第2話





 荒れて汚れたこの町にその人がどれだけ染まっているのかは、一目でわかる。

 だから夕方にやって来たその少女を見た時、私はほぼ反射で看板を取り込み鍵を閉めた。


「何、アンタ。ごはんでも食べに来たの?」


 当然、知り合いではない。ただ無目的にくつろぎに来る奴らとは違うと感じていた。


「ここで、煙草が買えると聞きまして」

「誰から?」

「ええと、知り合いから。あ、私成人はしてます」


 一般的な客への口調とは全く違う私の対応に、少女は怯えるかと思えばそうではなかった。しかし腹が据わりきっているわけでもなさそうだ。言葉に迷いや緊張が窺える。

 というか成人しているなら少女ではないのか。見たところ高校生か中学生でも充分通る幼さが随所に残っているが。


「成人してればホイホイ売るわけじゃないの。特にそんな、如何にもこの町に初めて来ましたっていう恰好の子になんか」


 目立つことを恐れたのだろう。流行りでもない形の、色のくすんだ服で全身を固めていた。初夏のこの季節に黒タイツまで使う徹底ぶりだ。しかしそれがかえって悪目立ちする。


「はい、まあ。煙草を買うために初めてこの町に来ました。あと、ごはん食べれたらいいなあって」

「観光地じゃないことぐらいわかってるわよね?」

「はい」

「どこから来たの?」

「駅の向こうの、あのマンションからです」


 都市を代表する大きな駅の南側は、その駅に見合うよう何年も掛けて開発され続けた。そのために追いやったり追いやられたりした結果手が付けられなくなったのが北側のこの町だ。

 彼女の言うマンションは、開発のトドメとして最後に建築された超高層ビルだ。遠近感を無視するように建ったそれはまるでこの町を見下すか、または監視しているように思えて、ずっと気味が悪かった。


「それで、どうですか。買えますか」

「買ってどうするの」

「人にあげます」

「じゃあ、吸う人が買いに来なさいよ」

「それは無理でして」

「あ、もうめんどくさい。なんなの」



 押し問答を放り投げると、彼女は淡々とした口調で語った。

 好きになった人から、煙草を仕入れて来たら付き合ってやると言われたこと。たまたま男性が煙草を買って出てきた店を見つけたこと。

そして、そこの主人が女性なのを見て、ここに入ってみたいと思ったこと。


「要するに、煙草は建前で、ここに来てみたかったんです」


 どうしようもない男に惚れている自覚はあるらしいが、その彼を好きになったのもこの町に近いにおいを感じたからだから仕方がない、と彼女は言った。


 あっそ、と言いながら台所に向かうと、彼女は尚も、買えませんか、と食い下がってきた。その言い方に引っ掛かるものがあったので、私はきつく言い渡すことにした。


「アンタには売れない」


 買えなくてもいい、という雰囲気を感じたのだ。煙草は建前という言葉は真実らしく、彼女はここに座っていることにひとつ大きく満足しているように思えた。


 それなら、ごはんも食べさせて、もっと満足させてさっさと帰らせるに限る。冷蔵庫の戸を開けた私に、彼女はカウンターを乗り越える勢いで前のめりになった。


「作ってくれるんですか?」

「ごはん無くしちゃいたいから、ごはんものでいい?」

「はい。なんでも」


 釜を見るとまだ白飯が残っていた。一人分にはちょっと少ない量だ。


「味の好みは?」

「こってりしたもの以外なら」

「……チーズは?」

「チーズは好きです」


 会話をしながらメニューを考えていく。この量の白飯で丼ものをするわけにはいかない。嵩増しできるものでなくては。

 そう思いながら野菜室を開けると、竹輪と目があった。そうか。こいつか。


 まな板の上にピーマンと人参と竹輪を並べる私に、彼女が問うてきた。


「お姉さんは、ずっとここに居るんですか?」

「いつからをずっとって言えばいいのかわからないけど、生まれつきじゃないわ」


 竹輪は一本をちょっと雑な輪切りにし、野菜は全部を使うと多いので、小指程の量を切り出して冷蔵庫に戻した。フライパンに油を引いて温めつつ、まな板に残した野菜をみじん切りにする。


「アンタみたいに普通にきれいな街で、きれいに育てられて、結婚もさせられたわ」


 フライパンに野菜たちを投入し、木べらでまんべんなく広げる。パチパチと野菜の水分が弾けていく音が耳に心地いい。


「初めて実家を出て、旦那と自分の好みに合わせて料理も洗濯もこなして。たまに母に料理を作りに帰ってたんだけど、ある日言われちゃってね」


 焦げないよう見張りつつ、釜ごと取り出して白飯の中に卵をふたつ割り入れた。ぐるぐるかき混ぜ米粒ひとつひとつに卵を絡ませる。


「私の料理で育てたのに、私の味と違うものばかり作って寄こすのは嫌味なのかって。毎日甘辛風味ばっかり食べさせてた娘が、無意識にポン酢とかシソとか使ったもんだから」


 火が通った野菜や竹輪の上に、卵かけごはんをぼとりと落とす。木べらで一度フライパン全体に広げ、その上に振りかけるのは塩、胡椒、ナツメグだ。


「二十年以上の人生全てに母の顔色だけを窺っていたのに期待通りに育たなかったんだと気づいたら、もう、向こうでは生きていけなかった」


 ざくざくと切るように混ぜ、出来上がった中身を用意していた耐熱皿にこぼさないように移す。うまい具合にパラパラだ。このままチャーハンとして出しても良いのだが、ここからさらにもうひと手間。

 ケチャップを掛けチーズを載せ、オーブントースターで三分焼く。


「じゃあお姉さんは、息苦しくて、こっちに移り住んだんですか?」

「そうね。あっちの世界の中で引っ越したって、結局きれいな空気を吸うことに変わりはないもの」


 高い音と共に、オーブントースターの中の灯かりが消えたので取り出す。いい具合にチーズがふつふつと盛り上がっている。私は完成したそれを彼女の前にコトンと置き、台所の小窓を開けて目の前で煙草に火をつけてみせた。


「ホワイトソースが苦手な私が考案したグラタンもどきよ」

「うわあ、これすごい。美味しいです!」


 チーズの熱に息を吹きかけ頬張る彼女は、最初の一口を妙に躊躇っていた。その様子と先程の言葉に、彼女の考えがよく滲み出ているように思えた。


「黄泉の国じゃあるまいし、ここの食べ物を食べたからって、この町の住人になれるわけじゃないわよ」


 バレてましたか、と彼女は残念そうに笑った。


「私も、向こうの生活が毎日息苦しくて。ひょっとしたら自分はこっちがお似合いな人間なんじゃないかって思って。どうしても一度」

「今のアンタにはまだオススメできないわね」


 この町に住まいを持つことは、経歴に大きな傷をつける。もう一度元の生活に戻ろうとしても、世間がそれを許さない。

 この煙草を売っていた男の顔を思い出した。闇マーケットの空気に怯えてはいたが、そこに足を踏み入れてでも自分の目指すものを作りたいという目の強さを。


「私がこの町に居るのは究極の逃げだけど、究極の自己否定でもある。そんぐらいの覚悟ができるまで、アンタはあっちで暮らしなさい」





 強い口調で咎められしょぼくれた顔でそれでも完食した彼女を、私は町の外まで送ることにした。幸い、私の家は町の入口にほど近い。最深部にいるような輩たちに彼女を遭遇させることなくやり過ごすのは簡単だった。


「私、もうここに来ちゃだめですか?」


 歩きながら、彼女がゆっくり問うてきた。食事前の勢いは私の一喝で立ち消えてしまったらしい。

 私は彼女の事情をあれ以上深く訊かなかった。訊けば私は簡単に同情して、そして簡単にごはん以上の何かを差し出してしまっただろうから。


「今食べたものは、しばらくは、アンタの体に居座るよ。この町の要素を体に抱えてるって思いながら暮らしてみな」


 煙交じりの私の言葉に、彼女は小さく頷いた。ちょっと触れた程度で満足する人間はいる。入口のほんの一食でその満足が得られるのなら、その時間はできるだけ長い方が良い。


「それでもし、また補給したくなったら?」

「まあ、そん時は来れば。台所ならあるから」


 小さくなっていく姿に手を振り終えて、引き返しながら私は新しい煙草に火をつけた。煙草を吸う中で二番目に好きなのは、吐いた煙が町の灰色に溶けて行った時。自分が町に淀みの餌を与えているようにも、吐息が自分の一部として町に食われていくようにも見えるこの景色が、悲しくて心地いい。


 陽は殆どなくなり、足元に闇が広がり始めた。私は帰ったら食器を洗わなければと思い出しながら、その闇の中へ体を沈めていった。

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台所ならあるけど 花 小露 @rosahorn

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