しく倒れ、自転車の勢いも加わり十メートルほど飛ばされる。

 右腕に走る鈍い痛みに顔を歪めながら起き上がる。痛みを確認すると酷く血が出ていた。腕を動かしてみる。どうやら骨は折れてなさそうだ。

 もう帰ろう――

 その時「大丈夫かい!」と声がかかった。

 ハザードランプを点灯させて、前方で止まる車から傘もささずにスーツ姿の男性が下りてくる。

「ごめんね、驚かせちゃったね。 悪気はないんだ」

 彼は、申し訳なさそうに眉を顰め、僕に肩を貸そうとする。だけど、僕は「大丈夫です」と言って彼の優しさを雑に否定した。

 すると男性は「じゃ、タオルだけでも受け取ってくれ」と言って、会社の名前が書かれたバスタオルを二枚、僕に渡す。

 僕は、小さな声で「ありがとうございます」と受け取り、一枚のバスタオルを頭からかぶった。その後、男性の車が見えなくなってから、近くのシャッターが下りた店前に自転車を止め、地べたに腰を下ろした。

 頭から被っていたタオルで腕の血を拭い傷を確認する。どうやら、大きなけがではなさそうだ。かすり傷程度の傷に胸を撫でおろしたが、血は止まらなかった。タオルを押し当て、重い灰色の空を見上げる。

 今にも落ちてきそうな雲だと思った。ゆっくりと落ちてきた雲は、世界から最初に感情を奪う、感情を失った生き物は悲しみを思い出せなくなる。

 そうすれば、ずっと胸の奥にある自分でも理解できない<嫉妬>に近い何かを考える必要もなくなる。無感情で家に帰り、お風呂に入って、何もなかったかのように明日を迎えたい。

 僕は目を閉じた。長い間、雨音に耳を澄ませていた。目を開けたら感情を忘れていればいいのに――目を開けても雲は落ちていなかった。

 

 止まない雨に喜ぶ蛙たちの合唱を聞きながら、することもなく、ぼんやりと地面を眺めていた。すると、遠くから水を蹴る音が聞こえてきた。目を細め音の方を見る。どうやら音の正体は、雨の中を走る女の子のようだ。

 彼女は、肩で息をしながら僕が雨宿りをしている中に入る。

 中学生くらいかと思ったが、同い年のようだ。彼女の肌が透けるブラウスは僕の通う高校と同じもので、首元についている校章の色が同じ学年だった。

 「もう、濡れちゃったよ……あーあ」と彼女はスカートを絞りながら呟く。

 僕は、隣に置いておいた未使用のバスタオルを差し出した。

「あの、よかったらどうぞ」

 彼女は、一瞬、警戒の色を帯びた目で僕を見たが、すぐに同じ高校だと理解したのだろう。「ありがとう」と言ってタオルを受け取り、水が滴る髪を拭いた。

 雨が止む様子はない。よく雨は、空が泣いてしまっていると比喩されることがある。とても素敵な比喩だと思う。だけど、その涙の意味が、肯定的な涙なのであれば偽善だ。僕にとっての雨の比喩は、退屈しのぎにパラパラとページを捲っている小説の一節程度でいいのだ。

 そんなことを考えていると「ねぇ」と声をかけられた。

 僕は、視線だけで返事をする。

「雨、やまないね」

「そうだね」

 彼女は、濡れている地面に一度は躊躇しながらも僕の隣へと腰を下ろした。近くに来たせいで微かに香る制汗剤の匂いと濡れたブラウスから透ける肌が、意味もなく僕の鼓動を跳ね上がらせる。

 僕は、尋ねた。

「文化祭は、雨で中止になったのか?」

「知らない」

 知らない?、と反復する。

 彼女は「そ、知らない」と口角を上げながら澄ましたように答える。

 ゆっくり時間をかけて、名前も知らないし同い年の少女の表情をかみ砕いて飲み込んだ。

 僕は「君は、変わっているね」と言った。

 彼女は答える。

「変わっているのかな。 でも、私のやっていることがどれだけ自己中心的で、嫌われてしまう危険があるのかはわかっているよ」

「誰も咎めやしないさ。 今日は、雨が降っている。 僕たちの姿は簡単に隠せるよ。 その気になれば、透明人間にもなれる」

 彼女は、僕の冗談にクスリと上品に笑って、そのあと真剣に答える。

「もしも、私が透明人間になって怪奇現象じみたことを起こしても、あなただけは平然とした顔で毎日を送ってね」

 その後「なんてね」と舌を出して笑う。その仕草は、イタズラ好きの少年のようだ。

 僕は「雨宿りだもの何でもありさ」と言い「続きは?」と問う。彼女は、降る雨を見ながら続けた。

「私が、透明人間だって誰かが知っていた方が面白いでしょ? そして、ひょっこり私が顔を出したら『透明人間は楽しかったかい?』って聞いて欲しいの」

 僕は、顎に手を置いて考えた。隣にいる彼女が、透明人間になってしまったことを想像する。

 画面にかかるノイズのように降り続ける雨の一部がぼんやりと歪んでいて、雫が何もない空間を伝っている。それを見て、普通の人は悲鳴を上げ逃げ惑うが、僕だけは手を振ってみる。透明な彼女が手を振り返してくれたかは分からない。だけど、笑顔で僕を見ていることはなんとなく想像できた。

「分かった。 君と約束しよう」

 彼女は小指を差し出し、僕に問う。

「雨が止んでも?」

 僕は、彼女の細い小指へガラス細工を握るようにそっと自分の小指を絡め「雨が止んでも」と答えた。


 その後、僕たちは、雨が止むまでの間、暇つぶし程度の幻想を雨の中で語り合った。ヒーローになって世界を救う話だとかゾンビになってしまうウィルスが世界中にばらまかれてしまった話だとか、そういうこと。

 雨は、まだ、止みそうにない。だけど、僕が抱えていた<嫉妬>に近い感情の正体は分かったような気がする。

 言葉にするのはやめよう。

 

 だって――雨が降っているのだから。

                        完

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雨の日と透けたブラウス 成瀬なる @naruse

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