台所ならあるけど
花 小露
第1話
開けた窓から、もわっとした灰色の空気が入ってくるのが見えた気がした。
私はその空気の重さに対抗するように、背中に力を入れてうんと大きな伸びをする。おかげでこの町の空気が一センチぐらいは持ち上がったかも知れない。
おおい、と呼ぶ声が聞こえたので窓から半身を出して下を見ると、向かいの八百屋の主人が短くすり減った箒を私に向かって振っていた。
「今日は下は開けないのかい?」
「もうすぐ開けるつもりだけど、コレ一本吸ってから」
煙草を見えるように掲げ、ポケットを探って出てきたライターで火をつけた。ちょっとの焦げと、厳つい香りが灰を押し広げていく。
「いいのが手に入ったのかい?」
「ちょっとキツいけど純正に近いよ。あとで買いに来れば?」
「なら、ひとつ予約で」
箒を振りながら、主人は自分の店に戻っていった。私は見送りながらまた一口吸う。一番好きなのは、煙を吐き出した瞬間だ。
この町は、とにかく暗い。不法投棄が当たり前だから。闇マーケットを抱きかかえているから。住人の哀愁とか犯罪とか、光に当てたくないものを隠すように建っている、まばらな背丈のビルが生む影があるから。
イロンナモノを抱える町の淀みは空気の色に反映されている。この町では真っ赤な花でさえ薄汚れて見えるのだ。
そんな灰色の世界に、私の口から吐き出される白い煙は美しく際立つ。
看板を出そうとして戸を開けると、常連が目の前に立っていた。
「何、待ってたの?」
「いや、ちょうど今来た」
「あっそ。掃除手伝ってよ」
大柄な体格に似合う低い声で、いいぜ、と返すこの男ももちろんこの町の住人だ。初対面の時はその三白眼に迫力負けしそうになったが、何故か今では顎で使える関係が成り立っている。
「カウンターとか座敷の台拭いて」
「ん」
「ちゃんと消毒スプレー使ってよ」
「ん」
「そんで今日は何よ。ごはん?」
「ああ。飯と、あと新刊」
棲みついた建物の一階が元飲食店のままだったので、私はそこを活用することにした。決まったメニューやきちんとしたサービスを繰り返す気にはならなかったので、看板に書いたのは「台所ならあるけど」とだけ。
溜まり場に台所がくっついているだけ。冷蔵庫の中身次第で何か作って出すけど、御酌は一切しないわよ。そんな気持ちの表れだ。
こんなやり方でも人は来るしお金は稼げる。こいつみたいに私が買って置いているマンガ目当てで来る奴もいるし、みんなどこかこの緩さを求めているようだ。
「何が作れる?」
本棚からマンガを引き抜きながら問うてくる声に、私は唸り声を返した。
「お米は昨日の残りがあるんだけど、おかずがねえ。豚肉と鶏肉どっちがいい?」
「豚肉」
「中華風と洋風どっちがいい?」
「……洋風」
「じゃ、お向かいに行ってキャベツ買ってきて」
ポイと財布を放って店から追い出す。その間に私はフライパンに水を張って火にかけた。沸騰するまでには帰ってくるだろう。
まな板にトマトを出し、サイコロ状にカットする。固形コンソメ一つ、若干の塩コショウと一緒に小さなボウルに入れて待機。
ちょうどいいタイミングで彼が帰って来たので、キャベツだけ受け取り他の買い物は冷蔵庫に仕舞うよう指示する。
「他は何買ったの?」
「ピーマンと、ニンジン。あと竹輪貰った」
「なんで八百屋で竹輪?」
「竹が植物だからじゃねえの?」
「竹輪は魚のすり身よ、ばか」
馬鹿な会話をしている間にお湯が沸いた。キャベツの葉を五枚ほど丁寧にちぎり、よく洗ってからざくざく切る。芯を取り除いてきれいな短冊型を揃え、湯の中にばさりと入れた。
ぼこぼこ暴れるお湯の中で薄緑の葉たちが泳いでいる。茹で過ぎないよう監視しつつ次の準備も大切だ。まな板の水分を拭きとり、片栗粉を引いた上に豚バラ肉を三枚ずつ半重ねで並べていく。
フライパンに目を向けると、キャベツがちょうどよくしんなりし始めたところだった。流し台にざるを置き、その中にフライパンの中身を注ぐ。一応水を流しながらやったのだが、それでもボコンッとステンレスの動く音がした。
フライパンの中に残る水分を拭きとり、今度はオリーブオイルを引いて再び火にかける。次はこの油が温まるまでに焼くものを完成させねばならない。
水気を切ったキャベツを揃え、豚肉の端に置く。転がしてくるくると巻き、肉の外側に片栗粉をまんべんなくつけ蓋をする。
そうしてできた肉巻きを温まった油の上で焼き、全面に火が入ったところでボウルに作っていたトマトたちを投入し絡めながら熱せば、もうあっという間に完成する。
読んでいたマンガから皿に移された男の目は、珍しさに見開かれていた。
「ロールキャベツの逆バージョン。キャベツで肉ダネ包むより、肉でキャベツ包んだ方が簡単だから」
「へえ、すげえな」
残り物の白飯と一緒にがつがつ食べる男の横で、私は自分用に切り分けたものをつまんでみた。
やっぱりひき肉を捏ねたものとは違うので、嚙んだら肉汁が出てくることはない。でも表面にまぶした片栗粉のおかげでトロッとした表面は舌ざわりが良いし、トマトソースも良く絡みついている。
「旨かった」
食べ終わった男が自主的な後片付けをし終えた頃、八百屋の主人がやって来て約束通り煙草を買って帰って行った。
「新しいの出てんのか」
その様子を見ていた男が、箱をひとつとってしげしげと眺める。
「マーケットに出るの初めてっていう風な男が売ってたから、いつまであるかわからないけどね」
ここ十年程で嗜好品は尽く税を引き上げられ、まるで関わることが罪のように言われている。酒はまだ料理などで必要な分仕方なく認められているが、煙草は製造や販売に携わる全ての会社が潰れてしまい、私が成人する頃には闇マーケットで売られる個人の密造品しか出回っていなかった。
町の影に隠れるように売り買いされる煙草は、悪い薬を混ぜる目的で作られているものと、今はない純正の嗜好品を再現したくて頑張っているもののふたつがある。私が買うのはもちろん後者だ。たった一箱だがプレミアものの純正を持っていて、それに近い密造品をマーケットで探し出しては仕入れてここに来る奴らに分けてあげている。
「なんで煙草が好きなワケ」
今や煙草はがっつり悪に堕ちた象徴だ。関わったせいで町から出られなくなった人間も何人か知っている。
「さあ、なんでだろう」
曖昧な返事に踏み込まないまま、男は眺めていた一箱をそのまま買って出て行った。
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